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あなたの覚えていること、なかったことかもしれません
2017/09/12 17:36
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投稿者:hontoカスタマー - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は私たちの記憶の仕組みの中で起こる過誤記憶にフォーカスして人の記憶のあいまいさについて述べています。過誤記憶とは、何かを記憶する際に、実際なかった出来事にもかかわらず本物の記憶のように感じられる想起のことです。
著者はこれらを意図的に過誤記憶として作り出す実験を通して明らかにしています。人の記憶がこれほどいい加減で、方法を知っていれば、なかったことを作り出すこともできるという事実は驚きでした。
過誤記憶は身近なマーケティングにも活用されています。「まずは無料購読、支払いはあとで」といった販売方法は人の記憶の脆弱性につけん込んだ販売戦略だそうです。
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過誤記憶の専門家による著者の領域の研究をまとめた本です。記憶は常に書き換えられ、他人との話やファイスブックなどで話を共有する中で、どんどん無意識に変化していく。そうして変化した記憶と元々の記憶の違いに気づく方法はなく、人に残る記憶が本当に経験した記憶なのかは誰にもわからない。その中で、「DNA検査により無罪と立証された325件の事件のうち、235件もの事件に目撃者の誤認がかかわっていた」もはや、犯罪で逮捕される確率より、冤罪で逮捕される可能性のほうが高いのかもしれない。記憶の仕組みの正確な知識が重要だということを再確認しました。
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著者は記憶研究の専門家。「私は記憶ハッカー。私は起こっていないことを起こっていたと人に信じ込ませる」という。それは催眠術のような怪しいものではなく、注意深く準備された実験において、その人が経験しているはずのない記憶を誤って覚えていると信じ込ませることができる、ということだ。著者は、そのような過誤記憶を生じさせることが、記憶の仕組みを解明するきっかけになると信じて研究を続けている。そして、「人の記憶には致命的な欠陥があると納得してもらうこと」がこの本を書いた理由であるという。その裏には、間違った証言によって、告発され有罪となった人の存在がある。司法当局による捜査や裁判の中では、もっと慎重に証言が取られるべきだという主張につながる。
本書の中で扱われる、不正確な記憶にまつわるテーマは様々で多岐にわたっている。幼児期の記憶、偽の記憶、 特殊な記憶力、記憶への過度な自信、同調する記憶、修正される記憶、といったものが話題にされる。記憶のシステムにおいて、経験はいくつもの断片として貯蔵され、その断片は実際には起こらなかった形に再結合できると言われている。脳の仕組みは連想記憶システムを構築したが、その生理学的要因によって記憶の幻想も生じることになった。
よく考えると、自分の脳が経験や事実を記憶しているというのはとても不思議なことだ。人の名前や覚えているはずの技術用語を思い出すのに以前よりも時間がかかり、知っているはずなのに正解である言葉が出てこないということを繰り返すと逆に以前は本当に当たり前のように記憶できていたことが不思議になってくる。新しい記憶を作るという能力が年々落ちているのを感じるが、注意を向けることが記憶形成の必須条件であるということから、並行処理が多くて物事に注意を向けることができなくなっているだけなのかもしれない。単に知らないうちに回りへの興味を失っているだけなのかもしれないが...。
