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サバルタン とは 従属階級、被抑圧階級を指しています。
表象の問題について論じられています。かなり難解なのでアウトライン的理解しかできませんでした。
著者はインド出身、その後アメリカへ渡りデリダを翻訳し英語圏に広めた第一人者です。
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おそらく最も有名なスピヴァックの論文。“Marxism and the Interpretation of Culture”に収録。今となっては、なぜ原文をなんとか読んだのかわからない(笑)。全然、わからない箇所があって当然でしたなあ。ドゥルーズ、フーコー批判にはじまり、デリダとマルクスの再評価・読み直し、として位置づけられるのだろう。まあ、ともあれ、最も周縁化された者の声は、裂け目であり、声なき声である、という意味で、誰もそれを発語されたものとして聞き取ること、理解すること、そして収奪もできない。それを不可能性を表示するもの、として考えていたけれど、むしろ逆に、残滓としての可能性として、サバルタンの声を垣間見る(聴く)ことであってもいいのではないか…と思ったりもする。
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正直に言ってしまえば、難しい。デリダのところで躓いてしまう。言えるのは、サバルタン、つまり本当に困っているひとたちは、自分たちの事情を語るどころじゃないんだが、原則としては他のひとがそのひとに成り代わって代弁することはできない、できないんだが、しようとしなくちゃいけないんだ、つぅことだ。最終段落が初出から書き換えられていて、書き換えられる前のには「女性知識人には―知識人として―この証拠を記録するというひとつの限定された任務がある」としているんだが、どうして女性なの?とか、これを削ったのは何故、とか思ってる。きっと何度も読み返すことになるだろうな。
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確認先:町田市立中央図書館
スピヴァクの代表的な位置づけをなされる著書。
ヨーロッパの思想家が無自覚に抱え込んでしまっている物言いに対する著者の違和感がストレートな形で形容されている。もちろん、本書が著者の理想地点、ということは到底できまい。
むしろ、本書で「サバルタンは語ることができない」からこそ、何が求められ、そして知識はどのようにあるべきなのかという彼女の思考が始まる原点になったのではないか、と私などは思っている。
けんか腰に見えなくも無いだけに拒絶反応が出る人はいるかもしれない。だが、真剣に向き合うとあながちそうでもないのだと思えなくも無い。
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ポストコロニアル※関連の一冊
※植民地支配を受けた国の知識人たちがその宗主国の支配的思想・観念(イデオロギー)を抜け出そうと自国にあった思想などを使ってその離脱を試みる一連の思想体系
ヒンズー教のカースト制度の最下層であるサバルタン。その地域の習慣としてあった、未亡人たちの夫の火葬時の後追い自殺(サティー)を例題として、最下層の人々が追いやられている自発性の困難さを論証する。
また、ポストコロニアルの難しさである、知識人たちが自国の思想よりも宗主国の思想を使って自国の思想を展開しなければならないという二律背反とも思える困難な局面が、この著者の作品で垣間見られ、この現状は思想体系を十分に確立することなく、明治期に西洋思想をすっかり受け入れてしまった日本でも同じ現象が発生しているといえる。
具体例として挙げられているイギリス支配時代にサティの因習が廃止され、女性たちの解放は西洋がもたらしたものとする、ある種のパターナリズムへの著者の疑問府は、一方的な支配者側からの押し付けて的正論への異議申し立てであり、その主張は当然とも思える。
しかしまたこの現代社会で、西洋哲学の系譜を無視して、
自国の思想だけではたしてどれだけ語りうることが可能であるのだろうか。世界へ向ってその思想の展開を論じるとき、どうしても西洋哲学に沿って語りださなければならない困難な局面をどう論じていくのか、ポストコロニアルの抱える問題点は日本でも同様に考えなければならない共通の問題であり、今後の展開に目を向けておく必要を改めて感じさせてくれた一冊。
ただ残念なことにこの本は非常に難解であり、哲学用語をある程度知らないと何を言っているのかもわからない本になってしまっている。(特にデリダ・フーコーなどの思想家の用語が乱立している)
もう少しわかりやすい本が出ることを切に願う。
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【2011年_1冊目】
非常に文章が難解で、まだ全然読み取れていない。
あと何回か読み込む必要あり(;^ω^)
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『だまされない議論力』吉岡友治 の巻末の読書案内に出ていたもの。そのうち読む予定。-「」メディアと知識権力の関係を扱った基本論文。ただし訳はどうか」
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最初の方の哲学的な考察は難しいが、後の方は具体的な話も出てくるので少しは読みやすくなります。「開発学」を勉強するならレヴィストロースやサイードなどと共に避けて通れない一冊だと思います。
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サバルタンは語ることができるか?という本書の問いかけはその着眼点に関してはすごく良い。実際に弱者を代弁する所作がますます弱者を抑圧する構造は身の回りで非常によく散見される。しかし、そのような壮大なテーマを掲げておきながら、フーコーとドゥルーズの議論にせよ、サティ―に関する議論にせよ、まず具体的な議論のテーマがサバルタンに対する議論に比して狭小で辺鄙なものにすぎないと思うし、なにより内容が本書の厚さのように薄すぎ、決してサバルタンは語ることができないという結論について説得力を持って迫ってはいないのではないだろうか。
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ポストコロニアル批評関係をざっと流し読みをするなかで、どうもサイードの「オリエンタリズム」とあわせて、必読書らしい本書を読んでみる。
Q. サバルタンは語ることができるか?
A. できない。
という内容なのだが、そもそも「サバルタンって、何?」という状態なんだから、困ってしまう。著者は、インド系なので、サバルタンって、インドの部族の名前?とか、思ったのだが、被抑圧民という感じのマルクス系用語のようだ???
著者は、マルクスとデリダを踏まえつつ、まずは、フーコーとドゥルーズを、「国際的な分業における抑圧みたいな概念がない。一見、西洋中心主義の主体を批判していそうで、それはやっぱり自己正統化なのだ」という感じで、徹底的に批判する。
うーん、どっちもどっちじゃないのー?なんだかよく分からない。
が、それなりに刺激的な議論にはなっているかな?
で、面白かったのは、そういう理論篇の部分より、インドの寡婦が亡夫といっしょに火葬される習慣についての分析で、デリダ的な言説の分析のさえを見せる。
それにしても、こういうやたら難しい議論していて、それこそ「サバルタンにとって意味あるの」と言いたくなるが、そういうディスクールこそ、著者が脱構築しようとしているものなんだろなー。
あまり分かったわけではないし、理解した部分も賛成できるわけではないが、いろいろなことについて、考えさせる刺激に満ちた本である、とは言える。
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分からんなりに読み通しはした。被抑圧的社会集団の言動を記述するとき、支配者側は自分の文脈に入れて理解してしまうので、サバルタンは語ることができないっていう話?
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メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1649357808826191873?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw