投稿元:
レビューを見る
阿佐田名義の作品も好きですが、私的にはこちらの方が好きですね。
エンターテイメント度は断然下がりますが。
投稿元:
レビューを見る
色川武大の私小説は、現実なのか作者の想像・妄想の類いなのかの境界線が曖昧な所が良い。
自分の現実とかけ離れていて、安心しながらとろとろ読んでいると、深い屈託の中に引き込まれていてなんとなく頑張れば出られるんだけど、出るのもなぁみたいな気分にさせられる。
それでまたとろとろと色川氏の世界に埋もれていってしまうわけです。
投稿元:
レビューを見る
難しくて読むのに時間がかかった。
父親に対する気持ちは共感できた。
父親を捨てたっていう表現が何度かあって切なくなったなー。
ただ、暗くて...
もっと時間が経てば違う捉え方ができるのかな。
投稿元:
レビューを見る
色川氏の家族を綴った私小説。
弟との関係を描いた「連笑」、
幻視との奇妙な付き合いが恐ろしい「ぼくの猿 ぼくの猫」、
老耄の父親に振り回される家族を描いた「百」それに続く「永日」。
自分の家族と照らし合わせて読まずにはいられなかった。
どんなに逃げて離れたくても、ついてくる家族という因縁。
子供のころに抱いた劣等。
それでもなお、死なないでほしいという執着。
この世に生を受けた以上、逃れることのできない宿命が家族なのだと思い知らされた。
色川氏の底が知れない優しさに包まれて、絶望の色が薄まるようだ。
この作品に出会えて本当によかったと思う。
投稿元:
レビューを見る
家族にまつわる私小説集。
『連笑』
――殴れば泣いてしまう、そのくせどこまでも後をついてくる――弟と、私。
『ぼくの猿、ぼくの猫』
軍隊でも、社会でも、家庭でも、終始ちぐはぐな父親。
「ぼく」は、毎晩、猿や猫の幻をみる。
のちにわかる、ナルコレプシー(睡眠障害)の症状が如実にあらわているお話。
『百』
「哀れなもンだなァ――孫に何かをやるのに、百まで生きなけりゃならん」
父親が老いていく。
すぐ死ぬだろうと思っていた父親は死ぬことなく、ひたすらに老いていく。
『永日』
父親が40のころの初子だった「私」にとって、父親と死は深く結びついていた。
この人は、私が成長するどこかで死んでしまうだろう、死とぶつかって、どうやって得心するのだろうかという興味をずうっと持っていた。
ほかのどの面でも父を凌駕していないのに、体力だけが勝ってしまう。
全部で負けなければ。
私のような男は、そうでなければ人を愛せない、許せない。
誰しもが経験のある絶対的な「家族」の存在、存在感。
『連笑』では弟に焦点をあてていたが、それ以降の作品はすべて父親に重きをおいている。
父親の絶対感と、死んでしまうと達観してそっぽを向いて全部を母親と弟に託していたのだが、いざ迫りくる父の死に絶望している「私」。
家族だからこそ許される「勝手さ」と、それぞれの「主張」が、なんともリアルで、ぞっとした。
投稿元:
レビューを見る
今読み終えた本が私小説短編なのであるが、その“私”の一言ひとことが池松壮亮の声で再生された。ということで、色川武大「百」読了。
投稿元:
レビューを見る
―私は弟を貴重なものに思いだした。
軍人だった厳しい父親と影の薄い母親。
薄暗い家に弟が生まれ、少し大きくなると、
どこにでも付いてくるようになった。
充足というものの欠如。
父親の影響だけではないだろう、生まれながらに持ってきた屈託。
弟は著者のそういう部分を見てきた。
どうにもならない部分に対して、ふっと笑い合い言葉を交わす。
兄弟ってこういうものなのか。
そういう相手がいるということに、破天荒な生き方の著者に対して、全く関係のない自分の胸が、ほうっと温まる。
弟の結婚式で、もの思う著者の言葉が突き刺さる。
「おい、お前、こんな程度の晴れがましさを本気で受け入れちゃ駄目だそ。
烈しい喜びを得るつもりで生まれてきたことに変わりはないんだぞ。
式次第で生きるなよ。コースは一応もうできたんだから、あとはどうやってはみだしていくかだ。
とにかく、淋しく生きるなよ・・」
投稿元:
レビューを見る
「好き」と「嫌い」の二言では表せない血族のしがらみ。
とんでもない暴君が家族のなかにいて、毎日緊張、毎日疲労。
それでも、社会的にも個人的にも完全には離れられない悪循環。
これは、問題を「背負う」というより、
問題に「取り込まれてしまう」あるいは「引き寄せられてしまう」
そんな感じ。
投稿元:
レビューを見る
