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ノンフィクション作家 角幡唯介氏の新作。
彼の作品はほとんど読んでいるが、本作は今までのツアンポー峡谷、ヒマラヤ、北極海など、自らが行った探検が題材ではなく、南洋で遭難し行方不明となった、無名のマグロ漁師を追ったルポルタージュである。
舞台である宮古島は太平洋戦争の前後に、南方カツオ漁で栄華を誇った時代があったらしい。宮古島には自分も一度訪れたことがあり、作品に登場する池間の漁港にも行ったが、その時は漁船よりもダイビングスポットである、八重干瀬に向かう観光船の方が多かったように記憶している。
作品は単なる遭難事故の記録にとどまらず、佐良浜の人々が海洋民として歩んだ歴史を、漁業という観点から照らしている。当時を知る様々な関係者に取材を行っており、探検家ではなく元新聞記者という、角幡氏のもう一つの側面も垣間見る事が出来た。
そして取材は沖縄だけではなく、主人公の本村実が漁で訪れた、グアムやフィリピンにまで及んでいる。おそらくは、この作品が世に出なければ一生知る由が無い、一人の漁師の壮絶な人生に触れる事が出来た。想像以上のスケール感で、角幡作品の中でも傑作と言って良いと思う。
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この一文、著者の著作のほとんどに通じると思う。
『現代の都市生活者は死が見えなくなり、死を経験することができなくなることで、死を想像することもできなくなった。そしてその結果、生を喪失してもいる。』
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実体験を通して生死の境を考察してきた筆者が、1か月も漂流した体験のある沖縄のマグロ漁師にインタビューしようとしたら、また海で行方不明になっていた、という始まりである。
事実は小説より奇、である。そのマグロ漁師は伊良部島の佐良浜漁師であるが、佐良浜-池間民族がミクロネシアまでさっさと漁に出かけるのは、補陀落僧の神話を持つ海洋民族だからだとか、カツオ漁マグロ漁の栄枯盛衰など、話は大きく広がった。
そんな想定外の事態にもかかわらず、上手くまとめて最後まで飽きさせない本になっている。作者の領域が広がるきっかけの書となるかもしれない。今後どんな本を書いてくるか楽しみである。
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1994年、マグロ漁船船長の本村実さんが、37日間の漂流後に救出された。
8年後、再びマグロ漁に出たまま行方不明になる。
著者の角幡さんは、本村さんが見ていた風景を追体験するため乗船取材をする。
ある漁師の話〈今日はなくても明日はある。海に行けば食える。いろんなことが面白いんだ〉
自分たちは生かされていると体で感じ取っているから言えることなのかな。
すごいなぁ。
漁師の生活は、私の甘い生き方や思いなど一瞬で吹き飛ばしてしまうほど過酷なものだった。
マグロもカツオも美味しく戴く。
それが一番いいのだと思う。
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待ってました、冒険もの!という勘違いがいけなかったのか、最後まで気持ちがのらなかった。南の海に命を賭ける漁師たちの、知られざる歴史に迫った労作、とは思う。元新聞記者らしい粘り強い取材で、みっちり丁寧に書き込んである、とも思う。でも…、いかんせん私はどうにも興味が持てなくて、面白さを感じられなかった。特に最初のあたりが冗長な感じで、もう少しコンパクトにまとめてあったらなあと思ってしまった。
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角幡唯介のものはとりあえず読む。
私はカツオが嫌い。カツオの匂いもだめ。
だが戦前の南方でのカツオ漁の状況など初めて知ることばかりで実に面白い。
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1994年3月、フィリピン沖合で一隻の救命筏が発見された。乗組員9人を乗せたその筏は、37日間、約2800キロを、死と隣り合わせのまま漂流していた。船長は日本人・本村実。残り8名はすべてフィリピン人だった。この1件は、当初、漂流期間や距離が記録的に長かったため、日本でもそれなりに報道されたが、やがて人々からは忘れられていった。
本書の著者は探検家である。自身の探検を中心に据えた著書もあるが(『空白の五マイル』、『雪男は向こうからやって来た』)、本書は他者の「漂流」をテーマとしている。海での遭難・漂流というのはかなり特殊な状況で、食糧も飲料水もなく、自力で望む方向に向かうことも出来ず、サメなど危険な動物にも取り囲まれ、助けが来るのか来ないのかもわからない。探検家として、自然と人間の関わりを終始考えている著者にとって、「漂流」という切り口はうってつけだった。
