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単行本が出た当時、かなり話題になっていた1冊。
かなり限定された読者層を思い描いていたそうで、ここまで話題になるとは著者も思っていなかったとか。それを念頭にパラパラと読み返してみると、当初考えられていた読者層の片鱗は随所に見られる。
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第七章 英語教育と日本語教育 より
p364
思えば、日本人は日本語を実に粗末に扱ってきた。
日本に日本語があるのは、今まで日本に水があるのがあたりまえであったように、あたりまえのことだとしか思ってこなかった。
(中略)
「西洋の衝撃」を受けるとは、西洋人こそが人間の規範に見え、それと連動し、西洋語こそが人間が使う言葉の規範に見えるということにほかならない。
(中略)
ISETANやらKeioやらSEIBU。西洋語のカタカナ表記の氾濫は、ああ、もしもこの日本語が西洋語であったら……という、西洋語への変身願望の表れでしかない。
そもそも政府からして、翻訳語を考え出すこともせず、西洋語のカタカナ表記を公文書に使って平気である。
恥ずべきコンプライアンス(=屈従)。
(中略)
(日本語が漢字、ひらがな、カタカナの三種類の文字を使い分けることに言及し)表記法を使い分けることによって生まれる意味の違いとは、(中略)明朝体が使われていようと、ゴシック体が使われていようと、そのような視覚的な差とはまったく関係のないところから生まれる、意味の違いである。
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
という例の萩原朔太郎の詩も、最初の二行を
仏蘭西へ行きたしと思へども
仏蘭西はあまりに遠し
に変えてしまうと、朔太郎の詩のなよなよと頼りなげな詩情が消えてしまう。
フランス行きたしと思へども
フランスはあまりに遠し
となると、あたりまえの心情をあたりまえに訴えているだけになってしまう。
だが右のような差は、日本語を知らない人にはわかりえない。
▼「日本語とはどういう言語か」
(石川九楊、講談社学術文庫)p22、204
漢字とひらがなとカタカナという三種類の文字をもつという点において、日本語は世界に特異な言語である。この特異性と比較すれば、日本語の文法的な特徴なるものは微々たる差でしかない。
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寡作ながら日本近代文学の系統を唯一現代において引き継いでいると言っても過言ではない作家、水村美苗による言語論。
言語を巡る歴史を紐解きながら<普遍語>・<現地語>・<国語>という3つのカテゴリの関係性を明示した後、インターネットの台頭などの社会変化により、英語が<普遍語>として一極化する現代において、日本語という世界でも稀有な文法性質を持ち、世界に名高い近代文学の系譜を持つ言語が消失しようとすることへの警鐘を鳴らす。決してここで述べられているのは、回顧主義的な議論ではないし、英語の世紀においてはむしろ自国語を適切に操れるようになること、そしてそのために国語教育を強化すべきという議論の流れは納得度が高い。
専攻研究としては、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」や柄谷行人の「日本近代文学の起源」などに依っており、国民国家と文学の関係性を現代風にアップデートとした議論としても読むことができると思う。
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JMOOC OpenLearning, Japan「グローバルマネジメント(入門)」Week3参考文献。
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正直、〝日本語が亡びる〟とまでは思わないが、英語中心の世界に一石投じたものとして興味深く読んだ。単行本が発表された当時、良くも悪くも話題になった。今回増補版として当時の反応に対する〝返答〟もあるので読んでみることにした。
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単行本(2008年)が話題になったときにめずらしく買って読んだが、このたびの文庫化に際してその後の文章もずいぶん追加で入ったらしいので改めて購入。
刊行当時「日本語が亡びるとき」というタイトルがこうもセンセーショナルに話題になるとは著者も思いもよらないことだったらしい。
2020年11月、受験を控えた高3長女が読んでいる。
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面白いけど読むのに時間がかかる本でした。
日本語について示唆に富む内容の本で、様々な視点を与えてくれました。
