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「負債論」
タイトルは負債論であるが人類とお金に関しての深い考察である。
経済学者ではなく文化人類学者が書いているので、有史以前からはじめて貨幣について文化人類学的に考察している。
元々貨幣はコミュニズム的社会を土台にした貸し借りから始まり、儀礼的通貨として原始的貨幣が生まれたらしい。そして、その中では人間の命は何物にも代えがたく、原始的貨幣に代えがたいものだったようだ。その感覚は現代の人間の中にもあるのかも知れない。
時代が進むにつれ、奴隷制が人間関係の人間経済を作り出し人間の価値を決めるようになっていく。つまり、奴隷、もっと軽ければ取り巻き連中を周りに侍らせることが価値を持つことになる。そして、暴力(戦争)、奴隷、そして鋳造貨幣が経済を作り出していったようである。
本書ではアダム・スミスの言う物々交換から貨幣が生まれたというのは全くのおとぎ話であると指摘している。アダム・スミスは経済の成り立ちから理想論を言ったに過ぎないと言うことである。
紀元前の時代から貨幣の流通と共に金貸しの利息が大きな問題であり、高利貸しは罪悪と考えられるようで、しばしば権力者による借金棒引きの処置が執られている。
中世には貨幣に対する抽象的な思考が発達し、貨幣の抽象性が進む一方、イスラムでは中世以前の金利についての悪い面を見直し、仲間内からは利息は取らないが、外部の人間は別だという考えになっていく。中国では永遠性という観点から元本には手を付けず貸し付けによる利子だけで寺院を運営する費用をまかない、西洋では教会から法人という考え方が生まれてきている。もっとも、西洋は後進地域で世界的には後れを取っていたのだが。
しかし、大航海時代の欧州の帝国主義時代に戦争、奴隷、資本主義として地金中心の金本位制が発達し、ニクソンによる金とドルの交換停止から変動相場制になっている。
そして、アメリカがドルの価値があると言えばドルの価値はそこにあり、それは戦争という暴力の裏打ちがあってこそであり、現代では奴隷は賃金労働者に変わっている。
国家は既に借金を返す必要は感じていないようだし、この先、経済は一体どうなるのかが気がかりだ。
著者に言わせれば今の経済が生まれたのはごく最近のことであり、アダム・スミスも当時の理想論からユートピア的な世界を考えていたらしい。その意味ではもともと資本主義は道徳的なものであり勤勉と言うことに価値を置いている。
孔子が言うように足らざるを憂えるのではなく、等しからざるを憂い、足るを知るでなければならないように思うが、強欲資本主義という経済とは一体どうなっていくのだろうか。
本書は800ページに及ぶ大著であり読むにはかなり時間がかかったが、最近読んだ本の中でもっとも刺激的で面白かった。
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人類学の立場から論じた貨幣論とでもいうべき内容。先日読み終えた『公共貨幣』や"The end of alchemy"と響き合うものがある。
それにしても経済学と経済の間には大きな乖離があるといわざるを得ないのではないか?経済のことは経済学者に聞くのが世の常識といってよいと思うが、そんなことで経済がうまくいったためしはない。それは経済学者は経済学のことはよくわかっているが、経済のことは何もわからないからではないか?
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6章でリタイア これは頭使って読まないと入ってこない
リトライしたい
「借りたものは返さなければいけない」というモラルとその履行ってよくよく考えると不思議.
そんな思いをまずは抱いた.
昔は生活のために,例えば結婚式を開くためにお金を借りて,その返済の担保として花嫁となる娘を差し出す.担保(花嫁)で返済の形をとったので花嫁は新郎の家ではなく債権者の家に向かい,当面”勤め”を果たす,という世界があり,当時それは受け入れられていたものだったらしい.人権に関する権利の目覚めが契約に関する権利の履行よりも遅かったから,というのもあるかもしれない.
じゃあ「借りたものを返さなければいけない」というモラルが至上かというとそうでもなくて,世界文学には金貸しが悪の権化のような描かれ方をしている.
