紙の本
有栖川宮家は「南朝の出」なのか?
2018/10/07 14:41
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投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この文庫本が出る前に出た「徳川慶喜」では慶喜の母方でもある有栖川宮家が「さかのぼれば、霊元天皇にたどり着く名家であった」(同著3頁)とあるのに、何故か「水戸学が正統と認めた南朝の出であり」(59頁)となっている。講談社から出た親本は読んでいないから分からないが、何故間違った記述なのだろうか?おそらく「女聞き書き 徳川慶喜残照」にある「有栖川宮家とは古い昔の”南北朝時代”に北朝へ天皇のお位をお譲りした後、唯一残った南朝のお家」(同書282頁)の間違った記述をなぞったのだろうが、不可解だ。
慶喜が征夷大将軍を辞してから薨去した大正2年まで、新政府と旧幕臣の双方から冷ややかな視線を受けながらも、半世紀近い長い余生を趣味に生き、宗家とは別に公爵家に叙せられて復権するまで、類書がそうないので、興味深い内容ではある。
慶喜の娘が皇太子嘉仁親王の妃候補になったが、意外と華頂宮博恭王(昭和期に軍令部総長になった伏見宮博恭王)の妃となった事は触れられないものだ。
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大政奉還150周年に因んだ企画だったのでしょうか、書店にたくさんありました。
タイトルにひかれ、読んでみました。
大政奉還とは、簡単にいうと、
政権が、将軍から明治天皇に返還された、ということ。
この本は、大政奉還の後、最後の将軍である徳川慶喜が、亡くなる大正2年まで、どのような人生をおくったか、が書かれています。
この本の面白さは、徳川慶喜が、静かな余生をおくったか、と思いきや、そうでもなかったということです。明治維新の立役者である、勝海舟の死後、
徳川慶喜は、解き放たれたように、静岡から東京へ戻り、天皇や皇族との交流がはじまります。
彼は、江戸、明治、大正と生き続け、
その間、明治維新に深く関わった人々は、次々と死に、存命中に、時代の生き証人となってしまいます。
晩年は、歴史上の人物として再評価され、
幕末の歴史の編纂にもかかわります。
長生きの効用とは、こういうことでしょうか。
また、元将軍だったことを思わせる一面もあり、
明治10年、明治天皇の暗殺を計画したとして、
幸徳秋水らの社会主義者が処罰された、大逆事件には、強い関心を持ったといいます。
それは、磐石な体制が築かれているように見えても、
一夜にして、崩壊してしまうという、
徳川慶喜自身が体験したこととだからです。
徳川幕府がなくなったように、明治天皇の世もなくなる、ということが起こりうると、家の人に話したといいます。激動の時代を生きた、経験者の発言に勝るものはありません。歴史上の人物と思いきや、
自分が、同時代に生きていた歴史上の人物、
たとえば、明治34年生まれの昭和天皇は、徳川慶喜に会っており、それを考えると、遠い昔の人ではないのだなあ、と思いました。
おすすめの一冊です。
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徳川慶喜が没したのは、明治天皇や伊藤博文、勝海舟など殆どの明治の主役の死を見届けた後の大正二年だった、人生の半分以上が余生。早期に華族としての生活は得ていたもののその暮らしは公人としての活動を制限し、狩猟、弓道など、さらに晩年は囲碁、写真など多趣味なものであったという。自転車や、最晩年には自動車をいたく気に入って用いていた。
鋭敏で体力も優れていたと思われる。
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とかく誤解を受けがちで賛否両論ある最後の将軍様。意外なカワイイ姿を拝見できて楽しいです。しぶとく生きて幸せに死んだ姿は見習うべきところがある。
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明治時代の徳川慶喜の姿を資料や研究に基づいてしっかりと追い、紹介した一冊。
静岡に行ってからの30年間の最後の将軍・徳川慶喜がどのように暮らしたかなどがリアルに示される。狩猟や自転車などアウトドア派の一面、徳川本家や勝海舟、渋沢栄一らとのそれぞれの関係性も興味深い。
最後の将軍として慎み続けた静岡時代と晩年の名誉回復、そして歴史的記録への情熱。久々に夢中で読める一冊だった。