「記憶は忘れるために形成される」という言葉も印象的だ。そのとき行われる忘却は、脳の効率を上げて重要な情報だけを貯蔵するために行われる処理だ。いずれにせよ人はすべての経験を記憶しておくことはできない。そういった記憶の中で、人間は記憶の隙間を自ら埋めようとする。そして、それが矛盾のないものであればいとも簡単にその正確性について疑いを抱かないようになる。またときに周りの見解に同調するがゆえに、自分の記憶の方を修正することもある。この事実は、仲間と同調して動くことで利益を得られたことから遺伝的に獲得してきた能力にも関係していると言われる。そういえば、ダニエル・カーネマンの『ファースト・アンド・スロー』にもこの事例が出てきていたような気がする。こういった記憶の傾向を利用すれば、他者の記憶を都合のよいように操ることもできるようになる。曖昧さをごまかすためにときに人は頑なになるため、記憶に対する強い自信は逆に危険信号と考えるべきだともいう。そう考えると人間は自分の記憶の正しさを本当には確信することはできないのかもしれない。自分の小学生のときに行った旅行の記憶や学校の記憶が果たして本当にあったこと��のか、いくらそれが明白であるように思えたとしても、不思議だけれども本当なのかどうかわからないのかもしれないのだ。
この本を読んで粗てめてわかることは記憶というものがいい加減で脆いものであるということだ。例えば、熱気球のゴンドラに乗る合成写真を見せられた後、その出来事を覚えているかと尋ねられると半数が経験がないにも関わらずあると答えて、写真の方に記憶を合わせてしまったという。 また、記憶について多くのことがわかりつつあるものの、記憶の仕組みについて本当に深いところで人間はまだ理解できてはいない。例えば、夢は「学習と記憶の適切な機能に欠かせない、活発なオフライン情報処理」状態だという説がある。熟睡中に人は一日の記憶を再現するように脳の中で再生されているというのだ。睡眠が記憶を強化するというのは他でも言われていることではある。ただし、本当にそうであるのかもまだよくわかっていない。脳の損傷による症例を通して、海馬が記憶の形成に大きな役割を果たしていることがわかってから長い時間が経つが、いまだに記憶は脳神経科学の大きな謎のひとつである。
本書における大きなテーマのひとつは、インターネットが人の記憶行動や記憶能力に与える影響である。ベッツィ・スパロウの論文『Google effects on memory』はそのことを論じたものである。インターネットは、「外部メモリあるいはトランザクティブ・メモリの基本形態となり、情報は人の外にまとめて保存されるようになった」という。後でGoogleに聞けばわかるものを、誰が注意を振り向けて記憶しようとするだろうか。インターネットの存在は、人の記憶力にも影響を与えているのである。後でデジタル化された形で読めると思うと、情報を記憶できなくなる症状については「デジタル健忘症」という名前までついている。スパロウいわく「人はコンピュータツールとの共生の結果、情報そのものではなく、その情報を見つけられる場所を記憶する相互システムとなりつつある」らしい。 著者はさらにソーシャルメディアの出現によって、誤情報が生じる可能性が高くなり、その過程で過誤記憶が生じる可能性も高くなっていると警鐘を鳴らす。
著者は、ネットにあるとわかるとその事実に対する記憶力が低下することと同じように、人は書くことによって書いた内容を記憶から外してしまうということも紹介する。そのことを示す実験例として、強盗役の人を目撃した人がその人物の写真を見分ける実験で、その顔の描写を言葉で書き留めた人は、書き留めなかった人と比べて正確率が著しく下がったという。実に正解率27%と61%という大差になったという。この実験の結果は多くの異なるサンプルにおいても追試され、同様の結果になることが確かめられている。ここから言えることは、非言語的なことを言語化することで、現実の経験ではなく言語化された断片を記憶するのかもしれない。
また、情報がどこにあるかを記憶すると、その内容の記憶が低下する例として、携帯電話番号が挙げられている。ある調査では、50%の人がパートナーの電話番号を思い出せず、71%が自分の子供の電話番号を思い出せないという。しかし、その情報がどこに保存されているのかはしっかりと知っているのである。これについては自分も経験していることで、自���の携帯の番号さえ思い出せないときが多々ある一方、もう20年以上は使っていない生家の電話番号はいつでも思い出せる。(ちなみに学生時代の一人暮らしの電話番号も思い出せる。ただそれは、03-3838-0038 ~ さわださわだ、おおさわだ、という番号だったからかもしれない)。