ベニスの商人みたいな,
現代でもそうけど,「取り立て」は一定ラインまでは当然の権利として許されてもある閾値を超えるとやりすぎだ,非人道的だ.とバッシングされるらしい.
この差はなんだろう.結局は人間の感情論?
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著者は言う。「本書でわたしが試みたのは、次代の展望を提示することではなく、わたしたちの視野を開放し、わたしたちの可能性についての感覚を拡大することであった。つまり、時代にふさわしい大きな尺度と規模で思考を開始するとはどういうことか、問いかけはじめることである。」
この言葉通り、著者の専門である人類学の知見に導かれ、貨幣と暴力5000年の歴史を辿ることになる。貨幣の起源に関する経済学の誤謬についての論から始まり、奴隷制の歴史と意味合い、負債と信用、交換と贈与について、具体の社会の例を元に、思いも寄らぬ解釈、見解が次々と展開される。
とりあえず通読はしてみたが、その情報量の多さと斬新な見解の連続に圧倒されてしまい、一読ではとても頭を整理しきれなかった。
ただ、著者の紹介する様々な社会における経済活動の歴史の中に、今後の資本主義社会の行く末を考える材料がたくさん潜んでいることは間違いないだろう。
つい最近御逝去の報に接したが、シャープな考察を新たに読むことが出来なくなってしまったことは、非常に悲しい。
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本文だけで600ページあったけど、「面白い!おもしろい。」と言いながら読んでしまった。
返却期限があったので100ページくらいある原注は読めなかったけど、次借りた時は注も読みたいな。
資本主義の後の世界について考えるためにとっても役に立つと思う。とにかく金持ちや政府などの支配者層に任せてちゃろくなことにならんから自分でなんとかしなきゃと感じてる人は読んだらいいと思う。
スッキリするし元気が出てくる。
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多くの経済学者は貨幣に関して物々交換の不便さを解決するためのツールというが、本書を読む限り歴史的にそれは正しくないということが分かります。昨今ではMMTに関する考え・著書が多く出回っているが、信用貨幣の『信用』とは何なのだろうか?という個人的な疑問を解決したくて本書を手にとりました。1つの解が国家が軍事力(徴兵)を集める為の負債であるということです。ここ数十年は世界規模の戦争が起こっていないのでピンとこないかもしれませんが、人間と国家繁栄の歴史と、ゴールドが貨幣の中心(ペグ)な存在だったことからも、この説は納得に値します。要は世界経済が危機に陥った時、ゴールドの価値が上昇するからです。
そして1971年に金本位制度が撤廃されて世界の通貨のペグは何なのか?信用貨幣の信用の基はなんなのか?の疑問に対して本書では、現在の世界経済は『米ドル本位制』と説いています。つまり米ドルを除いた国の貨幣創造量は、米ドルの発行量に対して上下していることを意味します。
これも通貨の負債が国家の軍事力増強のためにあったと仮定すると、理にかなっているのでしょうね。そして、米国が覇権国としての相対的な軍事力が低下してきている昨今、米ドル本位制の世界経済はどうなるのでしょうか?