「居眠り先生(伊集院静)」から興味を持って読んだ。歪な親子関係を軸に人生について考えさせる。主人公の状況が特殊すぎて理解しづらい部分もあるが、大筋では「読んで損なし」の印象だった。老いることについて考えさせられる。
投稿元:
レビューを見る
20150602 何と無くムズムズする話。真剣に捉えれば誰もが体験することなのかも知れないが難しく考えるとこうなるのかも。考える人が減ってるような今日、この本の成果かためされると思う。
投稿元:
レビューを見る
幼少の頃、近い過去、現在、そして幻想。ナルコレプシーをかかえているからか、時制が錯綜しているし、父親や弟について同じ事を何度も言及してて、物語として流れてなくて読みにくかった。これが味なのかも知れないが、一読しただけでは良さが分からなかった。
投稿元:
レビューを見る
色川武大さんの私小説『百』を読了。彼の別なペンネーム阿佐田哲也で書いた麻雀放浪記は読んだ事はあったが純文学系はなかったもだが伊集院静さんが書いた『いねむり先生』を読んだときに著者に興味を持ち買ってあった小説が『百』だ。色川武大さんと父親との確執をテーマにした小説二つとストレスの高いで家庭においての猫などのペットとの暮らしとその他に彼の目にだけ見える不思議な生き物との毎日を描いたものがひとつ、弟との不思議な絆に関しての小説一つを合わせた計4編を集めた小説集なのだが、読み終わって印象に残っているのはどんなときにでも主人公の脳裏からはなれない父親との関係であり、老齢期に入った父親との関係を主に描いてあるので歳をとった親と離れて暮らす自分の事も少なからず考えさせられた。そんあちょっと重たい年を取った家族との関係を描いた小説を読むBGMに選んだのはTony Bennettの"I left my heart in San Francisco". 50年以上も前のヒット作で、いまも現役なのがすごい。
投稿元:
レビューを見る
図書館で。
父と息子、母と娘ってのはなんだか言葉には言い表せない絆というか確執みたいなものがあるのかなぁ、なんてことを思いました。
幼少時から早くに死ぬと思っていた親が結局96まで元気ってのは皮肉な話です。しかも定職にも付かず、働きに出ている妻に手を上げるとかホント、最低としか言いようがないけどこういう男性昔は多かったんだろうな。今なら即離婚されてるレベルだ。
そして母親のはたらく店でお金を盗んでいたらそりゃあ経営者の娘に乞食扱いされても仕方ないのではなかろうかと。冷静に読むとマトモじゃない。
割とマトモな方である母と弟に対し、父と自分は分かり合えるとか思っている辺りこの作者もどうなのかなぁと思いますが結局作者の方が先に亡くなったのではなかろうかとか思うと人生は皮肉ですね。
投稿元:
レビューを見る
私小説になるのだろう。
色川武大とその弟、母親、父親、その他親族との関わり合いや愛憎入り乱れた葛藤を描いている。
著者自身、ノーガードで自身のダメな部分や醜い部分を、あますところなく書いている。
自嘲気味、という訳ではなく、割とドライに、それでもあまり俯瞰しすぎずに、程よい距離感を保って書いている。
まさに色川武大その人そのものを読んでいる感覚に陥る。
読んでいる間はずっと、作者と共に喜び、悲しみ、途方に暮れ、自己を嫌悪する。
それにしても、なんて文章を書く人なのだろう。
決して独特な言い回しでも、強い個性がある訳でもないのに、一行一行が、単語の一つ一つがこれほどまでに心地よく流れ込んでくる作家も稀だ。
万人向けの作品ではないだろうし、もしかしたら排他的な印象を持つ人もいるかも知れない(思うに私小説って排他的な分野のように思える)。
その分、好きな人にとっては、つまり色川武大という作家に思い切り肩入れ出来る人にとっては、たまらない魅力を持った作品だと思う(決してエンターテインメント的な魅力とはいえないが)。
色川武大の人を見る目、人との付き合い方、人付き合いに対する彼なりの哲学、優しさとだらしなさ、自己に対する嫌悪と憐憫、それらすべてがとても愛おしく感じられる。
僕にとって本書はそんな作品だった。
投稿元:
レビューを見る
退役軍人の父親との親子関係をつづった私小説短編集。
起きていることをあるがままに受け入れるということは
実は大変なこと。でも、この親も、この子(著者)も、それ
が出来てしまう。出来てしまうと言うよりは、そうする
("身幅で生きる")ことしか知らないと言った方がいい
のかもしれない。
逃げることなく、面と向かう。ただこれだけのことに凄み
すら感じてしまう。
苦くてざらついた小説。読み応え十分。