投稿元:
レビューを見る
ブルマが普及して消滅するまでの流れを理解する事が出来た。ただ細部の歴史的事実は色々間違っているところがあるような気がしたが、大変な労作出会ったことには違いない。
投稿元:
レビューを見る
密着型ブルマーがいかにして広がり、定着し、そして消滅していったかの社会論。
東京オリンピックを契機に、テレビを通じて外人選手を見る機会が増え、強い選手への憧れとしてレオータード(密着型ブルマ)がステータスシンボルとなる。また、戦後スカートの普及に伴い、スカートの下にパンツを二枚ばきする伝統があり、ブルマーに対する抵抗が少なかったとされている。
また、ブルマーの普及に関しては、国威発揚のためにオリンピックで結果を残す必要があり、中学生年代の選手を早くから育成する目的で、中学生の全国大会開催が期待されていた。そこに、中体連が絡み、組織維持運営のために、衣料品メーカーと組み、ブルマーの着用を推薦することによって、一気に普及していった側面があるらしい。
消滅に関しては、セクハラ概念の浸透、犯罪、代替物としてのジャージ系ハーフパンツの台頭があげっられている。
中学、高校共に普及率が50%を超えていたのは、1969年から1975年ごろらしい。まさにこの頃思春期を迎えていた私は、周辺に密着型ブルマーが溢れていて、それが当たり前のように感じていた。
しかし、その背景には本書で綴られていたような事情が複雑に絡んでいたということか。ある意味、時代の産物であった密着型ブルマーは、我々年代の記憶遺産かもしれない。
投稿元:
レビューを見る
タイトルと、表紙の装丁はアレですが、いかがわしい本ではありません。大まじめな社会学の本。著者は大学の先生。
なぜ、学校はブルマを体操指定服にしていたのか? どうしていきなり姿を消したのか?
そういうものを全国の学校が一斉に選んだ、しかも文科省からの指示通達があったわけじゃないのに。そのことについて明確な説明ができないのはなぜか。そんなテーマを扱った研究本です。
個人的な話になりますが、私、小学校と中学校、ずっとブルマでした。当時は漠然としか気にしてなかったですが、今考えると違和感がたくさん。
なんでこんなに「お尻がまるまる見える」カタチの服が、体育の指定服だったのか。ブルマが恥ずかしくて、体操着の上着をブルマを覆うように着て、ブルマ自体を隠していました。ノーパンみたいで、逆に恥ずかしい。
なぜブルマは出現し、消えたのか。たくさんの資料と、考察と、根拠を述べて、本一冊分、みっちりと論が展開されています。
疑問を呈する部分はすごく納得がいく。背景事情は興味深い。パンツ二枚履き理論はすごく腑に落ちました。メーカーさんの努力や、中学体育連盟の思惑なんかも面白い。
でも、それでもなお、著者さんが提示する理論には、部分的に納得しづらい部分がある。それも面白いところなんだと思います。一から十まで納得できるものではなく、ここはわかる、ここは私は違うと思う。そういうふうに読める本は、本一冊分以上の刺激があります。
お金が動き、人が動くものっていうのは、まあ、秘めた思惑と、時代の後押しってものがあるよねえ。
いつかまた、ブルマに関する新しい資料が見つかって、新しい論が展開されるんでしょうか。その日が来ることを願ってやみません。
投稿元:
レビューを見る
ブルマーの広まりの経緯が,中体連や東京オリンピックや繊維販売会社の思惑とともにあり,学校側はそれほど主体性がなかったのが面白い.そしてブルマーへの恥じらいが婦徳派の要件を叶えたというところが,切り口として新鮮だった.
