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1〜3章の文体の「キモ」さ(千葉氏の哲学的文体)と,4章の文体のギャップが面白い。勉強しろという本ではなく,勉強に対する弊害を押し出しているところがミソ。
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-b2aa.html
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p30 「自分とは他者によって構築されたものである」
p34 「人間にとって世界は「二重」になっている〜もうひとつの次元として、言葉の世界が重なっている」
p36 「言語の他者性」
p47 「ただの音としての言語〜器官なき言語」は言語なのか??言語と扱う必要はあるのか?
p50 「言語使用は〜主に道具的である」
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言葉についての言及がとても興味深かった。モノ自体と言葉は完全に独立しているのか?自分が興味があると思っているテーマについて、自己ツッコミを入れられれば、もっと深く追求したいテーマにたどりつけるのかも、心がけよう。
実践編は取り入れたいこと、参考になることがとても多い。何より「教師は有限化の装置である」という言葉に大納得。
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千葉雅也『勉強の哲学』読了。「勉強」とあるけれど、広義的な「勉強」と捉えられる内容で、ある種のオタク分析のようにも読めて、非常に興味深かった。内容としては、勿論『勉強』についてではあるんだけど、勉強というツールを使ったコミュニケーション論であり、言語論といった感じで、面白かった。
『勉強の哲学』読んでて、サルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という言葉がふと浮かんだのだけれども、『勉強は自己破壊』という文中の言及、元々存在する環境(不自由)からの脱却は時として重圧である、自由(自己責任)の方が困難なこともあるよなぁと改めて考えたりしたわ。
まぁ、その読みも知識のない私の勝手な解釈に過ぎないけれど…。内容としては大枠としては理解したつもりになっているけれども、所々、前提条件とされる知識が曖昧な部分があったりして、勉強不足を痛感したよね……。言葉は多く持っているに越したことはない………。
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第2章の部分は話が抽象的すぎるし、次々と新しい言葉が出てくるので、それこそ言葉が浮いているような感じがして、とても読みにくかった。
でも、読み終わってみると納得できる部分は多かった。
勉強をすると賢くなるのではなく、一旦場から浮くようなやつになってから賢くなる。でも、それも結局、勉強していないバカと見分けがつかないという部分が好きだった。単純に、勉強は大事だとか素晴らしいとかいう短絡的な見方ではなくて、勉強について批判的に考え抜いたあげく、最後はスタート地点に戻るみたいな台無し感がすごい良かった。
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著者の千葉雅也は、2013年発表のデビュー作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で注目を集めた、フランス現代哲学を専門とする新進の哲学者。
著者は本書について、「ドゥルーズ&ガタリの哲学とラカン派の精神分析学を背景として、僕自身の勉強・教育経験を反省し、ドゥルーズ&ガタリ的「生成変化」に当たるような、または、精神分析過程に類似するような勉強のプロセスを、構造的に描き出したもの」とし、補論でその学問的背景についても語っている。
よって、前半の原理篇1~3(第1章~第3章前段)には現代思想の専門ワードも登場するが、著者の思考の展開をきちんと追えば、さほど抵抗なく、むしろ共感をもって読み進めることができる。
◆勉強するとは?・・・「勉強とは何をすることかと言えば、それは、別のノリへの引っ越しである」、「深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。言語偏重の人、それは、その場にいながらもどこかに浮いているような、ノリの悪い語りをする人である」
◆勉強の方法は?・・・「ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである」、「勉強はアイロニーが基本である。しかしアイロニーをやりすぎず、つまり、懐疑(疑い)を深めすぎず、ユーモア的に多数の可能性を連想する。しかし、そうした可能性の増殖はきりがないので、切断して足場を仮固定するために享楽的こだわりを刃にする。その刃に、また、やりすぎないアイロニーをかける。このようにプロセスが進むのです」
そして、後半の実践編1~2(第3章後段~第4章)では、P・バイヤールのベストセラー『読んでいない本について堂々と語る方法』などを引用しつつ、著者自らの体験に基づく具体的な勉強の仕方が紹介されている。
「勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである」。。。目から鱗の一冊。
(2017年7月了)
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割と読みやすく、わかりやすい内容でした。
また、著者の頭の良さがよくわかるような気がします。
ただ、ここに書かれてあることについては、自分も含めて
みんながある程度知らず知らずにやっていることでは
ないかと思います。思考がまとまるとき、うまくいくとき
にやっているやりかたであるような気がします。
ただ、そういうことを論理に則って展開していくところ
がよく考えられていると思います。
また、一般的に言語論は面白いと思います。
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勉強とは何なのか、それをするとどうなるのかということについて、哲学を基礎に置いていますが、バックボーンの無い人にもわかるように書かれています。勉強すると余計な贅肉も付いてしまい、それがアイロニー(ツッコミ)として発生してしまいます。そういう人間たくさん見るなあと思い当たる点、自分にも有ったりしました。本書はそこからどうするのか、かじり始めた勉強をどうやって発展させていくのかが書かれています。
勉強していない人に、勉強する意味を説明することは非常に難しいものです。なぜならそれをするためには、相手にそれを理解するだけの知識を求めるからです。本書はその難しさを、可能な限りハードルを下げて説明されていると思います。難解なことをここまで分かりやすく専門性を省いて書かれた著者の労力はすごいと思いながら読みました。
アイロニカルに突き進むと「自分が決めたから決めたんだ」という結論に至りますが、著者はそれではマズいと言います。その視点は反省を促し、冷や汗が出ました。
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アイロニーとユーモアの対立から勉強の方法を示す。アイロニーが至る先の「決断主義」はまさにかつて陥ったものだな、と思ったし今もそれに引き摺られている。
アイロニーからユーモアへ移動し、ユーモア過剰を区切るのが「享楽的こだわり」。この辺りがとても現実的。そして享楽は勉強によって変化可能。以前は自分は心理学やサブカルに興味あったが、今は海外の事や政治や家庭科に興味が出てきたなーと思っており、それは試しに情報を仕入れてみた所面白かったからであった。複数のタイムラインの発生。
現在のコードに乗っかりつつも、一方でコードから離れ浮遊し他のコードのタイムラインを作成・没入し、自分に特有の享楽(バカな部分)を自由に変化させつつ、比較を続ける態度。難しいですね。
読んでると自由な気持ちになれる。コードから離れていいんだな、ユーモアへ移動していいんだな、中断していいんだな、身近な関心は学問の専門分野へと通じているし、既にそこで論じている人達がいるんだな。心地よかった。
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勉強=いままでのノリから抜け出すこと
相対的に比較していくことで世界を認知するならば、比較対象を増やしていくことはより比較の精度を上げることになる。
