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鶴見氏は今はもう「個人」はいなくなってしまったと仰る。ここでいう「個人」とは、自由自在な精神をもった人である。明治国家は近代的自我を目標として日本という「樽」をつくった。そして、その中で人々を養成していった結果、「個人」はいなくなってしまったのである。今もこの「樽」は生き続けているのである。そのような今にあっても、氏はサリン事件の初期の犠牲者の河野義行さんが、その河野さんを全く不当に傷つけた警察やマスコミに対して声も荒げずにゆっくりとした言葉で抗議し告発した、そこに偉大な個人がいると感じたのです。
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第1章 日本人は何を捨ててきたのか(近代日本が見失ったもの;戦後体験と転向研究)
第2章 日本の退廃を止めるもの(変わらない日本人の心;日本人の未来像)
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鶴見俊輔はヌエのような人だ。あるいはそれこそタヌキなのかもしれない。無矛盾の、完成した体系を作らずむしろホットにその時々の状況と対峙し言葉を発していく。その反射神経と感受性の鋭さが、70歳をすぎてなお『寄生獣』に反応してしまう態度に帰結するのだろう。関川夏央のノスタルジックな態度と鶴見の今を見つめる態度は好対照とも思われ、それが微妙に軋みつつも独自のハーモニーを奏でた楽しい対談となっているように映る。個人的に刺激を受けたのは「受け身」の態度を採る賢さについてだ。自らの意見を変えることを恐れず柔軟に考え抜く
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いつもながら、鶴見俊輔の博識ぶりに圧倒される。この博識というのは、目配りの範囲の広さ、深さ、意味付けの多角的視点、などの意味だ。