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投稿者:やっこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
面白すぎて、読み終えてしまうのが嫌過ぎて、途中、表紙ばかり眺めてました。
けど、やっぱり読み終えてしまいました。
内村鑑三の『後世への最大遺物』にも似た感動を得ました。
『考えるヒント』より、分かりやすいし、小林秀雄の人となりがよく出ているように思いました。
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投稿者:lakini - この投稿者のレビュー一覧を見る
まぁ、何というか、ちょっと変わった(偏屈な)人だなぁと思いつつも、書いてあることは、結構、今まで自分が漠然と思っていたことを、言葉にしてくれた、みたいなところもあったから、読みやすかった。
一番の衝撃は…このやりとりが、もはや一世代も二世代も昔の学生たちの話、ってことね。
今も昔も、ほんま変わらんなー!問いの感じが!!(笑)
答えも、今でも十分通じるね。
それかま最後に残された衝撃でした。
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時代的には学生運動の後で、30代にもピンとこないこともかかれています。今の学生に理解されるのでしょうか?
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僕は信ずるということと、知るということについて、諸君に言いたいことがあります。信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知るということです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということは、いつでも学問的に知るということです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。現代は非常に無責任な時代だといわれます。今日のインテリというのは実に無責任です。例えば、韓国の或る青年を救えという。責任を取るのですか。取りゃしない。責任など取れないようなことばかり人は言っているのです。信ずるということは、責任を取ることです。僕は間違って信ずるかも知れませんよ。万人の如く考えないのだから。僕は僕流に考えるのですから、勿論間違うこともあります。しかし、責任は取ります。それが信ずることなのです。信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任は取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる。
偉い人の仕事を見ると、まず初めに仕事を好むことが土台になっている。その仕事に没頭できるか、できないかが、最初の問題です。科学の仕事は物事をはっきりと知ることにあるが、その知識を我がものとする喜びを感じていなければ、知識が信念に育つ事はあるまいし、逆に喜びがいつも実感できていれば、科学者はその信念に生きるでしょう。
君に実感として湧いてこない理想を、私が君に与えることはできない。孔子が「噴せざれば啓せず」と言ったように、あなた自身が憤することが大切だ。理想というものは、人から教わるものではない。参考にするものはいくらでもあるが、理想に火をつけるのは君だろう? 孔子は続けて「悱せざれば発せず」とも言っています。口でうまく言えず、もぐもぐさせているくらいでなければ、導いてやらないというのです。こういう教育はだんだん少なくなったが、原理としては、これが亡びることはない。だから、君の質問には、僕は答えられない。いまどういう理想をもったらいか、ああ、それはこうだよということは言えない。君が発明したまえ。学問には必ず自得しなければならないものがあるのだ。
人間を考える時、人間の精神というものを考えなければならない。精神を考える時、どうしても科学の方法ではできない。その人と交わるしかないんだ。つまり、その人の身になってみるということだね。だから、考えるためには非常に大きな想像力が要ります。
想像力、イマジネーションというのは、空想力、ファンタジーとはまるで違う。でたらめなことを空想するのが空想力だね。だが、想像力には、必ず理性というものがありますよ。想像力の中には理性も感情も直感もみんな働い��いる。そういう充実した心の動きを想像力というのだな。
自分の本当の姿が見附けたかったら、自分というものを一切見失うまで、自己解析をつづける事。中途で止めるなら、初めからしない方が有益である。途中で見附ける自分の姿はみんな影に過ぎない……。そして、自分というものを一切見失う点、ここに確定的な線がひかれている様に思う。こちら側には何物もない、向こう側には他人だけがいる。自分は定かな性格を全く持っていない。同時に、他人はめいめい確固たる性格であり、実態である様に見える。こういう奇妙な風景に接して、はじめて他人というものが自分を映してくれる唯一の歪んでいない鏡だと合点する。
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1961年から1978年の間、5度学生に対して九州の合宿で講義した記録。学生との真摯な質疑応答が厳しくも優しい。科学について、物理学が数学の姿をとるように、経済学者や社会学者は数学を手本にし過ぎるので誤りが出る。それぞれの個性に準じて、科学精神を用いればよい。なるほど。2017.5.18
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約40年ぶりに対面する。あの頃もそうだったが、やはり小林は難しい。自分の頭では一読二読では到底理解できない。なのに、国語の教員をしている…。
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熱量がある。
以下引用
諸君の現在の心の中に生きなければ歴史ではない
現代のインテリは不思議を不思議とする素直な心を失っています
信じるというのは、責任をとること
物知り人を嫌う
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文筆家としての自覚と矜持を貫いた小林秀雄は、講演や対談の場での自らの話し言葉を文字にするときは、必ず速記原稿に目を通し、書き言葉に調えることを必須としていたとのこと。
今回のこの本は、小林氏の著作権継承者である白洲明子氏の検分と容認を得てようやく刊行されたものなのです。
そのような経緯があるのですが、収録された学生たちの質問と小林氏の応答は、他に類の見ない小林氏の「会話教育」と「質問教育」の実態を、現代に、ひいては後世に伝えるべく、国民文化研究会と新潮社に残された音声を新たに文字化されたものなのです。
