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かっこよく言いたいキーワードの説明のために寄り道が多くて、話の流れが分かりづらくなっている(のか、私が全然理解できていないか)。大陸哲学がつまみ食い嫌いなのはこういうところかもしれない。具体的な方法論を書いた第4章だけ読めばいいか、全部を読むにしても先にそちらを読んだほうが内容を捉えやすくなりそう。
あと改行が多いweb媒体のような組版は読みづらいーはじめからそういう読者層を想定しているのかもしれないが。
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全四章構成される。。三章までは、勉強に対しての作者なりの哲学的な考えについて書かれている。私個人、勉強法をこの本から学ぼうとするために選んだために、為になるのは第四章のみであり、あとは流し読み。。正直他の章を読まなくても第四章は理解できるので、勉強について哲学的な見解を求めている人以外は読まなくても損ではない
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20170928 私には荷が重い内容。勉強法の本と思って読んでみたが勉強とは?という内容だったようだ。全部読んだからといって理解できるわけでは無く、逆に理解する事は不可能とのこと。これからの読書の参考にしようと思う。
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つ…疲れた…。
考えても考えても、言葉自体に頭が追いつかなかったり、理解するのにとても苦労しました…。
本が問題なのではなく私自身の頭の回転の話になるのですが…しかし、最後まで読みきった達成感は何にも代え難いものがありますな。
さてさて。
サブタイトルにある『来たるべきバカのために』というのは、大学教授も務める千葉雅也氏の愛情表現だなぁ、というのを読んでいてつくづく感じました。
勉強、その言葉自体が僕はもう苦手で苦手で…。
何が苦手って、何をもって学習なのかも、勉強なのかも分からない私に取っちゃあ「勉強しなさい」が何よりもの即死魔法でした。ドラクエ風にいるならザキでした。
この本の中には勉強を続けるのには気張らなくていいんだよっ☆肩の力抜きなって☆というようなフランクさがあってとても良かったです。
レベルアップした気分。
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タイトル通り、哲学の観点から勉強の仕方を示した、今まで触れたことのない新鮮な本であった。自分にとっては一度だけでは理解しきれていないところもあるが、それでも勉強方法として新しい気付きを与えてくれた意味では良書であった。
・勉強とは、かつてのノっていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。言い換えれば、勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである。
・環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを、環境の「コード」と呼ぶことにする。言い直すと、「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードによって目的的に共同化されているという意味です。
・環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、本書では、ひとことで「ノリ」と表すことにしきしょう。ノリとは、環境のコードにノってしまっていることである。
・言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。
・勉強とぼ結局、別のノリに引つ越すことですが、この勉強論で光を当てたいのは、以前のノリ1から新しいノリ2へと引つ越す途中での、二つのノリの「あいだ」です。そこにフォーカスするのが、本書の特徴です。ニつの環境のコードのあいだで、板挟みになる。
・言語には2つの使用がある。一つは「道具的」な言語使用。環境において、目的的な行為のために言語を使うこと。たとえば、「塩を取って」というのは「依頼」であり、相手を動かして塩を手に入れるという目的のために言っている。言葉のリモコンで何かをするわけです。二番目は、たんにそう言うために言っているという言語使用。これを「玩具的」な言語使用と呼びきしょう。おもちゃで遊ぶように、言語を使うこと自体が目的になっている。先ほど挙げた詩の例はそういうものと捉えてほしい。ダジャレとか早口言葉もそうですね。