そうして過去のデータベースを当たっていて、上記の本村の漂流事故に興味を持つ。その顛末を追うノンフィクションを書くはずだった。
だが、ことは意外な展開を見せる。
本村本人の話を聞いてみたいと連絡を取ったところ、本村の妻から衝撃的な事実を聞く。
何と、本村は事故の後、再び船に乗り、行方不明になっているというのだ。それも10年もの間。
驚いた著者は、本村の地元、沖縄に飛ぶ。
それは、再び消えてしまった本村を追うとともに、遠く、沖縄離島の海洋民の歴史を追う旅でもあった。
本村は、沖縄本島の南西に位置する宮古列島の1つ、伊良部島に生を受けた。島の佐良浜はかつて、南方カツオ漁で栄えた地だった。戦前から戦後にかけて、フィリピン・インドネシア・ミクロネシアといった南方の島々へ行っては豪快にカツオを獲って金を稼ぎ、派手に使うのが佐良浜漁師だった。
元を辿れば佐良浜の人々は漂着民であり、海の先でも躊躇なく出かけてしまう気質や、素潜りなどの海技に長けた性質を受け継いできた。
ある種、行き当たりばったり、ある種、思い切りのよい、腕のよい漁師。彼らは、その長所を武器に、沖縄周辺だけでなく、南洋へも進出していた。南方カツオ漁は徐々に廃れていき、現在ではグアムを拠点としたマグロ漁に移行している。実は沖縄は全国有数のマグロの産地なのだ。本村の漂流もマグロ船に乗っていたときのことだった。
一度、過酷な体験をしたにも関わらず、なぜ本村は再び船に乗ったのか。
その疑問を追ううち、著者は次第に海洋民の「陰」も感じるようになっていく。
漁に出るのは、海が好きだから、とか、自由を愛するから、とか、牧歌的な理由ではない。彼らの行動規範や人生観には、陸で生きる人々とはまったく違うものがあるのではないのか。
昔から、漁場をダイナマイトで吹っ飛ばしては魚をがっぽりと捕る、危険なダイナマイト漁にも手を染め、それに使う火薬を手に入れるために沈没船から違法に盗み出し、その過程で手や足を失ったり、命を失うものも多かった。
行方不明になっているのは本村だけではない。出たきり帰ってこないものは他にもいた。行方不明の人々はあわいを漂う。生きてはいない。さりとて死んでもいない。人���は「拉致でもされたのかね」と噂する。いずれにせよ、ある程度日数が経ってしまえば、探すこともできず、安否が幸運にもわかることを待つしかない。
海洋へ出るということは危険なことだ。楽しいわけではない。好きなわけでもない。しかし、ここでしか生きる「術」はない。
「刹那」を生きる彼らの姿が、徐々に浮かび上がってくる。
本村はなぜ再び漁に出たのか。彼の安否はわかるのか。
著者の旅はその疑問を牽引力とし、海の民の「生」、いや、さらに広く人が「生きること」への思索を誘う。それはどこか、人が奥底に抱える「原初」を見透かそうとする試みのようでもある。
*同じく漂流を題材にしたノンフィクションとして『漂流の島』があります。鳥島漂着民の残像を追うような作品ですが、そういえばこの本、本書の著者の角幡さんの書評を読んで読む気になったのを思い出しました。
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一度37日間の極限状況にあった漂流を経験しても、再度出漁し今も行方不明になっている佐良浜の漁師を漁師仲間は恥ずかしいことと断罪した。いかに漁師の生の厳しいことか。いっぽう、角幡氏は海に戻らなければならなかった彼の最終決断に、生きることの意味を問う瞬間が込められているとみている。
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グアム沖でのマグロ漁船沈没から37日に及ぶ漂流。奇跡的に生還した男は、その8年後再び漁に出て、そしてまた行方不明になる。
沖縄、宮古島の池間島、伊良部島の池間民族、佐良浜民族と呼ばれる海洋民族。民族と呼ばれるに相応しい、陸に軸を置いて生活する人間とは全く異なる文化、生き方、生死感、そして世界の捉え方。著者が取材する中で出会うフィリピンなどの漁民とむしろその心性は近い、そんな民族。
一人の漂流民の人生を辿る中で、戦前から今に至る沖縄の南方カツオ漁、まぐろ漁の繁栄と衰退、漁師たちの人生、生き様を丁寧に追っていく。
それにしても、小さな漁船ですぐそこの漁場に出かけるように、フィリピンやマレーシア、パプア・ニューギニアやミクロネシアの海域まで出かけていく感覚、地理感というか、距離感は、陸の人間が理解できるものを遥かに超絶している、と思う。
この民族そのものがいまだ、漂流の只中にずっといるようである。奇跡の生還を果たした男は、陸の世界の価値観が支配する中での生活に馴染むことができず、8年後に再び漁に出て、行方不明になったままである。
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この取材をもとにフィクションを描くならどんなにドラマティックなものができあがるだろうか、と。
けれど、あくまでもコツコツと調べあげたもののみで成り立つノンフィクションだから、最後まで答えはみつからない。いや、答えなんて必要ないのか。そこに山があれば登る、そこに海があるから漕ぎ出でる。そういうことなのか。
