紙の本
「お母さん」は「神様」
2016/01/05 07:44
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
京セラの名誉会長である稲盛和夫氏が1932年生まれだから、80歳を超えている。
KDDIを立ち上げ、傾きかけていた日本航空を再生した経営手腕は見事だし、経営に対する真摯な姿勢は多くのビジネスマンの憧れである。
そんな稲盛氏は、いまだに「お母さん」とつぶやくことがあるという。80歳を超えた老人が「お母さん」などと笑う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。
80歳を超えた息子に「お母さん、ありがとう」と言ってもらえる母親の仕合せ、いつまでも母を愛し、母に守られていると感じる息子の幸福。
これほど温かい絵はない。
本書は「経営の神様」稲盛和夫氏が自身を支えた母や家族の姿をしのびながら、生きることや働く意味を説いた作品である。
「ごてやん」というのは鹿児島の言葉で「ごねる」子どものことをそう呼んだそうだ。
「素直に言うことを聞かず、わがままを言って相手を困らせる」「ごてやん」、小学校を上るまでの稲盛氏はその「ごてやん」で、周りの人たちからは泣き出したらとまらない「三時間泣き」と呼ばれていたという。
稲盛氏には兄がいるが、母を独占したいあまりの「三時間泣き」。仕事をしながら稲盛氏をなだめる母キミ。なんとも微笑ましい。 そんな「ごてやん」の稲盛氏に母はいつも優しかったという。
生真面目な父といつも明るかった母。
稲盛氏は本書の中で「両親二人のいいところばかりもらった私は、実に幸せな人間ではないだろうか」と記している。
稲盛氏は母から「言葉で教わったわけではない」という。
では、どのように教わったのか。それは、「すべて、心によって」だと述べている。
「親父の背中」という言い方をするが、稲盛氏の場合、母の温かで明るい性格からも多くを学んだのであろう。
両親には「人として正しいこと、正しくないこと」の分別があった、その姿は稲盛氏に多くのことを教えた。
稲盛氏の考え方はよく「哲学」とも称されるが、ここにその源泉があったともいえる。
だから、今でも感謝の念は絶えない。
稲盛氏にとって、「お母さん」は「神様」と同義語なのだ。
なんと素敵だろう。そんなふうにいつまでも思える稲盛氏がうらやましくもある。
紙の本
偉大な経営者が母親から受けた教え
2016/04/30 04:59
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:秩父のトラック屋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
偉大な経営者を育てた母親のお話。著者は「考え方」の大切さを説いているが、その根底に母親の教えがあった、という内容。
投稿元:
レビューを見る
図書館で借りてよみました。
通勤時間のみ2日で読み終えました。
人として大切なこと。
愛情の中で教えられた基盤がエネルギーになるのですね。
投稿元:
レビューを見る
「おかん本」のひとつ。
どんなに偉大な人でも、
どんな犯罪者でも、この世に生まれたヒトである以上、たったひとりのお母さんがいます。
偉大なひともお母さんには弱いんだな、と納得するもよし、偉大なひとのお母さんだからやっぱり偉大だな、と感心するもよし、読み方を読み手に任された本です。
投稿元:
レビューを見る
講釈が終わる夜、母が門の前で待ち構え、おかえり!早くお入り といつもの笑顔で出迎えてくれた。沸かしてくれていた足を温めるお湯がちょうどいい温度で両足をつける。ぜんざいをさぁおあがりといいながらよそってくれる。物言わず食べる私。ぜんざいの湯気の向こうで、私を見守る母の笑顔はどこまでも優しかった。
母親のキミは明るい性格の社交家だった。特別おしゃべりだったり冗談好きだったりしたわけではないが、ものごとの悪い面を見たり、意地悪をしたりするようなところはまるでなく、いつも前向きで、人にも親切だった。
いつも笑顔を絶やさなかった。工員の女性たちに、ほんのこて助かるわ などと声をかけていた。
大声で泣きわめき襖を蹴り障子を蹴る頑是ない甘えん坊の私をふつうの母親ならたしなめたり厳しく叱ったりするものだろう。それをまったくせず困った子だね、と言いながらも、そのまま受け止めてくれていた母。
私が忙しい母親に、愛されているということをひしひしと感じながら育ったところを見ると、おそらく母親の愛というのは、終始そばにいないと伝わらないという性質のものではないのだろう。むしろ私の母のように短い時間しか子供と接することができない状況でこそ、強い愛を与えられるのではないだろうか。母親が心から我が子を大事に思い、子供が好きで、子供を優しく見守っていこうという気持ちを持っていれば、子供と接する時間がどうであっても、子供を必ずいい方向に導いていけるとおもう。