自分の経験でも腑に落ちる経験がある。留学時代の数学の試験でA4用紙1枚までならどんな公式や解法を書いたものでも持ち込み可能という条件が付けられた試験があった。そのとき、できるだけ多くの式を前の晩に紙に書きつけたのだけれど、いざ使うときになるとA4用紙の中でどこに書いたのか探し出せなかったり、普通に覚えていなければならないことが思い出せなかったりして、ひどい結果になったことがある。たぶん何も持ち込みなく試験準備をしていた方がよい点数が取れたのではないだろうと思っている。こうやって多くの書評を書いているけれども、書くことによって本当の本の内容については忘れてしまっているのかもしれない。
この本は次の扉の言葉から入っている。ロフタス教授は、犯罪捜査における証人の偽記憶に権威だ。
「記憶は作ることができる。
作り直すこともできる。
記憶はウィキペディアのページに少しにている。
自由にアクセスし、変更できる。
それはあなた以外の人にもできる
― エリザベス・ロフタス教授」
法廷での証人証言と記憶の問題。それは、著者の専門でもある。著者は、「過誤記憶を生じさせる可能性のある方法で証言を集めてはいけない」という。実際に、自白至上主義のところがある警察の取り調べでは、容易に容疑者の記憶を操作することができるのかもしれない。警察の取調官は「自白させる」プロでもあるし、自らが描く絵に沿って記憶を告白させる強いインセンティブが存在する。科学的な過誤記憶の研究成果がなくても、「自白させる技術」によって、証人に筋書に沿った記憶を持たせることができるのではないかと思う。実際にアメリカでもDNAを使った再検査により無罪であるとわかった325件のうち235件で目撃者の誤認された記憶による証言が重要な影響があったことを示している。
いずれにせよ、記憶は自分が思っているよりもナイーブなものであることは自分が証言台に立つ可能性がどうであれ、知っておかないといけないことだろう。記憶のことを信じられないと思うようになることで、誠実になる代わりに、ますます記憶が低下してしまう可能性もあるのかもしれないが。
人はますます自分の行動や考えをデジタルで記録するようになるだろう。そして、ますます安心して人は経験の断片を忘却することになるのかもしれない。
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主に「人の記憶は当てにならない」ことについて、研究結果などから述べた本。面白かった。
記憶術についても少し書いてあるが、長期記憶には使えないかな…
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記憶は、時間の経過とともに自分に都合よく形作られていくものである。
正確な記憶というものは存在しない。
特に幼少期の記憶は、何もないところからでも写真は話などから作られていく。
記憶というものはとても曖昧なものであるという事を理解した上で、対応することが重要である。
・脳にはすでにおよそ八六〇億個のニューロンが存在するため、記憶の記録とは、新しい脳細胞を作ることではなく、既存の脳細胞を結びつけ、それを調節することだ。ニューロンの結合のどの部分も変更することができ、記憶形成に重要なのは何よりもシナプスたと主張する。
・記憶と睡眠の関連性の理解に役立つという「アクティブシステム固定説」というものだ。この説は、徐波睡眠と呼ばれる睡眠中に、覚醒している間に形成したばかりの記憶が強化されることを示唆している。睡眠には記憶を固定化する働きがある。ニューロン間の結びつきを繰り返し、経験を再生することにより、記憶を長持ちさせくいるのだ。睡眠が重要な理由は、脳の活動レべルを日中のものから下げ、あまり重要でない結びつきの数を減らし、脳の効率を向上させるためであるようだ。前述のシナプスの刈り込みプロセスのことだ。このプロセスのおかげで、重要な記憶痕跡を保持し、重要でない「日々の経験が生んだノイズ」を取り除くことができる。
・人は実際、サブリミナル学習の支持者たちが言うように、睡眠中に新しい複雑な情報を学習したり、記憶を著しく強化したりできるのだろうか。答えは、明らかに「できない」。人間が睡眠中に単語や事実を学習できる、あるいは、性格改善のマントラから効果をえられるという証拠は存在しない。