ここから先は、世界最大のヘッジファンド、ブリッジウォーター創業者レイ・ダリオの頭の中にヒントがあると思っており、来年発売のChanging World Orderを楽しみにしたいですね。
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毎日新聞で月に一度、最も辛辣でかつ私が最も信頼して止まない伊藤智永の現役最後のコラムで、『ブルシットジョブ』よりももっと面白いといって称揚していたのが本書、惜しいかな既に故人、デヴィッド・グレーバー著『負債論』である。
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人の歴史経済にとって「負債」がどのように影響を及ぼしていたかを考察している本。
膨大な知識量でもってぶん殴ってくる内容で、「お金」とは「負債」とはといった事を深く考えさせられる本でした。
お金の起源は戦争等で雇った傭兵に支払うための報酬、それがもとで税金が起源だって話だったり、庶民はお金を使わないで経済活動やってる方が基本だって話だったり、貴族にとってお金≒恩賞≒名誉なのでお金を数字としてやり取りする商人は嫌悪対象だって話だったり、十字軍や新大陸で行われた虐殺は借金返済が動機(実行犯は金持ちになってない)って話だったり面白い話が盛りだくさん。
言い回しが遠回りだったり話があっちこっちに飛んだりとにかく分厚いと読みやすい本とは言い難いけれど、巻末に訳者による整理があるのでそれを参考に読んだりすれば読むのはそれほど難しくないと思う。必要なのは根気w
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アナキスト人類学者による経済論だが、600ページもあって(原注がさらに200ページ!)読み通せるのか自信がないが、かといって斜め読みや訳者あとがきにある要約で済ませるわけにもいかないのは、作者が繰り出す潤沢な事例と饒舌な語りに浸ることこそが本書のなによりもの魅力だから。
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2011年ウォールストリート占拠のスローガン「われわれは99%だ」をつくったグレーバーは、本書で国際的債務と消費者債務を帳消しにせよと訴える。と言っても、乱暴なアジテーションではない。負債やそれを巡る倫理感覚の拠って立つところを5千年遡行し、豊富な寓話を交えながら、それらひとつひとつを丁寧に掘り崩していくのだ。
統制不能の破局が訪れる前に、われわれは民衆のひとりとして、歴史的な行為者になるべきなのだ、とグレーバーは語る。「わたしたちの旅の最初の一歩」はすべてを帳消しにして、再出発することにほかならないのだ、と。
本書は世界中にインパクトを与えたが、それは世界を想像し直すことをうながすという、ごく当たり前の方法を通してである。そして、それを真にラディカルな思考と呼ぶのだと思う。
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負債をキーワードに、人類史や宗教史などあらゆる事柄を見通した歴史書のようなもの。
もう一回、哲学や人類学を学んだ上で読み直したい。
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「借金を返すというモラル」が、全ての人類史の根元的全般的邪悪になっているか。そして交換の原理そのものが暴力の帰結として出現したという事実。これらを数多くの人類学的事例によって暴き、思考転換を促す書。この「負債のモラル」自体が「そもそも自己矛盾している資本主義システム」を稼働させたい者の「巧妙な詐欺ツール」であることを解説し、私たちの社会観念の転換を図る。
「ともかく借りたお金は返さないと」こらが経済的な言明ではなく、モラルの言明であることが、世界の問題の根本にあるのでは?8
借金返済がモラルだという常識に疑問が持てる事例-マダガスカル。
マダガスカルはフランスに植民地化されて、その膨大な侵略費を負った。しかもプランテーション作りのための膨大な設備投資費も負う。それに反対する住民は何度も反乱を起こし、その一回だけでも10万人が虐殺された。誰もプランテーションで働く人生を望んでいないのに。そして今日までマダガスカルは債務があるとみなされ、「国際社会」なるもの(IMFなど)はその返済要求の時だけ声をあげる。これが「借金返済のモラル」なのか?11
人類5000年の紛争の歴史は、おおよそ債権者と債務者のあいだで起きている。古代世界のあらゆる革命的運動は単一プログラム「負債を帳消しにし、土地を再分配せよ」だ15
