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「他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい」という「承認依存」が広まっている、とのこと。興味深いテーマである。
かくして「承認をめぐる病理」は、次の三パターンに帰結するだろう。「承認への葛藤」「承認への過剰適用」「承認への無関心」。
こうした「承認の病」を回避する方法はすでにいくつかある。①他社からの承認とは別に、自分を承認するための基準をもつこと。②”他社から”の承認以上に、”他社への”承認を優先すること。そして最後に、③「承認の大切さ」を受け入れつつも、ほどほどにつきあうこと。
…若い世代にとっての就労は、もはや「義務」ではない。この文脈でいえば「欲求」の対象なのである。それも低次の欲求ではない。彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に「承認欲求」のためなのだ。それゆえ、もし彼らを就労へと動機づけたいのなら、これより低次の生理的欲求から関係欲求に至るまでの欲求を十分に満たす必要がある。
メディアに限らず、例えば教育やしつけにおいても、しばしば子どもたちに伝わるのは「内容(=コンテンツ)」ではない。伝えるものの「姿勢」のほうである。それゆえ親や教師は、常にその「姿勢」が問われることになる。やみくもに子どもを叱ったり、一律に禁止したりする前に、まず自らがメディアとだらしないつきあい方をしていないかどうか、顧みておいても損はない。
個人の資質や病理、思想信条とはおよそ無関係に生じてしまう暴力がある。ある種の「場」の作用によって賦活される暴力だ。この「場」の中では誰もが暴力的に振る舞う可能性を強く帯びる。もちろん筆者が例外である、などと主張するつもりはない。
「場」はどこにでもある。家庭が、教室が、体育館が、職場が、いつでもそうした「場」に転じうる。簡単に言えばこういうことだ。①密室性、②二社関係、③序列(権力関係)、この三点が揃ったとき、その場にいる誰もが、暴力的に振る舞う可能性がある。こうした要素は、家庭内暴力に限らず、DV、性暴力、体罰、いじめ、しごき、虐待など、ほぼすべての「暴力」に多かれ少なかれ共通すると言ってよい。
…社会やインフラがどれほど「進化」しようとも、固有の「この私」を無条件に承認されたいという欲望と、その欲望の最小単位が「人間」であるという真理は不変のままである。「人間」を「キャラ」が代替することは決してない。それを否認しようとするいかなる「進歩」も、繰り返し同じ隘路に陥るだけであろう。
患者から「自分はキレやすくて困る」という相談をときどき受けることがある。そういうとき、私は大略次のようなアドバイスを試みることにしている。
「キレやすさはあなたの意思いかんで克服できます。薬もカウンセリングも必要ありません。大切なのは『絶対にキレてはいけない』と自分に繰り返し言い聞かせることです。まったく無意識にキレる人はいません。キレる人は、どこかで必ず、自分にキレてしまうことを許しています。キレることを正当化する気持ちが少しでもある限りは、それを止めることができません」
「キレやすい人の中には、怒���をこらえすぎるとストレスがたまって別のところで爆発すると信じ込んでいる人がいます。それが『たまにはキレてもいい』という正当化につながるようです。でも本当は逆です。そういう衝動は、押さえ込めばただ消えてしまうだけで、蓄積することはありません。どうしても解消したければ、誰かにその気持ちを話すなり紙に書き出すなりして言葉にしてみることです。実はキレることを繰り返すほうが、はるかにストレスはたまりやすいのです」
もちろん言い回しについては工夫が必要だ。「幸運を祈る」「実力が十分に出せるといいね」「まあ、そこそこがんばってみたら」「がんばりすぎないようにがんばってみたら」「ためしにがんばってみましょうか」といった、前向きではあるが期待がこもりすぎない表現をその都度工夫する必要がある。「その都度」というのは、激励のありようはやりとりの文脈で決まることが多いからだ。
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承認依存になって愛されるのを待つよりも愛していこうっていう話。
あとがきから読んだ方が良い本。
章が変わる度に、話があっちゃこっちゃ行くなーと思ってたら、著者が数年間の連載や書き下ろし以外の原稿を一冊にまとめた本だった。
自分の勉強不足で著者が挙げる人物や本を知らない章は理解出来ない部分もあったけど、『若者文化と思春期』、『「良い子」の挫折とひきこもり』、『子どもから親への家庭暴力』等、読み易い興味深い章もあった。
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読んでいてとてもスッキリした。