・人種もまた、人を特定する能力に影響を及ぼす。これを「人種バイアス」と呼ぶ。異なる人種の顔は似たように見えてしまう。おそらく人は誰でも、自分では認めなくても、人種差別主義者なのだろう。
・写真は、特に意図的な誤情報と組み合わされると、人の記憶をかなり深刻に誤り導くことができるようだ。その主な理由のひとつは、言語隠蔽を起こす原因と似ているらしい。写真を見ると、人はその状況の新しい記憶を作り上げ、それが出来事を実際に経験している(あるいは経験していない)記憶を妨害してしまう。その出来事について考えると、写真の記憶と実際の経験との区別がつけられなくなる場合もある。もしかすると、本物の視覚的記憶を別のものと丸ごと取り替えているのかもしれない。感情的な出来事であろうとなかろうと、言語的であろうと、視覚的であろうと、記憶は簡単に操られてしまうのだ。
・短期記憶とは少ない情報を短時間保持する脳のシステムのこと。本当に短く、たった三〇秒ほどだ。たとえば、電話番号を記憶しようと、ダイヤルするまで繰り返しロにする音韻ループを行うとき、人は短期記憶を利用している。人がワ|キングメモリに一度に保持できる情報の数はセプラスマイナスニとい,ものだつた。その人の記憶力とそのときの精神状態にもよるが、人の記憶容量はたった五個、多くても九個なのだ。この不安定さが目立つときがある。疲労困慮したとき、たいていの人は短期記憶がほとんど���ロのように感じるだろう。
・ニューロン間の瞬間的で一時的なコミュニケーションを通して、思考を生じさせるこの能力は、本物のマルチタスクを不可能にするものでもあるらしい。人の脳はニューラル・ネツトワークをほとんど一瞬で配線し、配線し直すが、この心の柔軟性の裏には、一度にひとつのことだけしかできないという代償がある。要するに、同じニューロンによって同時にいくつものアンサンブルを造ることはできない。そうするには、一度に様々な波長を送り出さなければならなくなる。
・色と方向の視覚探索課題など、脳の同じ部位を使うふたつの課題では、歩くことと話すことなど、直接対立しないふたつの課題より、ずっとむずかしく感じるのが普通だ。前述の瞬間的な切り替えスイッチ(アルファ波)を使うことなく、上を向いた青い物を一度に探そうとすれば、まったく同じ視覚ニューロンを使い、同時にふたつの違う課題を行わなければならない。
・意識のクリスにひとつ、無意識のアダムにひとつというように、脳のふたつの部位に同時に課題を行わせるというやり方もある。ふたりはときどき話し合う必要があるため、スピードは落ちるかもしれないが、たいていどちらの仕事もかなり上手にゃり終えられる。意識過程と無意識過程が同時に起こると、実はこんな状態になっている。クリスは思考と決断が得意で、7ダムは車の運転、歩行など、人がほとんど無意識に行う課題が得意だ。注意力を分割しようとすると、それが互いに関連のないような課題であっても問題を起こす場合がある。人にはマルチタスクができないことだ。それにもかかわらず、現在、多くの国が手持ち式の携帯電話の使用を禁止し、ハンズフリーの電話の使用を認めくいる。きっとこの情報を無視しているか、根本的に理解していないのだろう。
・自分が思い出しているのが実際にあった現実なのか、オンライン向けに巧妙に作つた現実なのか、どうしたらわかるのだろう。おそらく違いはわからない。想起に対する社会的プロセスが膨張し、以前はできなかった方法で浸透していく可能性があるからだ。ソーシャルメディアと、人が他者とつながる能力は、メリヅトとデメリヅトという興味をそそる新しい組み合わせを展開しつつあるが、記憶研究者たちはそれを探究しはじめたばかりだ。それは華やかな新世界であり、人間が共に記憶する形には刺激的な発展が期待できる。
・あなたは今、自分の記憶は救いようがないほど信頼できず、信じがたいほど不正確だと感じているに違いない。人の記憶には致命的な欠陥があると納得してもらうことこそ、私がこの本を書いた理由だ。生物学的な弱点、知覚のエラー、記憶の汚染、知覚バイアス、過信、作話によって、記憶がどれほど損なわれているか理解してもらえたとよいのだが。しかし、私たちはどうすればよいのだろう。記憶を不良品として切り捨てることなどできない。それでもなお、人は記憶を必要とする。人は日々、それを頼りに生活しているのだから。