「義務」と「負債」には決定的な違いがある。「負債」は数量化できるのである。これでモラルを非人格化する。これによって義務と恩の関係では到底考えられない残酷な行為が生まれる。23
人類は最初に物々交換の社会があり、そのあと貨幣が発明された。という歴史的証拠は存在しない44
まず負債(信用取引)が生まれ、その後大量の取引を行う商人が貨幣を生み出し、物々交換はこれらとは全く別の儀式等のやりとり、あるいは歴史の中で貨幣が崩壊した特定の時期や場所での代替作として行われた。
そして貨幣を作ったのは国家である。とりわけ有力な説は、国家権力者が兵士を雇うため作り出したシステム説である64
「貨幣の起源」はない。なぜなら貨幣はモノではないし、人類の歴史が始まった時と同時に生まれたものだから78
「オズの魔法使い」は金本位性反対政治運動の寓話として作られた79
貨幣は「神々への捧げ物に最も相応し物品」から発生した。ホメロスの書では雄牛。シュメール・ギリシャでは金銀。(日本は米?)89
自己を解放するただひとつの方法は、文字通り負債を返済することではなく、「負債など存在しない」ことを示すことである102
仮にこの世の中(宇宙でも自然でもよい)に人間は生まれつき「負債」を負っているとすると、いったい誰が、その「負債額」やら「返済方法」やらを指示できるのか?そう考えると宗教、道徳、政治、経済、刑事司法体制は、「それぞれ異なる欺瞞の方法」とみなせる。
そうすると「(真の)人間の自由」とは、返済方法をどうしたいか自分自身っ決定する私たちの能力ということになる103
貨幣が近隣者どうしの物々交換の不便を克服するために発明されたわけではないのは明らかである。そもそも近隣者どうしで物々���換する理由など無かった110
コミュニズムは共産主義国だけでなく、資本主義国でも日常的に存在し、資本主義を成り立たせている要素でもある。共通のプロジェクトで協働しているとしよう。だれかが「スパナを取ってくれないか?」と依頼するとき、同僚が「その代わりなにかをくれる?」と応答することはない143
実に、コミュニズムこそが、あらゆる人間の社交性〔社会的交通可能性〕の基盤なのだ。コミュニズムこそ社会を可能にするものなのである144
孤独な快楽も存在するが、最も悦ばしい活動には常に共有(シェアリング)がともなう。音感、食事、酒、ドラッグ、ゴシップ、劇、セックス。私たちが楽しいと思う物事の根には、コミュニズム的感覚か存在している148
日常であらゆる人が頻繁に使う、おねがいします(please)も、ありがとう(thank-you)も、どういたしましても本来の意味は、かつて封建的な敬意表現。これはどのような人間でも対等であり、「返せない負債」を生み出さないための人間が生み出した技である184
継続的である人間関係の全ては「負債」の形をとる。それがなければ「人間である」という単純な事実はなんの意味もなくなるだろう191
私たちが現在も「負債社会」を免れていないのは、まさに戦争と征服た奴隷制の遺産が完全に消え去ってないからである248
ローマでは「所有権」と「自由は財産である」ということから「自由を売却することは可能である」という法解釈により、奴隷が存在可能となった。この発想は現代人も当然の考えとして疑っていない311
ロゼッタストーンに書かれていたのは債務帳消し宣言332
利子の起源は文字の発明に先だっている325
硬貨が発明され流通したのは、枢軸時代の各国が戦争に明け暮れていて、傭兵への支払いとしてとても利にかなっていたから。硬貨を手に入れた傭兵は直ぐにそれを市場に送り込み、そしてまたたくまに広がった340
仏教、儒教、キリスト教の世界宗教が生まれたのは、貨幣が生まれ唯物論が発明された時代の対立思想としてだった。
すなわち、戦争が続く時代⇒傭兵への合理的支払いのため貨幣が生まれ流通する⇒貨幣を会得することが国家の目的になっていく⇒統治論として唯物論が生まれる⇒そのカウンターとして強力な宗教が生まれる⇒そしてとうとう統治のために国家は宗教を採用する372
枢軸時代が崩壊し中世に入る。流通が大きく減少した硬貨は寄進として宗教施設に集まる。これらは蓄財とともに仏像や施設の製造に使われた。枢軸時代の硬貨システムを復活(軍事的拡張のため)させようとした支配者は、これらの宗教施設の破壊を行った380
カースト制度が「不平等」というのは間違い。不平等は「人はみな本来平等である」を含意(がんい)されている。そもそもカーストは「この宇宙は様々なヒエラルキーで成り立っている」を根本原理にしているので下位カーストでも自らを「不平等」と考えない。だから大英帝国が負債懲役制度で統治したら、多くの反乱が起きて失敗した384