図書館で働いていると、「夏目漱石の『こころ』の現代語訳ないですか?」とか「中島敦の『山月記』の現代語訳ないですか?」は一年に必ず一度は聞かれる質問で。そのたびに「現代語訳に訳したら世界観変わるやん!なに考えてんねん」と心の中で思っていたのですが。第7章「英語教育と日本語教育」を読んで、なぜ自分がそう思うのかが分かりました。アルファベットだけで表せる英語と違って、カタカナ・漢字・平仮名・ローマ字などを持つ日本語においては「どう表すか」も大事な点なんだなと。そしてなぜ「読みにくいから現代語訳で読みたい」と思うのかも。(日本の国語教育は「日本近代文学を読み継ぐこと」を大事にしていないからだと思われる)
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刊行当初からおおいに反響を呼び、第8回小林秀雄賞も受賞した話題作だが、読んでみて正直ガッカリした。たしかに、示唆的な内容も多く含まれているし、たとえば「社内英語公用語化」や近年の教育改革などにおいて、まるで英語さえできればすべて良しとするような傾向は眼に余る。それよりはまず日本語や日本文学をシッカリ学ぶべきであるという著者の主張には頷けるものがある。しかし、だからといって、日本近代文学こそ至高であるというような考えかたはいかがなものか。夏目漱石が国民的で模範的な作家であることは否定しないが、近代文学といっても玉石混淆である。文法などがまだ確立していないために、今日の規範でいえばどうかという箇所もままある。とうてい絶対的なものとは呼べないであろう。著者はけっきょく、漱石や鷗外など、もともとすばらしいものを同語反復的にすばらしいといっているだけなのではないか。全篇にわたってこういう著者の思い込みにも似た主観ばかりが登場するので、読んでいて疲れてしまう。曽野綾子にはわたしはまったく共感しないが、文章の感じは似ているように思う。曽野は近ごろ話題の「反知性主義」を代表するような人物だが、この本もまた「なんちゃって知性」で色づけしただけで、内容的には曽野と同レヴェルではないか。この作品しか読んでいないので、著者を全否定するつもりもないが、文章もまったくおなじ文末表現の文章を無意味に重ねるなど、ハッキリいってぜんぜんうまくない。文学賞を受賞しまくっている作家が書いている文章とは思えない。こういう作品を自信満満で上梓されると、問題提起以前の問題であるという気がする。
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センセーショナルなタイトルだが、本書を読むと、現実のものとして日本語が亡びる日が来てしまうようにも思えてくる。
日本語だけでなく、言語についての考察はとても素晴らしかった。
国語と現地語。今まで考えてもみなかった。
そしてまた、現在の普遍語である英語を母語とする人々の自らのアドバンテージへの無自覚さ。
英語で書くことの重要性。英語の図書館に出入りするのは、アカデミックの世界だけの話ではない。
私自身、編物をするようになって英語でパターンを書くことの重要性を痛感している。
過去に英語公用語論や、漢字を廃してアルファベット表記にする案など、日本語が危機に瀕していたことは驚きだった。
そのような状況下にありながら、今現在、漢字仮名交じり文や世界唯一の表意文字である漢字を使用していることは、それらが理にかなった素晴らしい言語だということを証明しているのではないだろうか。
本書のタイトルは、漱石の「三四郎」の中の台詞から取っただけで、人を驚かせようと思って付けたわけでないそうだ。
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「読まれるべき言葉」真に優秀な二重言語者は日本語を捨て、英語を選択する。それはインターネット社会になり英語の有用性が確実となったからだ。そこでは、有益な情報を得るためには英語で読まなければならず、自分の意見を広く知らしめるためには英語で書かなければならない。
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この本を読んで「『三四郎』読みなおそう」と思った読者なので、たいへん興味深く、かつ共感しながら読んだ。
実際のところ、私自身が「自分よりも下の世代に近代文学を読んでもらいたい」と思っているタイプの人間なのだ。だからこそ、日本語にこだわるし、その存在にありがたみも感じている。
好きだから、その価値をわかってほしいという気持ちがある。
<普遍語>としての英語の時代は、すでにもう来ているし、それは他人事ではないのだなぁ、と自覚しなければならない。しかし、実感が湧かないというのが正直なところで、それは現代においてもどれだけ日本人が英語を話せないかを見ても一目瞭然なのではないだろうか。
つまり、「英語を話せなくても生きていける」というのが現状で、その現状維持だけでやってきた私たちにとって、それはリアリティがないのだ。
だからこそ、「日本語の危機」にも実感がない。なんだかんだ言って、漱石も鴎外も芥川もまだまだ本屋に「ある」ものだから、それがなくなることを想像したことがない。
私自身、ま、それで充分だよねとどこかで思っていた。いや、そのことについて、どこかで諦めていた……「漱石がどれだけすばらしく、どれだけ面白いか」について語るのは、昨日見たアニメについて語ることよりも恥ずかしい、というおかしな負い目があった。
しかしこれこそ、英語が<普遍語>であるという理由だけで<普遍語>たりえるのと同じではないか? そうい気持ちこそが、著者の言う「日本語」を<亡ぼして>しまう原因なのではないだろうか?