・メタ記憶とは、自分の記憶とその機能状態を理解することだ。これは一種のメタ認知、つまり認知を認知すること。この能力があれば、自分がなぜ、どのように記憶し、情報の断片をどれくらいうまく記憶できるのか、客観的に把握できる。
・記憶システ���のあらゆる弱点を理解すれば、まったく新しい道徳的規範に従うことカできる。私たちの過去は作り話であり、私たちがなんとか確信を持てるのは、現在起きていることガけた。これを知っていれば、この瞬間を生き、過去を重視しすぎないですむ。そして、人生最高の時は今、記憶が意味するものも今であることを受け入れられるようになる。
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〈本のまとめ〉
人の脳は、情報をつなげるという驚くべき能力を利用し、能動的あるいは受動的に情報をいくつものまとまり、つまりチャンクにすることができる。
今、一番もてはやされている記憶の生化学的理論、検索誘導性忘却だ。この理論は覚えれば忘れるというものだ。
「連想活性化」の概念は、アリストテレスとエビングハウスの考えを改善したものであり、概念的に似た他の思考あるいは経験が処理されると、特定の記憶の活動が活発になるというものだ。
ニューヨーク大学の神経学者アンドレ・フェントン博士
「おそらく忘却は脳が行う非常に重要な仕事のひとつだ」
(ある研究者たちによれば)
「忘却は苛立だしいものであっても、神経処理にとってはメリットになるため、記憶力に適用力を与える可能性があること」。関連性の低い情報をふるいにかけて減らせば、より効率のよい記憶力の持ち主になれる。人生の重要な事柄の記憶が向上するのだ。
注意と記憶は互なしに成り立たない。
カリフォルニア大学のジェームズ・ファウラー
「人間は多くの心理的バイアスを見せるものだが、その中でも、非常に普遍的で、強力で、どこにも存在する物のひとつが過信だ」
MITの神経科学者アール・ミラー
「人はマルチタスクが得意ではない。できると言うのは思い違いだ。脳は自分を欺くのがとてもうまい」
「マルチタスクをしていると思っていても、実はあるタスクから別のタスクへと素早く切り替えているだけ。そして、切り替えるたびに認知コストがかかる」
人は誰でも複雑な過誤記憶を作り上げることができ、小さな過誤記憶なら、四六時中、気づかないうちにつくっている。
自分の記憶に関する知識から考えれば、たったひとつの記憶だけで法的制裁がなされるような世界には暮らしたくない。
過誤記憶の実態を否定しないようにしよう。
人の記憶には致命的な欠陥があると納得してもらうことこそが、私がこの本を書いた理由だ。
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このタイトルは内容をあまり反映していないと思う。なぜこんな安手の新書のようなタイトルをつけたのだろう(表紙の絵も意図がわからんし)。語り口は平易だけど、その内容は最新の研究結果に裏付けられた専門的なものだ。私たちの記憶というのはきわめて不確かなもので、容易に「過誤記憶」を持つが、それは脳の働き、記憶のメカニズムからそうなるべくしてなるものなのだ、ということを納得させられる。
前半のアプローチ部分は、やや退屈な感が否めない。たくさんの研究や実験に言及されていて、それは確かに興味深いのだけど、なかなか本題に入らず、ちょっと読み進みにくい。しかし、後半になると、そこまで述べてきた知見をもとに圧巻の記述が展開される。第6章「優越の錯覚」第7章「植えつけられる偽の記憶」が白眉。記憶というものについての認識を新たにした。
終章で著者は、記憶とのつきあい方を述べている。自分の記憶は非常に疑わしいと知りながら、幸せでいられるのだろうかという問いに「もちろん」と答える。わかりにくい記憶の仕組みを知ることで、そのいくらかは自分で制御でき、自分自身の記憶の被害者になりにくいからだ、と。
「私たちの過去は作り話であり、私たちが何とか確信を持てるのは、現在起きていることだけだ。これを知っていれば、この瞬間を生き、過去を重視しすぎないですむ。そして人生最高の時は今、記憶が意味するものも今であることを受け入れられるようになる。」