投稿元:
レビューを見る
とても面白かった。
多くの資料に導かれて、ブルマーが一世を風靡し急速に消えていった理由に迫っていく。その中で明らかになる全国中体連という組織との関わり。ブルマーが帯びることになったイメージとは······。
とても引き込まれる作品だった。著者のブルマーへのこだわりが伝わってきた。
投稿元:
レビューを見る
サブタイトルに引きずられて読み始めたのは否めず(笑)。
しかし、なかなかハイブロウな社会学の本である。
昭和のある時期、ちょうちんブルマーが体にぴったりしたブルマーに代わり、その後わずか数年で汐が引くように廃れた。
うーむ、ジャージ姿が標準だった気もするが、女子が体育の授業とかでぴったりしたブルマーを穿いていた記憶はある。でも、今はそんなもの穿かないのだという。知らんかったわ。
さて、ブルマーの変遷と盛衰に関しては、ちょっと調べてもよくわからないらしい。(だから、こういう本もできた)
学校のことであるから、女子生徒が自分たちで「かわいー」とか「恥ずかしい-」とかで着る物を選べるはずもない中、なぜそのようなことが起こったか。
GHQのサシガネによる「中体連」の創設、スポーツ振興と教育の狭間で肥大していく思惑、企業との密約?などが次第に明らかにされていく。
全体的な印象としては、家父長的男尊権威主義の源流というか、戦後教育のゆがみというか、昨今のスポーツ界のパワハラ問題に通じる何かを見る思いがする。
ちなみに一気に廃れたのは、「ブルセラ」だの「セクハラ」だの体裁の悪い話題が相次ぎ、世間から外的圧力が強まった結果らしい。
投稿元:
レビューを見る
2019.6.22市立図書館
こどものころは当然のように着用させられていたのにいつのまにか消えた(子らは小学校からショート/クオーターパンツ世代)「ブルマー」の謎に迫るレポート。はずかしいと拒否反応をしめすのが当たり前だった当事者の女生徒はいうまでもないが性的感情を喚起しないように慎重だったはずの学校体育の現場がなぜ密着型ブルマーを急に受容することになったのか。新聞雑誌から社誌、国会答弁などの徹底的な資料収集と中体連やメーカーへの聞き取りを重ねて、60年代に急速に学校の体操着に採用されるようになって普及してから90年代に姿を消すまでの事情を追う。
普及のきっかけは東京五輪での海外バレーボールチームユニフォームに憧れてというのが俗説の1つだったようだが、それよりもおなじ五輪で女子体操競技のテレビ中継や写真などで体の線が露わなレオタード姿の演技を見られるようになって女性の健康的な美しさを評価することに正当性が与えられたことが大きいのではないか&女性の洋風下着受容の過程で戦前からずっと防寒と風紀上の策として見えてもいいような二枚履きが推奨されてきたせいで受容されやすくなったのでは、というのはなかなか説得力があった。
消滅に関しても、ブルセラショップなど性的な眼差しがきっかけとなったという俗説を退け、「長い間、無視されたり抑圧されてきた反ブルマーの声は、セクハラ概念の浸透によってようやく学校にも届くようになったといえる」と結論づけているのは、このところのハイヒール/パンプスの強制の問題にもつながって説得力とともに希望を感じさせるものだった。
ブルマーの黎明期に関してはちょうど「いだてん」の女子体育の黎明期と重なるところもあってドラマの補足情報のようにおもしろく読んだが、ブルマーの採用を巡って「中体連」という団体の正体を描くために思いがけず「いだてん」でおなじみの体協や陸連/水連なども登場して、戦後の体育教育・スポーツ行政の足取りも予習する形になり、このへんを大河ドラマではどう料理するのだろうかと期待と不安半々な感じ。
ということで、いろんな面でタイムリーに考えながら読める充実の一冊だった。
投稿元:
レビューを見る
国立女性教育会館 女性教育情報センターOPACへ→https://winet.nwec.jp/bunken/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=BB11369142&opkey=B161706439948081&start=1&totalnum=4&listnum=0&place=&list_disp=100&list_sort=0&cmode=0&chk_st=0&check=0000