大多数と共有し得るという理由で、英語という言語を選択する、というのはまっとうなことだ。英語を選ぶ意味は、これからますます増えていくことだろうと、私も思う。
しかし、その選択を取ることで<私たち>はどうなるのか、ということに、この本で初めて気づかされたように思う。<英語を選ぶ>のでもなく、<日本語を選ぶ>のでもない。<英語を選ぶなら日本語はどうなるのか>ということ。
もし「日本語」が亡びるのなら、それはそういう意識の欠如なのではないか、と私は本書を読んでそう思った。
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英語は普遍語だと言うことに、異を唱える人はいないだろう。
日本である一定以上の知識を得ようとしたら、必ず、英語に関わることとなる。(日本固有の事柄なら異なるのかもしれないが、古いものになると中国語が出てくる気がする)
例えば、理系などでは最先端の論文を英語を読み、おのれの研究成果を英語で書く。
英語で書かれた小説は日本語で翻訳されるが、同じ数だけ日本語で書かれた小説が英語に翻訳されることはない。
日本語は亡びるだろう。
私は、近代文学もラノベも実用書も読むし、もちろん翻訳小説も読む。
けれども、国語教育のおかげではなく、国語の教科書に載る作品は初めの頃に読み終え、物足りないと辞書を片手に他の本へ手を伸ばした野生の活字中毒だ。
私のように好きに学ばせるのではなく、国策にて、教養としての日本語の読解能力を高めない限り、日本語で書かれた本を読むという行為のハードルが下がらない。そして、読み手が縮小すれば書き手も縮小してゆく。
うすらぼんやりと「そうだろうなぁ」と思っていた事柄が、これでもか!と熱を持った論調で展開される。
普遍語である英語を学ぶにも、基礎となる日本語の読解能力が無ければ、なかなかに厳しいのではなかろうかとは思う。
日本語で考え、あらわす力というのは果てのない道のりで、活字中毒の私ですら、仕事の書類やメール等の錬られていない10行以上の日本語を読む前にはためらいを覚える位だ。
なんというか、私はそれらに対し、対処療法的な文章構造を考えるように伝えてきたけれど、それは、間違っていたのかもしれない。
さて、私は亡びゆく日本語に対して、どのようにしたら良いのだろうか。
近代文学も面白いよと薦めてみる?
私が当たり前のように思っている読書の楽しみを伝える?
パブリックコメントを求めている時にだす?
何かしたい、という気持ちになる。
簡単で誰でも読みやすい本が優れているのではなく、意味が分からずともついつい読めてしまう、美しい文章に触れる機会を増やしたい。
青空文庫から、美文のスクリーンセイバーやスマホの待ち受け画面など作ったら楽しそうだなぁ。
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「読まれるべき言葉」(文学テキスト)が読み継がれなくなったら国語は亡びる。国語としての日本語を護るには、国語教育において日本近代文学(漱石や鴎外)を読ませなければならない。
そのためには国語の時間を増やす必要があり、英語の時間を減らす必要がある。「全員バイリンガル化」のごとき英語教育の「充実」をやめる。英語教育は限られたエリートに与えればよく、ただし本物の英語力を育てなければならない。学校は英語を読むことへの入り口を提供すればよい。充実すべきは国語教育であり、日本近代文学を読む時間である、という主張だった。
それには納得した。ただ、ぼく自身は、国語教育の本来的な使命として、「論理的に考え、伝える技術」の訓練も重視している。いまの文学偏重の国語教育は、それが扱う作品が現代であれ近代であれ、生産的ではないと考えている。
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1章 アイオワの青い空の下で“自分たちの言葉”で書く人々
2章 パリでの話
3章 地球のあちこちで“外の言葉”で書いていた人々
4章 日本語という“国語”の誕生
5章 日本近代文学の奇跡
6章 インターネット時代の英語と“国語”
7章 英語教育と日本語教育
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私は本書の著者に対して偏見がある。夏目漱石の未完の小説
『明暗』の「その後」となる『続明暗』を発表したことにより、
「余計なことをしてくれるな」と思ったから。
『明暗』は未完のままでいいのだと感じていたのだもの。だから、
『続明暗』も手に取る気はさらさらないし、著者の他の小説も
読んでいない。
なので、私は本書をかなりの確率で誤読しているはずだ。でも、
読み手がどんな反応を示すかはそれこそ十人十色なのではないか
と思う。
グローバル化が進む世界で英語は世界共通の普遍語になりつつある。
英語が世界を席巻したら、日本語は地域語に成り下がる。では、
日本語が国語として生き延びる為にはどうすればいいか。
学校教育で徹底的に近代文学を読ませることだ。「読まれるべき言葉」
は近代文学にこそあるのだ。
かなり乱暴にまとめてしまった・要は12歳で父の仕事でアメリカに
渡り、日本語に接する機会が極端に少なくなった著者の慰めが父の
蔵書にあった日本の近代文学の作品だったから…とのかなり個人的な
体験がベースになっている気がする。
「近代文学、最高っ!現代文学は糞」みたいな書き方になっているの
が非常に気になっていたら、文庫化に際してのあとがきでこの部分を
相当に言い訳している。
「そんなつもりじゃなかったんです」と後から言われても、漱石ほどの
頭脳の持ち主が現代に生まれたら小説を書こうと思っただろうかなんて
書かれたら、「そんなつもりじゃん」と受け取ってしまうのよ。
「英語の世紀」との副題は分からないでもない。日本の企業でも社内
の公用語は英語にしている企業もあるくらいだからね。
ただ、グローバル化=英語のひとり勝ちではないと思う。漫画や
アニメを媒介として日本語を学ぶ外国人も増えているのだから。
高いところから「このままでは日本語は亡びる」って言われても
なぁ。だって、言葉って時代と共に変化すると思うのよ。
本書で何かと比較対象として名前が出て来る漱石だって当て字を
多用しているしね。
近代文学にしろ、現代文学にしろ、小説って結局は娯楽だと思って
いるので、本書のような作品を読んでも「何もそんなに危機を煽ら
なくてもいいのに」と感じてしまった。