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著者の講義を
2023/09/04 11:05
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投稿者:zzz - この投稿者のレビュー一覧を見る
YouTubeで見た。
彼らの筆跡はフェニキア文字に通じる。
また全生命が言語を持ち、最近ではテルアビブ大学が、
植物が言語を持つと解明。
ただ言語学的に見ても言語そのものの正体も依然不明。
これらが断片的なのは、脳を含む全体像が不明なため。
大脳生理学の研究結果が待たれる。
他分野との連携で新局面が見える。
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國學院大學人間開発学部教授。
※國學院大學図書館
https://opac.kokugakuin.ac.jp/webopac/BB01584947
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「重度の知的障がい者と呼ばれる人たちは、実は言葉を持っている」という、衝撃的な内容です。
それが真実かどうかは私には分からないけれど、そう考えることは、物事を良い方向に進めそうだと思う。
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著者は、重度障害者と呼ばれる人びとが、周囲の人びとと言語によるコミュニケーションをとることができるよう、独自に開発した装置やソフトも駆使しながら、ひとりひとりの適性にあわせた支援を実践している実践者であり研究者だ。本書では、長年にわたる試行錯誤の過程を通して、重度の障害をもつ人びとが言語によって自らを表現する手段を手に入れたときに、どのようなことが起きるのか、それは、知的障害者に対するこれまでの理解をどのように変えるのかを記している。読むほどに驚愕し、自分の中の知的障碍者に対する偏見を揺さぶられた。
重度身体障害のために発話によるコミュニケーションが難しい人たちがいることはよく知られているし、彼らをサポートするような装置があることも知られている。でも、いわゆる知的障害者と言われる人たちについては、そもそも言語コミュニケーション能力を欠いており、それは「正常な発達段階」における低度にとどまっている――知的発達遅滞だから、という見方が支配的だったのではないか。
著者自身も最初の頃は、発達段階という支配的枠組みに沿った知的障害児への学習支援の一環としてパソコンを使った簡単な文字の学習支援を行っていたというが、その過程で、外見からは思いもよらないほど豊かな言葉を示す子どもたちに出会う。そしていったん、外側からの判断による思い込みを捨てて、どのような子どものなかにも言葉の世界があるかもしれないと想定すると、はい・いいえという簡単な意思表示すら難しかったり、表情の変化さえほとんど見られないような人びとが内側にもっていた言葉がどんどん引き出されていくのだ。
「おもしろいなぜわかるの しんじられない きぶんがいい じがかけるなんておもわなかった うれしい いい できる いいきもち」「じぶんにもことばがかけるとなぜわかったの のぞんでいました じぶんの気持ちをいうことを かんがえたことがすらすらことばになっていきます いいきぶんです」「くるしかったいいたいことをいえなくて きもちいい きもちいい」「小さいときから話したかった。気持ちを言いたかったです」はじめて外界とコミュニケーションできた人たちが爆発的に感情をあらわした瞬間だ。
さらに、中途障害で言葉を失った人や「植物状態」と見られていた人、若年性アルツハイマーや自閉症の人たちにとっても、言語コミュニケーションを補助する支援は、世界とのつながりを重要なやりかたで回復する手段となることが明らかにされていく。
この実践から明らかになることのひとつは、言語理解能力とそのアウトプット能力との間におけるギャップだ。脳に大きな障害が生じても、どうやら言語理解能力は広範な部位で代替されている可能性がある一方、意図した通りに言語を表出するという、わたしたちが無意識に行っている行動には複雑な一連のプロセスが関わっている可能性があるという。
そのメカニズムが解明され、出力を支援するより発展した技術が開発されれば、知的障害の概念は大きく変化していくかもしれない。しかしもうすこし考えるべきことがある。
「人間として認められた気持ち」「人間だからいいた���ことがあります」「人間として生まれてきて聞いてもらいたいじぶんのきもち」「わかってほしいのは人間だから意思があるということ」。
これらの言葉は、いかに言語を使う能力が社会において「人間」として認められるうえで不可欠な一部と理解されてきたのかを示唆するものだ。だからこそ障害者が言語世界を共有していることを認識し、言語による出力を支援することには大きな意味がある。言語表現を手にした重度知的障碍者の当事者は、その意味を強調したうえでさらに、次のように釘をさす。
「私たちはこの方法が見つかる前から言葉を超えるものの存在によって生かされてきました。だから言葉を発することなく亡くなった仲間たちも決して不幸だったわけではありません。…話すことだけに目を奪われてしまうと、かえって言葉を超えるものの存在がないがしろにされてしまうかもしれません」
人間にとっての言葉の本質的重要性を認識し、その共有の可能性を信じて模索する努力とともに、この発見がふたたび「人間」をめぐる分断線を引き直すことにつながらないように。新しい支援の手段を得て当事者研究へと踏み出した人たちはまさにその課題を見つめている。
また一方で、言語コミュニケーション支援の実践の中から、言語を超えるものの重要性が立ち上がってくるさまもとても興味深い。著者は、自分の目による判断を捨てて、相手から伝わってくる小さな合図に自分の身体を同調させるという援助方法がスムーズになってくると、指示によって援助者が行為するという境界が限りなく見えなくなっていき、ついには指示の前に動きはじめることもあるという。もっともそのような支援の進化は、障害者本人は主体性を欠いているのではないかという合理主義的人間観の根深い疑いをふたたび引き寄せることになってしまうのだが。
身体をふれあわせ境界をとけあわせながら相手の意思をさぐる実践の中から、技術、科学的知見、人間をめぐる認識論が絡まり合いながら展開していくさまがスリリングだ。