投稿元:
レビューを見る
ブルマーの謎: 〈女子の身体〉と戦後日本 単行本 – 2016/12/8
セクハラ概念の浸透によって密着型ブルマーは消えていった
2018年3月14日記述
山本雄二(やまもとゆうじ)氏による著作。
2016年12月8日第1刷。
自分が手に取った分は2017年1月27日第3刷とあるから
異例のヒットといえるだろう。
題名自体は割とオーソドックスではあるけれどもブルマーを上手い感じに表に出して読者の関心?を引いている。
著者は1953年、愛知県生まれ。
京都大学 工学部交通土木工学 1979年 卒業
京都大学博士課程 教育学研究科教育社会学 1986年 修了
取得学位 修士 1983年 3月 京都大学
関西大学社会学部教授
専門は教育社会学
学校の体育において女子は長年ブルマーを使用してきた。
それがある時期を境に急激に日本全国に普及し、約30年もの間君臨した。
そしてある時を境に急激に日本全国から姿を消した。(1990年代半ばから)
言わば謎としか言いようのないこの現象に対して調査を続け、まとめ上げたのが本書である。
学術論文の雰囲気は無く読みやすく作られている。
データや写真も多く掲載されている事も評価したい。
自分の小学生中学生時代(1991年~1999年)の大阪府大阪市では本書で取り上げられる密着型ブルマーが使用されていた。
第二成長期の中学生時代にこのブルマーは確かに恥ずかしいだろうなと。
ちょっと対応が遅すぎたかもしれない。
ただ学校のものという事で問題であるという認識が乏しかったように思う。
全国の中体連による推薦があり全国に広まったというが・・
GHQの指令で全国大会を開催することが出来ない時期があったことはちょっと知らなかった。
今では才能を見つける為にも全国大会、地域大会を開く事はあらゆる競技において欠かせないからだ。
印象に残った部分を紹介したい。
学校には奇妙な力学が働いている。一旦導入されて定着したものに対しては、その効用が疑問視されようが、あるいはそもそも何の為に導入されたのかが忘れ去られ、もはや誰も説明できない状況になろうが、そのまま継続される傾向があるのだ。単に継続するだけでは無く、廃止の声に対しては積極的に抵抗するように見えることもある。どうしてだろうか。その理由は簡単だ。
継続する内にいつの間にか精神性をまとい、道徳性を帯びるようになるからである。
「どのようにして学校に取り入れられたのかわからない、なのに継続だけはされ、もはや、どうして継続しているのか誰もわからない」現象として、密着型ブルマーほどふさわしいものはないだろう。
一番初めにブルマーを女子体操着として日本に紹介したのは井口阿くりである。
みずから考案した体操着を奨励した。その時に図入りで紹介したのが、上は長袖のセーラー服、下は膝下までの巨大なふくらみを持つニッカーボッカー風のブルマー(当時はブルマースと呼ばれていた)である。
ブルマーが広く一般の学校に定着したのは、井口が帰国し啓蒙を始めてからさらに20年ほど後の事らし��。
文部省は体育時の服装に関してかなり気を使ってきた。
女子の体に対して性的まなざしを誘発することがないようにまた性的存在であることをことさらに意識させることがないように注意しなさいと指導しているわけである。
普及と消滅に関する諸説
東京オリンピック憧れ説
→ソ連の選手に憧れた少女達がいたとしても、学校の制服を変化させたと考えることはとても出来ない。
これまで学校が少女たちの憧れを制服に反映させたことがあっただろうか。
技術の進歩/業界の事情説
→学校の体操着は、ユニクロの服がヒットするような仕方でヒットするわけではないのだ。
多くの場合学校の指定という要件が間に入る。生徒が選択出来るのはどのメーカーのものを選ぶかだけなのである。どうして全国の学校がある時期にこぞって密着型ブルマーを女子体操着として採用したのかだ。技術の進歩と業界の事情ではその点を説明することが出来ないのである。
運動機能向上説
→ブルマーに関しては、ちょうちんブルマーから密着型ブルマーに変わったからといって、動作面での機能は殆ど何も変わらなかったと言える。
1946年5月 文部省が作成した新教育指針では
国家主義を否定して、個人の健康とスポーツマンシップを養成することスポーツエリート主義を否定して、全ての子供にスポーツの機会を与えること勝利至上主義を否定して、個人の性別・体格・技術に応じた目標と実践をおこなうこと