アダム・スミスの「神の見えざる手によって市場は保たれる」のルーツはコーランにあった(ムハンマドが「価格は神の意思によって決まる」と��っている)414
エリザベス朝、ステュアート朝のイングランドの村人たちは、法律が自分たちに有利な場合さえも司法制度に訴えることを好まなかった。それは隣人どうしでの解決が大切にされていたこともあるが、それ以上に法律ぎあまりにも厳格で過酷なため(訴えた相手が悲惨な目に合うのが心苦しいため)。しかし18世紀くらいから起訴案件がどんどん増えていった。その混乱の中でトラブルを回避する貨幣が重要視され、そして信用取引社会は貨幣取引社会に移行する。491
近代紙幣の始まりは12世紀イタリアでの軍費調達のための地方債だった。これはこの債権者(住民票)の「我々は国家を担っている」さらには「国家は我々のものだ」という思想を後に生み出す499
資本主義国家は成長し続けなければならない仕組みになっているが、その理想とされる成長率は年5%。これは中世から近代、とりわけ清教徒革命でルターが容認した徴利の率5%と同様だ510
資本主義が発展したころのアメリカでの状況。インディアンは強制的に布や硬貨などを買うローンを組まされ、そな返済という名目で実質的に奴隷となった。またそう仕向けた代理人自体もペルーの会社から借金していた。その会社もロンドンの投資家から信用借りしていた。すなわち資本主義はいかなる時点においても「自由な労働」をめぐって組織されていたことなど無かった516
普遍的市場はもはや不可能。資本家でなくても尊厳を持ち規則正しく報酬を支払われる賃金労働者に、たまれもがなれるシステムはもはや不可能であること。そのような世界は、これまで存在したことはないし、これからも決して存在することはない。さらにいえば、それが実現する見通しが立ったその瞬間に、システム全体ががらがらと崩壊をはじめてしまう524
資本主義とは、賭博師を、前代未聞の方法で、その作用の本質をなす一部として、聖堂に祭りあげるシステムである。しかしそれと同時に資本主義は、みずからの永続性を思考することが独特の仕方で不可能なのだ527
資本主義システムの本質に関わる決定的矛盾は、私たちを資本主義か崩壊したらば「破局」以外想像できない者にした(あるいは資本主義以外のオルタナティブ社会が可能かという問いを出来なくさせた)。であるので、今、自分自身を解放するために最初に取り組まなければならないことは、再び自らを歴史的行為者、世界の出来事の流れに変化をもたらすことの出来る民衆とみなすことである。歴史の軍事化が剥奪しようとしているのは、まさにこれなのである565
資本主義のオルタナティブがこれから生まれるのは何処か?もしかするとそれはイラクかもしれない。過去5000年でイラクでは劇的なモラル革新、金融的革新が生まれている。前3000年の「有利子負債の発明」、後800年の「有利子負債棄却による商業システムの発展」だ。そして現在、アメリカの占領に最も対抗した労働者階級のイスラーム運動「サドル派」。この名前はイスラーム経済学創始者のムハンマド・サドルから取られている。
その新たな展開はイスラーム的フェミニズムかもしれない。567
商業市場の起源は窃盗である570
「自然」「宇宙」「この世界」に私たちはなにを負っているのか(負債がある��か)?と考えること自体が誤った解決法だ。これは人間が自然や宇宙に負債を負っているということは、「人間は自然や宇宙と交渉できる」と言っていることにもなる。また、これによって私たちは、私たちの生は誤った前提の上にあるなにかと見なしてしまう。
そもこの前提こそが欺瞞である。自分自身の存在の基盤(自然・宇宙)と交渉することが可能であると考えることは、おこがましく、ばかげている。つまり「絶対的なもの(自然・宇宙)」にたいしては、負債のようなものがそもそもありえないのである572
私は勤勉ではない貧者を言祝いで、本書を終えたい。
少なくとも彼らは誰も傷つけていない。彼らが、余暇の時間を、友人たちや家族と過ごすこと、愛する人たちと楽しみ、配慮をむけあうことについやしている以上、彼らは考えられている以上に世界を良くしている。
おそらく、私たちは、彼らを、私たちの現在の経済秩序がはらんでいる自己破壊衝動を共有しようとしない、新しい経済秩序の先駆者とみなすべきだろう576
現代(2016)の日本の人文的言論は、左派の「既知の思想フレームにおさめれば、それで上手く行くはずだ」という風潮の強さで、だれもが「保守」であることを競い合う奇妙な状況があらわれている《伝統的保守(ウヨク)と革新風保守(サヨク)しかいない》630高祖