にわかには共感しにくいが、示唆に富んだ言葉だと思った。
へぇーと思ったことをいくつか。
・赤ん坊の脳は急速に成長するが(二歳までに容積的には二倍になる)、同時に神経細胞は大規模に刈り込まれる(主要な領域のニューロン数は、大人は新生児より41パーセントも少ないそうだ。ビックリ)。不要な情報を捨て、効率を上げ「最適化」を行うためだが、これがあまり幼い頃の記憶は持てないことの一つの原因らしい。
・「どんな出来事も想起するたびに、記憶は生理学的に歪み、忘れられやすくなる」というのにも驚いた。思い出すたびに確かなものになるんじゃないのか。思い出すというのは「索引カードをファイリングするのと同じで、一枚引き出して読んだらゴミ箱に投げ入れ、その内容を新しいカードにもう一度書き直す」ことだそうな。
・「記憶には二つのもの、要旨痕跡(経験の意味の記憶)と逐語痕跡(具体的な詳細)が関係しており、この情報は並列処理され、別々に貯蔵され、想起も別々である。要旨痕跡の方が時間がたっても安定している」。そうか、それで「○○に行ったとき会ったあの人、なんて名前だったっけ?」ってことがよくあるわけだ。
・「脳はマルチタスクが苦手で、特に同じ部位を使う二つの課題をこなすのは難しい」。これは実感として納得。今具体的な例が思い浮かばないけど。
・「検索するから忘れる」。これも実感。簡単にわかったことは簡単に忘れる。
・フロイトの「理論」は裏付けがなく、科学ではないとこてんぱんにやっつけられている。フロイトに対しては以前から批判が多く、臨床医の「私見」として見るのが正解なのかとも思う。でもフロイトの説にはたくさんの人を惹きつける魅力があるのもまた事実。「無意識」の重視という考え方には、多くのエセ科学を生むほどに説得力がある。
・「トラウマとなるような記憶はしばしば抑圧され、当人の記憶から排除されるが、何かのきっかけでよみがえる」というような筋立ては、フィクションの世界でよく登場するし、実際そういうこともあるだろうと思ってきた。著者によるとこの説は矛盾だらけで科学的根拠がないそうだ。そうなの!と驚く。
・過去の虐待被害を「思い出した」人による告発が、おそろしい冤罪事件を生んだ事例が紹介されている。ここで著者は、過誤記憶研究は虐待被害者をさらに苦しめるものだという批判があるが、そこは充分に配慮しなければならないとしている。これはなかなか難しい問題だ。
第1章は「人生最初の記憶」。それで思い出したことを書き付けておく。私が最初の記憶だと思ってきたのは、祖父が家の土間で何かしている(おそらく藁で縄をなっている)姿だ。祖父は私が四歳になる前に亡くなったので、本当の記憶なのかあやしいのだけど。その祖父の葬式についてはもっとはっきり覚えている(と思ってきた)。玄関のところの柱に寄りかかって、今日はたくさん人が来るなあと思っていた覚えがある。父に抱き上げられて棺桶の中の祖父に「バイバイして」と言われた記憶もある。ただ、それらの記憶は自分の視点ではなくて、小さな女の子の姿を見ている誰かの視点だ。してみると、これも親の話などから後に作った「記憶」なのだろうか。
いつだったか、どういう話の流れでか、大学生の息子が一番古い記憶のことを話してくれたことがある。何歳かわからないが季節は冬で、珍しく雪がどんどん降るのを、お母さん(つまり私)と一緒に廊下から眺めていた記憶だそうだ。これもまた不確かな記憶なのだろうが、大事にのこしておきたいなあと思う。
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自分の記憶のいい加減さというのは事あるごとに自覚・自省した方が良い。「この目で見た」「はっきりと覚えている」だけの人の話からは一歩引くこと。
「他の証拠による裏付けのない証言は、証拠が無いのと同じこと」という法律が古代ローマに既に存在したらしい。自白と後付け証拠でいっちょ上がりの現代国家は本当に進歩しているのだろうか。
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自分の記憶は後から他人でも作れる点に驚き。そう思うと、断片的な事実と他人のあいまいな目撃から思い込みに縛られ、自白を迫ることの恐ろしさを感じざるをえない。