懐疑(アイロニー)と連想(ユーモア)を繰り返して思考を深めていくが、それは際限がないので享楽(自分のこだわり)によってある程度見切りをつける。
自分の享楽について理解するためには欲望年表を作成すると良い。
「ある程度勉強した状態」はあっても「勉強完了」の状態はないので享楽を繰り返しながら深めていけば良い。
この知の有限化のプロが教師。教えられる者は何を教わっているかと同時に教師は何を切り捨てているのかも意識できた方が良い。
学問も、それぞれの世界にノることと同義。入門書→教科書→基本書→専門書と深めていく中でその学問のノリに入っていく。そうした書物はプロ・モードで書かれているためにそうして慣れていかないと理解ができないから。
本は修正が効かない分注意深く書かれていることが多い。でも間違っていることも往往にしてある。プロ・アマ両輪で読むことによって必要な分だけ自分のものにしていく。
ノートは勉強のタイムラインになる。
考えた結果を書くというより書きながら考える。箇条書き(アウトライン化)も有効。
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現状の破壊(打破)のため、方法としての勉強論を書いた本。
物事をアイロニー(懐疑的に捕らえる)とユーモア(視点をずらす、見方を多様化する)ことによって、「こうするものだ」という社会や共同体の「ノリ(暗黙の了解)」に無意識的に従っていたこれまでの自分を破壊することが出来ると主張している本。勉強の哲学という題名だけに、勉強するにあたっての考え方を教えてくれている。少しわかりにくい箇所もあるが、最後にまとめで要約してくれているので理解はできると思います。
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タイトルに惹かれて読んだ本。視点が面白い。勉強を啓蒙するわけでもなく、勉強というプロセスが何をもって形成されるのかを訴えているように感じた。ある分野にのめり込めばのめり込むほど他の分野にも興味が移り、さらにその分野の勉強をする。来るべきバカのために勉強は続く。
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自分の人生に影響を与えたものの年表を作って見たりするというのは面白そうだと思った。自分の場合だと、村上春樹を除けば、90年代後半からゼロ年代までの批評みたいなのを読んでみると、いいのかもしれない。
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【はじめに】
著者の処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』はすでに一定の評価を受け、売れ行きもそこそこらしい。その処女作のタイトルからも分かるように、著者の専門はフランス現代思想である。哲学を志したきっかけが、大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会ったことだという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いたのがこの本だが、何と東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著でこれまた売れ行き好調な『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。
【概要】
■ 「勉強」について
「勉強」という一連の作業の中で、「情報を探す」ということに関して現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者から見てもその観点では「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代になったということでもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。
著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになるからだと表現する。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」であり、また「勉強とは自己破壊である」という。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは、「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。
そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示しているのである。なぜなら明らかに「言語は他者」であるからである。そして、そこから人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きていると言えうことができる。フランス現代思想には、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることがその思想の中心となっている。そして、フランス現代思想が言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそのことに苦しんだ著者の、そこから自由になるための勉強論、というメッセージであるのかもしれない。
■ ツッコミとボケ (アイロニーとユーモア)
ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的で刺激な考え方ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。
アイロニーとヒューモアという点で思い出すのは、柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作である。柄谷は、この本の中でアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。しかし、その議論が繰り返される��いうのは、そこには何か重要なことが含まれているということでもある。いかに「闘争」ではなく「逃走」するのかという現代思想の鍵と弱みがそこにあるような気がするのだ。
■ ツールとしてのフリーライティング
著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めているが、まったくその通りだと思う。
■ 限りない保留
著者は、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだという。その思考スキームは、現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。
【所感】
この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』も、その後邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンの『エクリ』はそれ以上に受け付けることができなかった。それでも、デリダは頑張って読んだ。
その頃の自分は、彼らの言語がバーチャルなものであったからなのか、少なくともそれらの著作からリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて、その結果として言語遊びになっているようにしか感じられなかった。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。
本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことがわかる。東京大学に入学して期待を担っていたであろう著者のことを、例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。そうであっても全くかまわないのだけれど。
最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって逆に改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もす��のである。少なくとも、そう思うべきであるのだと。
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参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1