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1994年3月、南洋漁業中の沈没により37日間の漂流を耐えきった男がいた。
筆者は、その男に漂流生活のインタビューをするべく連絡を取る。
しかし、その男はすでにいなかった。行方不明だった。
漂流の8年後、再び漁に出た男は船と一緒に姿を消していた。
沖縄の漁業の歴史の礎に、伊良部島の佐良浜地区の存在があった。
追い込み漁に始まり、戦前からの南洋漁業、戦後はダイナマイト漁に沈船浚い。
そんな海洋民族の生活は、死がすぐそばにあるようなものだった。
漂流事故を調べ上げていくと、漂流のまた先に漂流があり、海の底知れぬ闇が浮かび上がる。
それでもなお男たちは海に向かう。
陸の民とは明らかに異なる思考体系の海の民、彼らは海を心底嫌い、漁を心底嫌う。しかし、海にしか生きる術がない。
一つの漂流事件から沖縄、フィリピン、パラオまで漂流者、本村実の足跡を追う。
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1994年、36日間の漂流の末、フィリピン海域で救助された日本人漁師がいた。著者は漂流ドキュメンタリーを書くため、その漁師に接触を試みるが、漁師は2002年に出航して再び失踪、現在も行方不明のままだった。
2度の失踪をした海の男。そんな数奇な運命の男を、著者はとことん追いかける。男の過去、家族、育った土地はもちろん、実際にマグロ漁船に乗ってまでも男を理解しようとする。
その結果、海に生きる人間の独特の死生観にたどり着く。海に出ることは、死が特別なものではなく日常のありふれたものなのだ。そんな感覚を持った男たちが集う沖縄の離島では、漂流など日常の1イベントなんだろう。
本書はそんな漂流者ドキュメンタリーと並行して、94年に救助された船員の「いざとなったら船長を食べよう」という発言の真意に迫るノンフィクション・ミステリーでもある。
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1994年、日本人を含む9人の漁師が、37日間の漂流を経た後にフィリピン沖で保護された・・・。
この本は、生存者の中で唯一の日本人だった船長を追った、ノンフィクション作品です。
約20年後に本人に取材しようとした著者は、その妻に衝撃的な話を聞きます。
それは、船長は10年前に漁に出たまま、行方不明になっている、ということ。
その事実に驚いた著者は、現地に赴き、彼の関係者を訪ね歩いて、1回目の漂流の様子と、2回目の漂流に至った経緯を調べます。
その過程で見えてきたのが、船長が生まれ育った沖縄県宮古島群島伊良部島佐良浜という地域の、特殊な郷土史とそこに暮らす人々について。
海に出れば食料を調達できる、逆に言うと漁師しか生活する術が無い、という環境。
その中でも特に、外部思考の強い佐良浜の漁師たち。
遠くグアムやパラオまで漁をしに行き、大きな富を得る。
でもしばらくすると、その漁が成り立たなくなる。
そんな、繁栄と衰退を繰り返してきた人たちだといことがわかってきます。
主人公である船長の足跡を追うことによって、海洋民としての佐良浜の人たちの気質や、その行動原理への理解が深まっていく、という内容になっています。
継続的に海に行く機会があり、海に関する情報には日常触れているつもりでいましたが、本書の内容にはただただ、驚いてしまいました。
同じ日本という国の中に、このような地域、そしてそこに住む人の人生がある。
「事実は小説よりも奇なり」・・・あらためて感じさせてもらえた、ノンフィクション作品でした。
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漁師の世界は違う、みたいな語られ方はよくしますが、本書はその中でも南太平洋を舞台にカツオやマグロを追いかける漁師たちの世界を、37日間の漂流の末救出された一人の漁師をきっかけに追っていきます。
パラオやグアムを近いとするその感覚は戦前の南洋進出の時代から土台があり、日本語よりある島の方言が共通語となっているその世界は、陸の世界からは想像もつかないものでした。
新聞でもテレビでも取り上げられることのない南太平洋に広がったまったく別の日本という世界に分け入った良書です。
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フィリピン人船員と漂流した男・実のインタビューを試みた主人公。妻からの返答は、「また行方不明になっている」だったー
構成がうまく、文量があるにもかかわらず、冒頭から引き込まれてしまう。
ボリュームがあるのは、海で生きる、という人々の生き方や歴史を学ばないと、物語のスタートラインに立てないからだ。
ある日、隣のひとがいなくなるという日常。陸で暮らす我々との価値観の違い。
真っ黒な闇の中の海を描いて終わる、謎が解けないままのラストシーンは、作中の激動とはあまりに対照的で静かで不気味だ。小さな人間の話など、なかったかのように飲み込んでいく、大自然を目の当たりにする。