投稿元:
レビューを見る
映画版の『桐島、部活やめるってよ』に通じるような、"登場人物全員、俺。"と思えるほど、全員に共感できる作品だった。
とある人のお葬式に集まった子どもたち、孫たちそれぞれの人間模様と心模様。親戚の集まりっていう、居心地が良いような悪いようなあの感覚。特段親しくもないけれど、他人ではないから感じるあの不思議な親近感。そんななんとも言えない"居心地"が文章化されたよう。
それにしても、タイトルが素晴らしい。これは「死んで、いない者(The man who is dead and gone)」なのか、「死んでいない者(The man who is not dead)」なのか。前者であれば「死んで、いない者と残された者たちのお話」だし、後者であれば「まさにあの時間は死んだ者が作り出した時間で、そこに脈々と生き続いている」という話とも取れる。
ダブルミーニングのようで、どちらとしても成立しているタイトルがとても良いな、と思った。
投稿元:
レビューを見る
祖父の死で集まる縁者たち。
遠くも近くも「親戚」とくくられる。
でも実は互いによく知らない人たち。
「親戚」の間にある不思議な距離感がうまく現れている。特に話した事ないけど、「親戚」と言われればなんとなく一緒に過ごす。
人はこんな風に繋がり、暮らしてるんだと再認識。
作中出てくる夜の川が印象的。生きている事を暗喩しているよう。
投稿元:
レビューを見る
やっとの思いで読んだ。登場人物が多くて混乱しました。田舎の通夜の風景は、こんな感じというのは良くわかる。とにかく面倒くさい。
投稿元:
レビューを見る
お年を召した方のお葬式ではこういう場面あるよなぁと
特に、亡くなった方にお子様やお孫さんが多い場合
それぞれの血縁関係が微妙にわからなかったり、
状況や立場が分かっているようであやふやだったり
それでも、皆それぞれの人生があるんだなと思う。
それは、亡くなった人も同じこと。
そんな思いがぐるぐると頭の中を駆け巡りながら読みました。
投稿元:
レビューを見る
一人の老人の死に集まってきた、或いは集まってこなかった親族たち。5人の子供夫婦、10人の孫、そして3人の曾孫。いろいろな問題を抱えている孫たちの人生模様が明らかに。人生を考えさせられる。孫たちに次々にスポットがあて、系図を書かないと分りづらいが、彼らの相互の関係性も興味深いところだった。美之・知花兄妹の目が合った瞬間の奇妙な一体感、17歳の知花の両親との関係が結べない10歳上の兄との繋ぎになっている自負がよく分る。血が繋がっていない「義理の」親族たちの何とも言えないの雰囲気が家族というものの不思議さを表現している。この舞台の時代がいったい何時なのかは全く分らない不思議な雰囲気がまた魅力。
投稿元:
レビューを見る
+++
秋のある日、大往生を遂げた男の通夜に親類たちが集った。子ども、孫、ひ孫たち30人あまり。一人ひとりが死に思いをはせ、互いを思い、家族の記憶が広がっていく。生の断片が重なり合って永遠の時間が立ち上がる奇跡の一夜。第154回芥川賞受賞。
+++
通夜に集まった家族や親せきの言動や胸の裡を描きながら、在りし日の個人像を浮かび上がらせていく物語かと思って読んだのだが、初めの内こそ、それらしい印象もあったが、次第に、どれが誰の子か孫かも判らなくうなりそうな、未成年の者たちの飲酒風景が多く描かれ、気分が悪くなった。興味深い題材だったので、もっと深く各自の心情を掘り下げて見せてくれたら、とても面白いものになったのではないかと、残念な思いではある。個人的には、いささか期待外れの一冊だった。
投稿元:
レビューを見る
登場人物がとても多く、人間関係を整理しながら読むのはなかなか難しい作品です。
ところどころで現れるお通夜あるあるは読み手にも共感できる点が多いのではないでしょうか。
孫は親戚筋にとって、さしてイジメられている訳でもなく学業に不安を感じている訳でもないにも拘わらず
不登校という選択をしたことに対し、親戚筋から奇異な見方をされています。一方で孫はそれを意に介していません。
親戚たちの勝手なレッテル張りはいわゆる世間が許さないといったそういう類のもので、
些末なものなのですが、こういった世間の良識の押し売りはどこにでもあるのではないでしょうか
投稿元:
レビューを見る