三番目に否定されている勝利至上主義は、体格・技術・訓練に見合わない勝利にこだわれば必然的に精神主義に走らなければならなくなるという意味で精神主義もまた否定されている。
精神主義から脱するには、上達のいずれの段階でも科学的な発想が求められるが、この科学的発想こそが戦前までの教育に欠けていたものなのである。
このことを反省して指針は次のように書く
「科学教育にちて、はなはだ冷淡であり、むしろ、誤った考えすら抱いていた。すなわち科学教育を知育偏重と混同して、これを有害なものと考える人々すらあった。
また日本人は物事を取り扱うに、「勘」とか「骨(こつ)」とかいわれるような主観的、直感的な力にたより、客観的・合理的な方法を発展させることを怠った。
たまたま、その勘や骨に恵まれた天才的な人間が、優れた技術を持つことが出来てもそれを規則だった方法の訓練によって、多くの人々に学ばせたり、後世の人々に伝えたりすることが、出来なかった。さらに日本人は権威や伝統に盲従して、これを批判する態度が乏しく、感情に支配されて、理性を働かせることが少なく、目や耳に触れぬ無形のものを尊敬して、物事を実証的に確かめる事が不得手であり・・」
1964年の東京オリンピックは、のちの回顧番組などでは男子体操や柔道の活躍、それに女子バレーボールの優勝などもあって日本が大活躍したという印象が作られているが、柔道とバレーボールは東京大会で初めて採用された新種目であり参加国も少なく、世界の目から見ればどちらかといえば枝葉の種目だった。
その感覚はスポーツ大日本派にとっても同じで、重要なのはやはり水泳と陸上だった。
東京大会は日本の栄光を��界が目の当たりにする晴れ舞台になるはずだった。
ところが、よもやの惨敗である。スポーツ大日本派にとって東京大会は晴れ舞台どころか屈辱の大会となってしまったのである。
大会をやらせない為の組織だった中体連は、もともと会費と補助金と推薦料以外の集金システムを持ち合わせていない。他の方法で資金集めをするノウハウもない。
だから、大会に関わるようになってからの中体連は慢性的に資金難にあえいできた。
オリンピック東京大会以降、全国中体連は資金面での困難がますます大きくなった。
そうした資金的窮状にある時、素晴らしく商才に長けた人物が中体連にあるアイデアを持ちかけた。これまでたびたび回想記の中に名前のあがっていた千種基である。
校長会-東京都中体連-全国中体連-日本綿毛(尾崎商事)が密接に持ちつ持たれつつの関係を維持しながら、ジャージ・ブルマーの浸透はいわばトップダウン方式で急速に進んでいった。
密着型ブルマーが消滅に向かって加速するためには(中略)
セクハラ概念が日本社会に急速に浸透したことだった。
セクハラが日本社会に浸透し始めたのは1989年のことである。
言葉自体はそれ以前にも使われていたが、福岡の出版社に務める女子編集員が上司のセクハラを理由に民事裁判を起こした事で広く注目されるようになった。
そうした時代の流れの中にあって、密着型ブルマーの強制もまたセクハラではないかという議論が出てきた。発端は1993年11月22日付けの朝日新聞がブルマーの統一くすぶる不満としてシンガポール日本人学校中学部のブルマー統一問題を取り上げたことだった。
長い間、無視されたり抑圧されてきた反ブルマーの声は、セクハラ概念の浸透によってようやく学校にも届くようになったといえる。
投稿元:
レビューを見る
ぴったり密着型ブルマー。誰もが知っているようで、実は絶滅状態で、若者なんかは知らなかったりもする。いったいこのブルマーがなぜ生まれ、そして消えていったのか。
…という、社会学のある種の典型のような研究成果の本、である。
なぜって、ブルマーのことなど、みんな忘れても、ほうっておいてもいいじゃないか。だけど本書は真剣にブルマーの誕生と死亡への歴史を紐解いていくのだ。
ブルマーはなぜ登場したのか。
ちょうちんブルマーはかっこわるい、ぴったりしたものを、という説やら、技術の向上で作れるようになったとか、運動機能向上のためだとか。
いろいろあるが、どうも、ブルマーに日本女子らしさ、みたいなものを投影し強制したい輩がいたようだ。ブルマーは性的シンボルのようでもいて、しかし道徳的存在だったのだ!