・一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。それは、言語操作によって、人特定の環境のノリと癒着していない、別の可能性を考えられるようになることである。
・自由になる、つまり、環境の外部u可能性の空間を開くには、「道具的な言語使用」のウェイトを減らし、言葉を言葉として、不透明なものとして意識する「玩具的な言語使用」にウェイトを移す必要がある。
・環境のノリから自由になるために、勉強を深める。根本的に深い勉強、ラディカル・ラーニング。それは言語偏重になることである。言語偏重になるというのは、ある環境でスムーズに行為するために言語を使っている状態から脱して、言語をそれ自体として操作する意識を高めることである。言語の「道具的使用」から「玩具的使用」へ。言葉をおもちゃのように操作し、「言えるには言える」という形で、自分のあり方の多様な可能性を、環境の求めから離れて自由に考えられるようになる。
・「コードの不確定性」の説明は、会話に限らず、行為全般の「こうするもんだ」=環境のコードについて言えることです。環境のコードは、つねに不確定であり、揺らいでいる。会話にもコードを想定できるし、人���会うときの身ぶりとか、何かチームでやる作業とか、服装とか、あらゆることにコードを想定できますが、コードはつねになんとなくのもの、不確定なものでしかありません。
・コードを客観視する「最小限のツッコミ意識」が、勉強の大前提である。勉強とは、新大なことを自覚的にできるようになるこしです。
・(0)最小限のアイロニー意識:自分が従っているコードを客観視する。その上で、(1)アイロニー:コードを疑って批判する。(2)ユーモア:コードに対してズレようとする。そもそも不確定なコードをますます不確定にすることを、「コードの転覆」と呼ぶことにする。アイロニーとユーモアはそのための技術である。
・アイロニーは「根拠を疑う」こと。ユーモアは「見方を変えること」である。アイロニーとはツッコミ(自覚的な)であり、会話のコードを疑い、批判するものです。ユーモアは、何か新たな「見方」をその場に導入する。
・アイロニーでは、究極の根拠を目指し、あらゆるコードを破壊し、足場不在になった。対照的にユーモアでは、コードは破壊されず、増えすぎてしまうという帰結に陥るのです。
・まず、自分の置かれている環境を客観視するという意味で、最小限のアイロニー意識をもっのが大前提なのでした。その上で、
(1)アイロニーを深める、すなわち、環境のコードの根拠を徹底的に疑っていくなら、ついには、言語を破棄し、言語というフィルターを通さずじかに、「現実それ自体」に触れたいという欲望になる。それは、極限としては、もはや何も言うことができない状態、「言語なき現実のナンセンス」になる。そこで、
(2)あらためて、環境ごとに異なるコードでの言語使用を認めるのが、ユーモアへの転回である。まず、拡張的ユーモアは、複数の環境をコード変換で行き来できるようにする。このことを「諸言語の旅」と表現する。
(2-1)しかしユーモアが過剰化されると、極限としては、あらゆる言葉がつながって、言語がトータルに無意味になるという「意味飽和のナンセンス」が想定きれる。ならば、諸言語への旅は、旅として成立しなくなる。比愉的に言えぱこれは、「どこかへ行くことが、即、世界中に行くことになってしまう」という状態なのです。
(2-2)縮減的ユーモアは、非意味的形態としての言語をもてあそぶ、強度的で享楽的な語りである。これは「形態のナンセンス」である。そこで、次のように考えます。個々人がもつさまざまな非意味的形態への享楽的こだわりが、ユーモアの意味飽和を防ぎ、言語の世界における足場の、いわば「仮固定」を可能にする。
・退いた視点からの、つまりメタな立場からの現状把握をする―これが、最小限のアイロニー意識です。ここから勉強がスタートする。そして、生活にわざと疑いを向けて、問題を浮かび上がらせる、「問題化」するのです。わざと問題を立てることが、勉強です。問題を見ないようにしたければ、勉強することばでさません。繰り返しますが、勉強とはノリが悪いことなのです。ときにそれは不快なことかもしれない。でも、わざとそれをやるのです。勉強というのは「問題意識をもつ」という、スッキリしない不快な状態をあえて楽しもう、それこそを享楽しようしするこしなのです。
・自分の状況は、大き��構造的問題のなかにあり、自分一人の問題ではない、というメタな認く識をもつことが、勉強を深めるのに必須である。
・勉強するというのは、何かの専門分野のノリに引つ越すことである。
