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(以下、本書の内容を思い出しながら書いたものでして、精確さを欠くところがあるだろうと思います。また、色々な思い違いをしている箇所もあるだろうと思われます。気づいた点は逐次修正したいと思います。)
他の人が「延長」(空間的な把握における厚み)を手がかりとして見るところで、ベルクソンは、「持続」(時間的な把握における積み重なり)を手がかりとして見る。そして、この取り替えを徹底してゆくことを通じ、人間的な経験に特有の「曲がり道」についての、驚くべき描出がおこなわれる。
なお、「曲がり道」とは、「物質の世界」と「精神の世界」 - 相容れない二つの秩序について、直角に交わったものと(いう喩えを用い)表現したうえで、≪その交点の部分をよく見てみよう、なんとカーブになっていて、徐々に漸次的に向きが変わっているではないか≫ というベルクソンがこの書で提出した「発見」を象徴的に示す語句として筆者が選んだものである。(頂点を下に向けた「円錐」のモデルのほうが有名であるが、筆者には「曲がり道」が印象的であった。) 心身相関論は、(一見したところでは「ミクロ」な)「曲がり道」を見出すことを通じ、認識論という「困難のモト」を除去しつつ刷新されるのである! その取組みの上での名場面を、いくつか順にたどってみよう。(ネタバレありですが、先に知っても悪い気がしないのでないかと思われます。)
第Ⅰ章では、まず独自の「身体論」(「知覚」が「物質の(心や脳裏への)転写」ではない、「物質ぜんたい」の「一部分」である、とするイメージ論)が説きおこされる。「規則どおりの反応や必然的な運動をくりひろげる物質界のなかに、不確定の動点として生命体がある」という原風景。この光景のうえで、「高次の生命になればなるほど、不確定の度合いが増える」という考えのもと、生命的な緊張・持続についての描出が開始される。たぐいまれなオリジナリティを感じさせる描出である。この「身体論」が、物質と記憶のあいだに丁寧に配されることで、本来は明快な説明が困難であった、一方の秩序から他方の秩序への移行というものが説明されることになる。
「再認」の議論をとりあげたところ(第Ⅱ章)では、二種類の記憶があると想定してみよう、との話が切り出され種々の吟味が開始される。「注意ぶかくなる」ことによって、持続の緊張度が高められることが理解できれば、記憶のメカニズムの解明への手がかりの得られることが説明される。当時の生理学や心理学の知見との対決のおこなわれている箇所もある。ベルクソンの考察は、もともと「心身相関論」という姿をとった「霊魂論」(ギリシャ時代の哲学からの流れをくみつつ、デカルトの仕事などを通じ困難がつきまとうことになった議論)の枠組みより出発したものであろう。「問い」の立てなおしの見通しがつけられていることを背景としつつ、従来の科学的な知見では取りこぼされてしまうものが議論の俎上にのせられてゆく。
第Ⅲ章では、いよいよ、科学が、(直角に交わる二つの秩序の)「交点」しか見ないところに、「曲がり道」が見出されてゆく次第が明らかになる。人の精神活動について、≪現在への刺激に反応しつづける自動人形のように振る舞うひと≫により「演じられる」活動と、≪時間の利得(過去の記憶のひろがり)のうえで夢見るひと≫により「思い描かれる」活動の2極を共存させたものだ、という把握のもと、解明がされてゆく。「演じられる」という活動と、「思い描かれる」という活動の2極の想定が、「一般観念」の成立するミクロな現場の解明にまずつながる。また、後続の章で観念論や物質観そのものの刷新へとつながってゆく。2極は、本性を異にする点で、相容れないものであろう。しかし、1つの極だけでは人間として欠けているように思われるという点で、相補的なものであろう。‥ここにあるものは、有効な2元的把握の作動するゾーンを規定する「新しい物語」であるともいえる。(ここで「2極」の「共存」が描かれたことは、前著『意識に直接与えられたものについての試論』の後半に登場する、ピエールとポールが共存できない[自由と必然が両立できないという議論のうえでの]話を思いおこせば、ベルクソンが「持続」を軸とした探究を前進させたとの印象を与える。)
