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白洲正子は、日本の能楽、骨董、古美術等の造詣が深く、それらについての随筆を多数残しているが、今般、角川ソフィア文庫から、骨董に関する随筆を集めた本書『なんでもないもの』、美術に関する随筆集『美しいもの』、祈りに関する随筆集『かそけきもの』の3巻が発刊された。
白洲家と付き合いが深く、本書の編者でもある古美術評論家の青柳恵介が解説で、「小林秀雄に「だから素人はおそろしいよ」と言われたことを、むしろ自慢げに書いている、その素人性である。五十年も骨董の売り買いをやって、それでも自分は素人だという基点からものを見、ものを書く」と記した白洲正子であるが、本書では、古伊万里、織部、信楽などの日本の古陶磁から、中国の磁器、古代のガラス細工、十一面観音に至るまで、骨董についての様々ない思いを綴っている。
「青山二郎さんにこんなことを言われました。「あれは誰が持っていても一流のものだ。何もわざわざ買うことはない。自分が持っているから値打ちがある、というものばかり目指したらどうだ」。」
「鑑賞とは、たびたび言いましたように、手をつかねて物を眺めたり、人の説明を聞くことではなく、自分でそれを作った人の行為に参加することをいうのです。・・・「百聞は一見に如かず」をもう一歩すすめて、「百聞は一つの行為に如かず」というのが、美術に近づく一番の近道でしょう」
「いつか細川護立氏に、・・・「これは本物以上に本物すぎるから、たぶん贋物だろう」といわれたことを思いだす。そんなことを見聞きしていると、何を、誰を、信用していいかわからない。ただ、自分の好きなものを買うだけで、それがたとえ後で贋物とわかっても、決して損はしないものである」
「骨董は、いってみれば古典文学と同じもので、美しい物だけが、長い間の風雪に耐えて生き残るのである」
「日本の道具は、鑑賞陶器とは違って、人間が使うところに意味がある。いや、使わなければ死んでしまう」、「博物館に入ることは死を意味する。たとえば鑑賞するだけの中国や西欧の陶磁器は、展覧会のガラス越しに眺めても一向さし支えはないけれども、茶碗のように身近に使うものは忽ち生命を失う」等
これまで全く知らなかった骨董の世界を垣間見、白洲正子の審美眼を支えるものに僅かながらも触れられたように思う。
(2015年8月了)