ちょっと難しい所もあるけれど、我々が普段漠然とモヤモヤする違和感なり息苦しさはハウツー本や流行りの新書では紐解ききれなくて、この本はそういいモヤモヤにしっかり向き合っていて好感が持てた。
難しい問題を対象にしてるので、切り口はバラバラになるし、書きぶりも時折難しくなって当然。
行き詰まったら読み飛ばして元気が出たらまた読み返せばよし、と思ったらすごく気楽に面白く読めた。
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どういうキャラで行くのですか、みたいなことを言われ、なんともいえない違和感を覚えたことがある。その違和感の理由が、この本で納得できた感じ。仕事で職務内容に応じた役割を担うのは構わないが、常に誰かが求める人物像を演じるのは遠慮したい。
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前半は『エヴァ』を通しての思春期の精神病理ないし、うつについて。3類型としてシンジ「引きこもり」、アスカ「境界性人格障害」、レイ「アスペルガー症候群」。コミュニケーション偏重主義の時代で、コミュ障となった弱者は「承認」されることが欠如する。それゆえのうつの処方箋として「家族」、「母」の承認という視点は、シン・エヴァンゲリオンを見た後に読むと興奮を抑えることが出来ない。
後半は時代背景的考察。勤勉主義(高度経済成長)における従来のうつから操作主義(大きな物語の喪失ゆえに操作されることへ従順になる)における現代型うつへ。『動物化するポストモダン』を読むと理解が深まるかも。若者の精神病理だけでなく、モンスターペアレント、老年の犯罪増加について、孤立・不安からの怒りという視点が面白い。
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私自身が抱える「承認欲求の呪縛」を解きたい。
期待を込めて読んだ。
この本は、私の期待にかなりの深度で応えてくれた。
筆者の処方箋は次の通りである。
以下引用。
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①他者からの承認とは別に、自分を承認するための基準をもつこと。
②他者からの承認以上に、他者への承認を優先すること。
③承認の大切さを受け入れつつも、ほどほどにつきあうこと。
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承認への欲望そのものは、いわば欲望されることへの欲望であり、その意味でメタ的な欲望である。
承認欲求に究極的な充足はありえない。
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この言葉は、私にとっては的を射た解答だった。
「コミュニケーション偏重主義」「キャラ」「承認」の重要性を語りつつ、筆者はこう言う。
以下引用。
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社会インフラがどれほど進化しようとも、固有の「この私」を無条件に承認されたい欲望と、その欲望の最小単位が「人間」であるという真理は不変のままである。
「人間」を「キャラ」が代替することは決してない。
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まさにそうだと思った。
人間はキャラ(虚構)ではない。
身体性と現実性をもった、生身の人間なのだ。
承認欲求の重要性と承認に対する渇望を認めながら、究極的な充足はあり得ないと結論付ける。
この精神科医(もしくは「大人」?)としての立場は、私にとっては心地よく感じられた。
圧巻だったのが、「アキバの加藤」への分析である。
以下引用
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(加藤に足りなかったものは)「正解への断念」に裏打ちされた「人は『正解なし』でも生きられる」ことへの信頼ではなかったか
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私はあえて、筆者のいう「正解」を「希望」と言い換えたい。
人は『希望なし』でも生きることができる。私の持論だ。
筆者に共感したし、私の言いたかったことを代弁してくれたとすら感じた。
ただし、後半は医学論文ということもあり、かなり難解だった。
私が大学生だった時に、ラカンを表面的にでも理解していれば、また違った読み方ができたのかもしれない。
(ラカンの理解が表面的にできるかという疑問はさておいて)
その意味で、星は4つとする。