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赤ちゃんの脳が長期記憶を形成、蓄積することは生理学的に不可能
脳は主に4つの領域
頭頂葉 知覚情報と言語の統合 短期記憶に欠かせない
前頭葉 思考、計画、論理的思考など高次の認知機能 前頭前皮質 複合思考
作業時に短期記憶をグループ化することをチャンキングと呼ぶ
成年期まで残る記憶形成が始まるマジックエイジは3.5歳
前頭葉と海馬の一部など長期記憶を司る脳の領域が成長し始めるのは8−9ヶ月 9ヶ月頃親においていかれるのを嫌がる
記憶として何を貯蔵できるか、のちにそれをどのように検索できるかには、ストレスや覚醒度が大きな役割をはたしている
睡眠は、記憶を強化し、再編成し、変化させるための方法だ
記憶形成にはなんらかの注意を向ける事が必要なこと、その記憶の固定化と強化には睡眠が欠かせない
ジークムント・フロイトは晩年ロンドンのハムステッドで過ごした フロイト博物館
why Freud was wrong
フロイト 無意識 意識がつよく押さえ込んでいる
多くの身体的精神疾患は子供時代のトラウマが原因 抑圧した性的虐待 症状h、たいてい回想し、話すことで消失
抑圧という、この精神分析の概念の働きには確かな証拠はないが、その治療の条件が、じつは過誤記憶を生じさせる理想的な条件であることを示す非常に有力な証拠がある
第一の問題 専門家が、患者に対して抑圧された記憶という考え方を教える 第二の問題 専門家が患者に、症状を治癒させるには、抑圧した記憶を明らかにする必要があるということ 第三のもんだは、専門家らから暗示的で誘導的な情報を与えられる 第4の問題は、患者が根本にあるトラウマの細部を繰り返し伝えられ、それを記憶の台本にしたがって視覚化することを求められる
過誤記憶の発生をうながす類の条件
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原注は「講談社の翻訳書」サイトからダウンロードする仕様。こういうのって不親切。訳者か編集者かが頑張って、邦訳があるものは併記してくれるのが慣習じゃないかあ?
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内容のぎっしり詰まった本です。
「記憶」という一見探求しやすそうなテーマを取り扱っているのだけれど、読んでみるとどっこい、つかみどころがない。認知の世界の話なので、文章をグッと明確に映像化しながら、記憶をカタチのあるものに置き換えながら読まないとフワフワとした感覚で読み進めてしまう。
ましてや最新の実験や文献を多様に紹介してくれているのは嬉しいのだけれど、論文とか、文献を読み慣れていない私は、牛の噛み返し、カタツムリの歩みの如く向き合うことになった。
読み終えた今この本の表紙のイメージに似合わない、内容の深みに戸惑った人たちを思わず想像してしまう。
でも、哲学の本よりは一歩一歩は確実に地を蹴っている実感は得られる。
是非読んでもらいたいので、気に入った箇所を引用します。
成長するにつれ、ニューロン間の不要な結合の複雑なウェブの増殖と刈り込みを同時に行うようになるため、舵取りがずっと楽になる。途方もない数のニューロンを育て、できる限り多くの結合を形成し、使用頻度の低いニューロンやシナプス結合は排除する。人は混乱した脳を、自分が置かれた環境、つまり何を学び、どんな生活をし、どんな境遇にあるかに合わせ、最適化し洗練された脳へと変化させていく。
「記憶」という言葉は案外身近なもので、五行程度で説明できるものと思っていたが、この本を読んでいるうちに段々とその説明が遠ざかってゆくのを感じてしまう。
紹介されている研究結果や過去の事件、社会現象を「記憶」という切り口で説明されているので、「記憶」の周辺に漂う知識はどんどん分厚くなっていくことは感じられるのですが、いざそれを説明するという段になるとポッカリと空いた中心部分があることに気づかされる。
だから、この本自体の感想を書くのはやめて、昨日観たNHKドキュメンタリー『冤罪が奪った7352日』という番組で感じたことをとおして、この「記憶」というものいくつかの姿を描けたらと考えている。(うまくいくだろうか)