なお、その「新しい物語」は、議論の舞台(フィールド)をせまく取ることにより、かろうじて成り立った人間観にもとづいたものであり、人間観そのものについて「物足りない」という人があるかもしれない。なんせ、「一般観念」という話題のうえで、演じられた類似と思い描かれた類似が重なりあう、と指摘された箇所が、人間的経験の人間らしさの極みであるかのようにも読める。知覚と記憶について、広範な事象が扱われているが、他の箇所の議論のうえでは、(他の生命体との本能的な連続性の考慮が重要であることもあり) さほどの人間らしさが問題にならない(生命体にとっての知覚論から始まったのであるから)。精神活動のすべてを、「知覚」と「記憶」から解明しつくす、という想定には限界がある。とはいえ、私は個人的には、この「配分」(知性の輝かしさにとらわれることなく、本能と直観のしなやかさを優美と思える、そんな「立ち位置」からの眺め)が好きになったのでした。(ベルクソンがその後『笑い』のうえで、「モノ」と「状況」と「性格」の三段階からなる進化論を仮設し、最上級のものとして「虚栄心」について描いてみたりするところに、そういった物足りなさを補おうとする取組みの側面がある、と私は見たい。)
「運動は、その軌跡と同じではない。運動といえば、緊張度の変化(状態の変化)である。」という議論(空間内での物体の運動と、意識の上での感覚や性質を、両極のものとして見ないですむようにする手続きの紹介)のところ(第Ⅳ章)では、知覚を、知るためのもの(知的な認識関心の下のもの)としてでなく、行動するためのもの(実生活への注意力)として捉えることが、二元論的な認識論の弊害から脱する際のカギとなっている。このカギとなる認識については、始めの第Ⅰ章でよく説明がされている。さて、「問い」の立てなおしが次々に遂行され、眺めを変えてゆく叙述の展開そのものの緊張感がすがすがしい。この章では、叙述内容として思い描かれるものの明快さだけでなく、叙述行為の演じられる足どりの輝かしさが印象にのこる。(なお、本書冒頭に添えられた、第7版への序文も、この本で登場する種々の議論について、登場���物の紹介のような切り口で取り上げるようなところがあり、なかなか晴れやかな眺めであった。) なお、赤色の光の知覚を例にあげ、「(知覚が物質の)転写でない」ことの説明とする箇所は説得力がある。波動を話題とすることは、「持続の緊張の度合い」を軸とした、知覚と記憶の接点について、あるいはモノから生命体への連続体についての語りと調子があっている。
ベルクソンが、認識論そのものを退けた議論を展開できるのには、動物の本能についての知見から引き出された「神経の役割」などについての独自の把握(先の「立ち位置」での眺めに不可欠な「配分」での的確さを備えた把握)が土台にありそうなのであった。他の生命との共通部分を肯定的に評価できている(ベルクソンの人間論)のと、他の動物と人間の違い(人間の言語を介した認識能力)に気をとられ大きな水脈をつかみそこねる(これまでの認識論偏重の哲学)のとで、何が違うか、ということが、この本全体を通して明らかになる。第Ⅳ章は、第Ⅰ章から第Ⅲ章までのあいだに枠組みを与えられた各議論をふりかえりつつ、副産物のように新しい議論が得られる、という進み方をするので、なんだか素敵な展開である。
第Ⅳ章のあとに、結論が続く。結論のうえでも、各議論での諸々の帰結がふりかえられており、最初は叙述がダブっているように思わせられる。しかし、結論では、第Ⅳ章により道をつけられた新しい議論を前提としつつ、さらに遠くまで連れてゆかれる――自由と必然が両立する局面についての描出。ここへ来て、これまで様々に困難であるとされていた(哲学上の)問題についての、不思議な打開点のうち立てられたことが実感される。
(★ 訳文も好きでした。訳文の特徴[読点を多く配し、思い切って原文のリズムやペースにとらわれず、日本語の文章がこしらえられている]についてと、「曲がり道」という語の[本書上の]出典などについては、別のところで書いたはずなので割愛しています。)