内容ですが、
講義 文学の雑感
講義 信ずることと知ること
講義 「現代思想につおて」後の学生との対話
講義 「常識について」後の学生との対話
講義 「文学の雑感」後の学生との対話
講義 「信ずることと考えること」後の学生との対話
講義 「感想——本居宣長をめぐって——」
後の学生との対話
信ずることと知ること
小林秀雄先生と学生たち 國武忠彦
問うことと答えること 池田雅延
日本人が先祖から伝えてきたことの価値観の重要性、所謂「科学」への懐疑、いわんや「唯物史観」への嫌悪、小林秀雄さんの真髄を垣間見させていただきました。
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小林秀雄の講義および学生との質疑応答を記録した本。学生として、是非聴いてみたかったと思える内容。以下、印象に残った箇所(要点)。
・科学の進歩は著しい。しかし、科学は人間が思いついたひとつの能力に過ぎない。僕らが生きていくための知恵は、昔からさほど進歩していない。例えば、『論語』以上の知恵が現代の我々にあるか。p43
・知識を我がものにする喜びがなければ、知識が信念に育つことはない。p94
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小林秀雄は、エラそうではあるが、快刀乱麻、切れ味のあるボキャブラリーとエクスプレッション、さらにパッション。若い人に熱烈な信者が出るのもうなずける。ほぼ肉声なので、その背筋の伸びた佇まいが行間から立ち昇るようでもある。
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科学は切り刻む。分析的。しかし,統合できない。細かいことが分かってくる。それで,どうなんだ?心を分析した。分析した結果,心が分かったのか。そもそもそんな問いすら忘れてしまっていないか。
歴史書は鏡という字が使われている。歴史は自分自身の中にある。⇒「自分自身を見る鏡」「自分自身を見るということは過去を見るということ」ヒントを得た。
自分の言葉で自分の考えで対話することができるだろうか。自分に焦点化しては自分が見えてこない。相手を説得する,相手に勝るという目的のコミュニケーションでもない。知を深めよう,知を鍛えようとする無私の取り組み。
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全集買う判断材料として読了。
学生の短い質問に対して論理的に自身の思考を正確に、広くて深い知識と経験を丁寧に織り交ぜながら回答する姿に心打たれた。
数回にわたって記録される学生との対話はそれぞれ主題や学生からの質問が違うのに、小林秀雄の回答は表面上違うように見えて、何か確固たる信念が根底にあると思った。
今は得体の知らない、この根底を探る術の一つが全集を読むことだと思うので、やっぱ買いですねー。
最後に一節。
「質問するというのは難しいことです。本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ。僕は本当にそうだと思う。(中略) ただ、正しく訊くことはできる。」
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小林秀雄という名前は聞いたことがあったが、初めて読んでみた。
生の経験や対話を重視する言葉がいくつも出てくる。
科学を否定するように聞こえる言葉もあるが、科学という一つの物差しで測れない人とのつながりや生きる意味など、そういうものにまで科学を取り入れようとする(また測れないから無用だとする)風潮を否定するように感じられた。
で、科学的な手続きによらないひらめきのようなものも人間には確かにある。
何年に何が起こって、その証拠がこれで…という考古学も必要だが、歴史上の人物の思想や信念に身を委ねるうちに、自分の思いや信じることに気づくこともできる、まるで鏡に写したように。
そういう、自分というものを自分の手応えで築いていく力強さを感じた。
ただ急いで付け加えると、自分一人で考えた自分本位なものではなく、徹底的に古典にあたり、人との交わりから自分を研ぎ澄ます、対話によって作り上げるものなのだ。
良い質問が作れればもう答えは必要ではない、
上手な質問とは、自分にとって切実なことを尋ねたものである、
答えばかりを探し求める風潮に対し、質問が大事だと小林秀雄が言い切っている。
いい質問を、自分なりに作り、対話をしたい、そう思った。
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印象に残ったこと
・歴史について
現在の学校教育では、何年に何が起きたかを暗記することで点数が得られる形式をとっていると思う。
私自身も歴史は暗記するものであるという認識があったが、小林秀雄が述べた「歴史とは上手に思い出すこと」という言葉に感銘を受けた。出来事を客観的に追っていくだけでなく、当事者の立場に立ち、彼らが感じたことや思ったことを自らのことのように想像することで、彼らの喜びや悲しみに共鳴することに趣があるのかと納得した。
これは過去の人物に対してだけでなく、実在の他人に対しても、同様に想像することが重要であると感じた。
また、クラシック音楽を嗜む身としては、音から作曲者のまざまざとした人間像までを想像できるよう取り組もうと思った。
・科学について
私は学生時代に物理をやり、一般的かつ論理的に考えることこそが正義だという固定観念に縛られていた。
そのため、根拠のない超常現象や迷信の類には全くの無関心であった。
しかし、個々人が実際に経験した具体的実体験にも目を向けることが重要であることを学んだ。
なぜなら、科学はある単位系の中で、客観的な事実を扱っているだけである、つまりは狭い定義の中で現実の事象を記述しているに過ぎないということだ。
限定的なものさしだけで世界を見て、わかった気でいることは恥ずかしいことだなと思った。
どんなに信じられなくても、根拠が見当たらないとしても、各々が経験した事実としてまずは受け取ろうと思った。
・近現代の教育について
「先生が隠した答えを見つけさせるのが現在の教育」、深く共感した。
現実を生き抜く上で問いを見つけることの重要さと難しさは、社会人になり強く実感している。
うまく問うことを心に留め、自問自答や対話を大切にし、現実と向き合っていきたい。
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メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1618188668933668864?s=46&t=SdJRE9PGTgv3ntegzv-KaA