この冤罪事件は東住吉事件とは1995年7月22日に大阪府大阪市東住吉区で発生した火災で女児が死亡し、それを内縁の夫と女児の母親(青木恵子さん)の犯行として無期懲役刑が確定。
その後、無罪を訴えて再審の結果、2016年8月10日に大阪地裁で無罪判決が出た。検察は控訴権を放棄し、即日確定したというものだ。
青木恵子さんを起訴し、有罪に導く自白を引き出した警察や検察には、初動捜査の誤りや
捜査からあがってきた情報の筋立てに小さな誤りがあったに違いないのだ。だが、それを省みるチャンスを失ったか、「振り上げた拳を収められず」に突っ走ってしまったのだろう。その‘小さな誤り’はこの「記憶錯誤」が関わっているのだ。
それは、捜査の過程で積み上げてきた証人たちの無意識による記憶の置き換え(思い込み)、であり尋問をする検察官の姿勢に立件向けた「記憶錯誤」が忍び込んでいるのではないかと感じた。
そしてなにより痛烈に胸に刺さったのが「20年という刑務所という世界で過ごした時間は、現実の社会での自分の居場所を奪っていた」という言葉だった。
海外で数年でも生活すると実感することですが、海外にいると日本という国で生活している時の情報の密度が得られないため、日本に帰国した時に、自分の人生の記憶の日本にいなかった時の記憶が欠けてしまっている感覚になることがあるが、青木さんの場合はそんなもんじゃない。日本にいながらにして、20年という(世の中での経験蓄積)記憶が全く機能しない積み重ねだったのだ。
獄中で無罪を訴えてやっと勝ち取った‘無罪’なのに、世の中に出てきて少ししたら「刑務所に戻りたい」という呟きは、連続した社会に包まれて生活している我々には理解し難いものがある。
こういう人間の姿を見ていると、「記憶」というものの働きが、生物が環境適応していくのに不可欠であることを証明させてくれる。
この社会という人間の文明が積み重ねがスピードをもって進行しているなかを私たちは「記憶」という能力を持つことによって何気なく過ごしているが、それを自分の外側にいる誰かによってコントロールできるということもこの本には紹介されているが、そうなると『人生』というものの意味が全く違ったものになっしまう。
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表紙が小説のようなイラストで目をひきます。
過誤記憶という言葉は初めて聞いたが、この著者の過誤記憶の専門家。
非常に読み応えのある内容でとても面白かった。
「私はハッカー。私は起こっていないことを起こったと人に信じ込ませる」
そんなことは無理だ、と思うかもしれませんがこれは本当に出来ることです。
おすすめです。
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脳がいかに記憶するのか。それはレコーダーやハードディスクのようなものではなく脳内のネットワークを走る電気信号だから、あちこち結びついて色々な記憶をねつ造してしまう。記憶が完全な人なんていないし、映像記憶できる大人もいないし、3歳未満の記憶のある子どもなんていない。写真だけで記憶がねつ造されてしまうのも吃驚だった。また、自分が殊更記憶力が悪いわけではなく、人間の記憶ってそんなもんなんだなということも分かった。
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三秋 縋さんの「君の話」の参考文献に挙がっていた本。これを読んで「君の話」が遠い未来や架空の話ではないということがよくわかりました。
「私は記憶ハッカー。私は起こっていないことを起こったと人に信じ込ませる」という著者が書いたというだけあって内容は衝撃的でした。
記憶に関する研究成果を平易に、しかも衝撃的に解説している本です。特に犯罪に関する記述は、気を付けないといけない事項ですが、必ずしも過誤記憶に配慮されていない現状は変えていかなければならないと思いました。
本を読んで、自分が記憶している事柄が本当に起こったことか自身がなくなってきました。でも最後に著者が「人生の最高の時は今」と書いているように救いはあると思います。
この本を読んでから、作者のhomepageから実例の映像を見ると、怖さがよくわかると思います。
記憶に自信があるという人にはぜひ読んでもらいたい本です。