3冊読んで滝口悠生の読み方がわかりかけて1冊目に戻る。なんだ。この登場人物の多さに家系図を作ったりして読んだ感想はよく見かけたけど、必要ないね。本人らがあれは誰だっけ?って言ってるから、読んでる人も流れにまかせて思い出していけばいいの。すごくいいなと思った話も、それ嘘だよと言われ、え?嘘なの?と受け入れられる。カギカッコのない会話文の改行改行、それでまたつらつらと長い文章。寅さんのような高まりだった。だらだらではなく流れるような口調にいつまでもいつまでもきいていたいと思った。きっとみたび読むことになる。
投稿元:
レビューを見る
会話と脳内の思考が混濁していく感じ、
親族のお通夜の一夜を描いた作品だけれど、時間の広がり方が枠を得なくて、自由に伸び縮みする感じ、
とても好き。
語り部が移っているのもいつの間にやら、という感じで、人物の輪郭が曖昧なのも印象的だった。
親戚は無責任に、あいつはああいう奴だと型を嵌めたがるが、曖昧なそれぞれの人物の輪郭に型は嵌まらない。
私と同年生まれ。
お話に激しい喜怒哀楽、起承転結がないのも、受賞のインタビューでの埼玉県への希薄な思いも、共感するところが多かった。
投稿元:
レビューを見る
お葬式やお通夜といった席における人間の情景というのは一種独特なものがある。故人の関係者が集う席ではあるけれども、それぞれの思いは、必ずしも「死を悼み」「別れを悲しむ」とばかりは言い切れない。それどころか、日ごろ隠していた感情が生々しくまた禍々しく現れたりもする場である。
作者は、そんなお通夜に集った親類縁者の姿とふるまいを丹念に描いている。故人を送る、生き残った者同士関係を確認する場でもあるはずのお通夜だが、逆にお互いのいい加減離れた距離を改めて確認し、そして今後さらに離れていくだろう岐路にもなっている。
このことは、この小説のみならず、一般のわれわれの世界でも同じではないか、と思われました。
投稿元:
レビューを見る
初読み作家さん&今年の芥川賞受賞作品。葬儀に集まった親族が故人を偲ぶ話よりかは、親族一人一人の生活背景、家族構成、人生観がメインで書かれている作品の印象。親族も多数いて、途中、家族関係の複雑さと物語の淡々とした進行かと思いきや色々と親族間の心情、複雑な物語が混じっていて展開を読むのに難解さがあった。葬儀で親族が集まると普段交流がない親族がいたり、会っても特に話をしない親族もいるので血が繋がっているだけで集まった感じもある。死者の目線から見ると死んでいない者から生前の自分はどのように映るのか感じた作品。
投稿元:
レビューを見る
文藝春秋にて。最近の芥川賞に必要なギミック(皮肉だよw)もなくただお通夜の風景を淡々と綴る超退屈な異色作、故にまーったく面白くもなんともないのだが石の上にも30ページでだんだんとハマってしまう不思議な物語。
主人公も居なければ誰の視線からでもなく例えれば祭壇の死んだ人が通夜に集まる死んでない親族の点呼を取ってる感じがしっくりくるのかも…だからメモも家系図も取らずにお昼何食べたかわかんない恍惚モードで「こいつ誰だったっけ」程度にゆるーく読むのがツボと見た。
人間とは人の間と書く…そんなことを意図的に描いているとすればこのトッチャン坊やはただ者ではない
投稿元:
レビューを見る
一見、家族とは?流れ続いている血とは?というテーマを持ち出したくなるけれどそれだけに収まらない人間の個々の持つ面白さに改めて着目できた。
視点はころころ変わるけれどこれは作者の企みでこちら側も存分に振り回されるけれどそれもまた愉快。不謹慎だけど。
どの人間も大なり小なり感情移入できて読み進めるのが楽しかった。
投稿元:
レビューを見る
なんだか読んでいて落ち着く。
でも登場人物の関係性が最後まで明快には記憶、理解できずに終わる。一部分わかっても、あれ、これは誰だっけと。
読み返したらまた違う印象を受けそう。
投稿元:
レビューを見る
日本の近代文学は、写実主義からはじまった
だとすれば、その先にキュビズムの文学があったとしても
おかしくはないだろう
つまり、限定された空間を
多面的な視点において一枚の絵にする手法ですが
でもそれって要するに詩だよね…高村光太郎「米久の晩餐」みたいな
ただまあ、そこに集った各個人のプロフィールに踏み込むことで
小説っぽい体裁を保ってはいる
人間の死に向き合い
あるがままの生というものを思う人の群像があって
そのなかに読者自身の姿を見出すことができたならば
それはひとつの「癒し」でありうるかもしれない