というわけで、ブルマーのことなどわからなくてもどうでもいいのだ、などと大上段に構えていたのに、すっかりひきこまれてしまった。どうでもいいと思える本こそ面白い、というのは一つの真理であろう。ただ、読んでいるのが周囲にバレるのが強烈に恥ずかしい本であった。僕の中のブルマー因子が何かを訴えているのだろうか。僕にもブルマーを性的に、あるいは道徳的にみる気持ちがあるのだろうか。
投稿元:
レビューを見る
何故、学校で密着型ブルマーが取り入れられ、存続され、
そして廃止されていったのか。各種資料やデータ等を調べ、
考察し、詳細に解き明かしてゆく。
・はじめに
第1章 ブルマーの謎と来歴
第2章 密着型ブルマーの普及と風説 第3章 中体連とブルマー
第4章 全国中体連の設立と変貌
第5章 密着型ブルマーの普及過程
第6章 密着型ブルマー受容の文化的素地
第7章 密着型ブルマーの消滅過程 第8章 ブルマーの時代
・おわりに
注、参考文献一覧有り。
1900年代に女子の体操着としてブルマーが取り入れられ、
特にちょうちんブルマーは戦後しばらくの間使われていた。
が、1960年代に密着型ブルマーが取り入れられるようになる。
GHQの方針、文部省の苦慮と中体連の設立。
全国大会を阻止するのが目的だった中体連は、
東京オリンピックによりスポーツ大日本派や世論に押し切られ、
大会を主催する団体へ変容。しかし資金不足に陥り、
体育衣料メーカーとタッグを組み、支援を受けながら
体育の授業用のジャージや密着型ブルマーの販売を後押しする。
折しも東京オリンピックでの女子体操などの姿に、
健康的な容姿を見い出したのか、学校で密着型ブルマーが
受容される。戦前からの下着とブルマーの二枚ばきの素地も。
だが、セクハラの概念が浸透し、ブルマー強制もセクハラでは
ないかとの疑念が生まれ、ハーフパンツ等への移行が始まり、
密着型ブルマーは消滅していった。
普及や消滅の風説についても丁寧に考察したうえで、
密着型ブルマーについての様々な資料から解き明かしてゆく
過程は、なかなかの力作でした。
30年も密着型ブルマーが定着していたことについては、
道徳的意味合いがあったのではと考察していますが、
学校は一度決めた事がなかなか変えられない場であると
というのも、あるんじゃないでしょうか?
そういえば昔、職員会議の場で、簡易マネキンを準備して、
校長が密着型ブルマーからこのハーフパンツに替えたいと
言ったときは、よく決断したなぁと思ったものでした。
まぁ、体育衣料メーカーの意向もあったのかもしれないけど。
投稿元:
レビューを見る
「宮部みゆきが「本よみうり堂」でおすすめした本」でお勧めされた本、第ニ弾。
書き振りは新聞記者の週刊誌連載のごとくとても分かりやすいのだけど、大学の先生の本なので、とっても実証的。「まえがき」には、キチンと本書の目的と要約が載っている。それを更に要約すると。
学校には、校則とか、近年注目された活動が幾つかある。学校関係者は、どこと無く活動の廃止には後ろ向きである。理由は、「集団美学が個人のリスクを超えて称揚される空気が、いまだ亡霊のように学校空間の中に漂っている」ためのようだ。加えて、一旦導入されて仕舞えばそのまま継続される奇妙な力学も働く。何故か。「継続するうちにいつの間にか精神性をまとい、道徳性を帯びるようになるからである」(9p)学校では、「民主主義の全線基地」と「家父長的な心情が生きながらえる温床」のねじれが、21世紀に入ってもなお存続している。密着型ブルマーの変遷はその具体例として取り上げた。(10p)
繰り返すが、読み終わるまで大学教授の文ではなく、週刊誌ライターの連載記事だと思っていた。とってもスリリングで面白かった。
60年台終わりから90年代初めにかけて、学校で採用された「密着型ブルマー」は、当初から使用者の嫌悪があったにも関わらず、採用経緯が全然残っていないのにも関わらず、全国に広まった。
著者の調査によると、東京オリンピックソ連女子バレーに憧れたというのは都市伝説であり嘘で、中学体育連盟の資金難を体操服メーカーが協力したという経緯が炙り出される。このメーカーが、なんと岡山県倉敷市(児島)に本社を持つ尾崎商事(ブランドはカンコー学生服)なのである。身近なので恥ずかしいけど、尾崎商事は彼らなりに社運をかけた取り組みだったこともわかる。
そうはいっても、それまでのちょうちんブルマーから恥ずかしさの伴う密着型ブルマーに変わるためには、受け入れ側にもそれなりの理由がなくてはならない。その分析も社会学者らしい実証的なものだった。宮部みゆきさん、これらを背景に小説書いてくれないかな。
2024年2月25日読了
まだ目の視力の不安定が続いていて、スマホの文字が見えにくい時があります。「いいね」返しができないことがあります。既読スルーをお願いします。