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「他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい」という「承認依存」が広まっている、とのこと。興味深いテーマである。
かくして「承認をめぐる病理」は、次の三パターンに帰結するだろう。「承認への葛藤」「承認への過剰適用」「承認への無関心」。
こうした「承認の病」を回避する方法はすでにいくつかある。?他社からの承認とは別に、自分を承認するための基準をもつこと。?”他社から”の承認以上に、”他社への”承認を優先すること。そして最後に、?「承認の大切さ」を受け入れつつも、ほどほどにつきあうこと。
…若い世代にとっての就労は、もはや「義務」ではない。この文脈でいえば「欲求」の対象なのである。それも低次の欲求ではない。彼らが「就労したい」と望むのは、基本的に「承認欲求」のためなのだ。それゆえ、もし彼らを就労へと動機づけたいのなら、これより低次の生理的欲求から関係欲求に至るまでの欲求を十分に満たす必要がある。
メディアに限らず、例えば教育やしつけにおいても、しばしば子どもたちに伝わるのは「内容(=コンテンツ)」ではない。伝えるものの「姿勢」のほうである。それゆえ親や教師は、常にその「姿勢」が問われることになる。やみくもに子どもを叱ったり、一律に禁止したりする前に、まず自らがメディアとだらしないつきあい方をしていないかどうか、顧みておいても損はない。
個人の資質や病理、思想信条とはおよそ無関係に生じてしまう暴力がある。ある種の「場」の作用によって賦活される暴力だ。この「場」の中では誰もが暴力的に振る舞う可能性を強く帯びる。もちろん筆者が例外である、などと主張するつもりはない。
「場」はどこにでもある。家庭が、教室が、体育館が、職場が、いつでもそうした「場」に転じうる。簡単に言えばこういうことだ。?密室性、?二社関係、?序列(権力関係)、この三点が揃ったとき、その場にいる誰もが、暴力的に振る舞う可能性がある。こうした要素は、家庭内暴力に限らず、DV、性暴力、体罰、いじめ、しごき、虐待など、ほぼすべての「暴力」に多かれ少なかれ共通すると言ってよい。
…社会やインフラがどれほど「進化」しようとも、固有の「この私」を無条件に承認されたいという欲望と、その欲望の最小単位が「人間」であるという真理は不変のままである。「人間」を「キャラ」が代替することは決してない。それを否認しようとするいかなる「進歩」も、繰り返し同じ隘路に陥るだけであろう。
患者から「自分はキレやすくて困る」という相談をときどき受けることがある。そういうとき、私は大略次のようなアドバイスを試みることにしている。
「キレやすさはあなたの意思いかんで克服できます。薬もカウンセリングも必要ありません。大切なのは『絶対にキレてはいけない』と自分に繰り返し言い聞かせることです。まったく無意識にキレる人はいません。キレる人は、どこかで必ず、自分にキレてしまうことを許しています。キレることを正当化する気持ちが少しでもある限りは、それを止めることができません」
「キレやすい人の中には、怒りをこらえすぎるとストレスがたまって別のところで爆発すると信じ込んでいる人がいます。それが『たまにはキレてもいい』という正当化につながるようです。でも本当は逆です。そういう衝動は、押さえ込めばただ消えてしまうだけで、蓄積することはありません。どうしても解消したければ、誰かにその気持ちを話すなり紙に書き出すなりして言葉にしてみることです。実はキレることを繰り返すほうが、はるかにストレスはたまりやすいのです」
もちろん言い回しについては工夫が必要だ。「幸運を祈る」「実力が十分に出せるといいね」「まあ、そこそこがんばってみたら」「がんばりすぎないようにがんばってみたら」「ためしにがんばってみましょうか」といった、前向きではあるが期待がこもりすぎない表現をその都度工夫する必要がある。「その都度」というのは、激励のありようはやりとりの文脈で決まることが多いからだ。
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教室で誰とも喋らずにそれが当たり前だと思ってたから、キャラが被ったらいけないとかキャラを保つのに必死みたいなのは実感として理解できなかった。今思えば周りも優しかったのかな。
所々これは違うんじゃない?って思うところも、なるほどと思うところもあって興味深かったけど、自分にはあまり関係のない話だったかも。
家庭内暴力の対処についてはへぇ〜と思った。
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確かに基底を流れるのは「承認」なのだろうけど、表立って見える現象は、自我とは必ずしもリンクしない「キャラ」。葛藤の主因もこの「キャラ」のように読める。それと気になるのは、「成熟拒否」あるいは「成熟した自分を描けない」という現実も挙げられるように思えた。