子分を家に4.5人連れて帰ると、いつも必ず机の上におやつが置かれていた。駄菓子のようなもの、ふかしたサツマイモなど。学校から帰る時間になると子分たちのぶんまでおやつを一日も欠かさず用意してくれていた。忙しくても、心は私に向けてくれている。おやつは、その象徴のように私の記憶に刻まれている。
家にたくさんの本があり、気が向いたら読めるというような環境は教育に非常に大事なのではないかとつくづく思う。あまり学業重視の親ではなかったのだろう、両親とも勉強に関しては一切干渉しなかった。成績が下がっても勉強せいとは、ただの一度も言われた記憶がない。
議をゆって高校いかせてもらったのに、野球してばかり遊んでいた。ある日母親が帰宅したばかりの私を呼び止め改まった口調でこういった。
和夫ちゃんはお父さんとあれだけ高校に行くか行かないかで言い合いをしていたのに行ったと思ったら今度は野球してばかりで遊んでいる。お友達の家は豊かかもしれないけどうちはそうじゃないでしょう。兄弟も多いし貧乏でとても困っているの。それなのに和夫ちゃんはよく野球ばかりして遊んでいられるね。
けして叱る言い方ではなく、あくまでも静かに諭すような言い方だった。野球は金輪際やめなさいとか、家の手伝いをしなさいと指示したわけでもなかった。それだけに母の言葉は私の胸に強く響いた。悪かったという思いがどうしようもなくこみあげてきた。→紙袋の行商をはじめる。お父さんも戦後の落ち込みから立ち直るきっかけに。
必要なときに必要なぶんだけ買うようにすればそのとき若干高くつこうと結果的には安く済む。→母親の親戚の農家のおばさんからの��とめ買いから学ぶ。利他の心でもある。人として生きる上でいちばん重要なことを母はその姿でおしえてくれていた。
けんかしてけがをしたりして泣きながら帰ってきたりすると母は決まって理由を問いただした。自分は正しいと思ってけんかをしたが、負けてしまった。と答えると、正しいと思うならなぜ泣いて帰ってくるのか、とたしなめられた。庭ぼうきか何かを私に持たせ、もう一回行って相手を殴ってこんか といって家から追い出そうとした。ためらっていると、頭をぽかりとやられた。間違っていると思う相手には徹底的に挑ませようとした母は、女性ながら武士の魂を持っていた。
お前今日は学校でどうしたんだと父があくまでもいつもの穏やかな口調できいた。先生の差別に対する不満をぶちまけた。
おまえは自分がええことしたと思ってるんだな。そうするのが正しいと思ってしたんだな。そうか、父はそれきり何も言わなかった。私は救われた思いがした。そして嬉しさがこみあげてきた。父は自分の正義を認めてくれたのだ。私を信じ、男というのはそうやって正しいと思うことをやり通さなくてはいかんのだぞと言外に教えてくれたのだ。
運命と立命 因果の法則 えんりょうぼん
心の有様は、人間性、人格を左右するだけではない。その人の心に見合った環境が自然と周りに作られていくのだ。
両親は贅沢を望まず、必要なもの以外は持とうとしないひとたちだった。寝る間も惜しんで家族のために働き、周りの人たちにも親切にしていた。
両親は私がどういう仕事をしていたのか、よくわかっていなかったと思う。京セラの新製品や技術について二人を前に講義をしたこともあったがにこにこと笑って聞いてくれていても理解はしていなかっただろう。
ソケットでもなんでもいいのだ。私は母のその言葉がかわいらしいと感じ、何であろうと私がしていることを喜んでいてくれることが純粋に嬉しかった。
児童養護施設をつくった。
母親は自分を無条件で守り愛してくれる存在だったから、子供にとってはいつまでも神様に近いものなのだ。母親ほど立派なものはない。母親を馬鹿にする子どもがいないのは、このような母親の我が子に対する愛情、優しさがあまりにも深いゆえだ。
投稿元:
レビューを見る
中村天風の言葉:新しき計画の成就は、ただ不屈不撓の一心にあり さらばひたむきにただ想え 気高く強く一筋に
妻がいなくなったら、私は生きていけなくなるのではないかと思っている位、頼りにしきっている 戦争は残酷だ。かつて、この美しい国を焼け野原にした。しかしその中で幼少期を過ごした私たちの世代の心が貧しいものにならなかったのは、人としてどう生きるべきかを、厳しく、そして暖かく教えてくれる大人たちがいたからに他ならない
投稿元:
レビューを見る
稲盛氏の精神面における自伝というべき一冊。
特にお母様を中心にご両親やご家族、周囲の人々との関わりから、稲盛哲学につながる様々な学びが得られたことがわかる。
これは、氏の”素直さ”が大いに影響していると思う。同じ体験・教えを受けても、意識ひとつで、学べる人と学べない人に分かれてしまうからだ。
かつて松下幸之助が公演で経営の秘訣について聞かれて「やろうと思うことだ」と答えたとき、多くの参加者ががっかりする中、ただひとり稲妻のような感動とともにその言葉を受け取り、気づきを得たのが稲盛氏だったそうだ。
この素直な受け取り方・アンテナの感度は、大いに見習うべき点だと、改めて感じた。