・歴史ある学問は、環境に「いながらにしていない」ような思考を可能にする。いまの環境内での生き方を改良するという道筋、あるいは、いっそ外に出てしまおうという道筋、という相反する可能性を総合的に考えさせてくれるという意味で、歴史ある学問は、ひじょうに柔軟に役立つものなのです。
・アイロニー的に勉強のテーマを考える。それは「追究型」と言える。他方で、ボケ=ユーモア方向もある。それは「連想型」です。キーワードを出すのにも、分野を想定するのにも、追究と連想がどちらも使えます。
・勉強は、ニつの方向できりがなくなる―追究し連想、アイロニーとユーモアです。言い換えれば、「深追いのしすぎ」と「目移り」になる。勉強はアイロニーが基本なので、「深追いしているうちに目移りしてしまう」というのが、よく起こることです。
・「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるべストな勉強など、ない。深追い→目移り→深追い→目移り....というプロセスを止めて、ある程度でよしとするのが勉強の有限化です。
・信頼できる情報にもとづく比較を、ちゃんと自分なりに引き受けて、ある結論を、しかし絶対的にではなく仮の結論を出すのでなければなりません。
・自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に「中断」することである。信頼できる情報に自分の享楽を締めて考えて、「まあこれだろう」と決める。
・たまたま、ある人の考え方に出会って、それ=他者(ここでの「他者」といういい方は、他人やモノ、さらに「考え方」も指しています)に完全に乗っ取られる。決断とは、自分の決断の絶対化だが、それはつまり、他者への絶対服従である。私は、ある他者に完全に乗っ取られ、ひとつの真なる世界観に入る。こうして、アイロニーはそもそも批判的になることなのに、決断主義に転化すると、無批判な生き方になってしまいます。狂信的になってしまう。他の考えを聞く耳をもたなくなる、というか、他の考えをもつ複数の他者がそもそも存在しなくなる。だから、決断主義は避けなけれぱならない。これが本書の立場なのです。
・考えるべきは、「比較を続けながら比較をストップする」ような事態です。これを、決断ではなく、比較を「中断」する、と言うことにします。比較を続けるなかで、仮にべターな結論を出す。比較がちゃんと比較であるならば、その結論は「仮固定」でなければならない。ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない。別の可能性につながる多くの情報を検討し、蓄積し続ける。すなわちこれは、「勉強を継続すること」です。
・アイロニー=深追い方向で、比較を絶対的にストップさせようとすると、決断主義になってしまう。そうしないなら、ユーモア=目移り方向で、複数の他者のあいだをいつまでもさまようこ��になってしまうのではないか―しかし現実にはそうほならない、なぜなら、享楽的こだわりによる重みづけがなされ、どこかに足場が仮固定されるからです。
・信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である。
・こだわりというのは、要は「昔から自分はこうだつた」ということです。ならば、自分の「頑固な」部分でものごとを決めるしかない、ということなのか。本章では、享楽的こだわりは、絶対的に固定されたものではなく、変化可能であるという考え方を示したい。
・どこの環境においても言語には、何か偏った価値観が染みついている。ゆえに、環境の価値観が染みついた言葉で、出来事をなんとか納得してしまっているわけです。しかもトラウマ的に強い出来事ですから、それをなんとか納得するために動員きれる言葉=価値観は、強く自分に結びついてしまうでしょう。
・。経験上、自分のこだわりは、勉強を通してある程度は変わります。僕の経験からしてそう思います。しかし、どこまでコアな変化が起きうるのかは、わかりません。
・戦後から九〇年代までの日本社会がどう変わっていつたのかを教えてくれる新書一冊でもまず読めば、自分のこだわりの背景について理解が少しぼ深まるでしょう。まずはそのくらいから始めれぱいいのです。
・専門分野に効率的に入門するには、入門書を読むべきです。入門書によって、勉強の範囲を「仮に有限化する」のです。専門分野に入る前提として、どのくらいのことを知っておけば「ざっと知っている」ことになるのか、という範囲を把握する。必要なのは、最初の足場の仮固定です。そして、入門書は、複数、比較するべきである。一冊だけで、信じ込まないようにしてください。入門書を一冊読んだくらいでわかったと思われては困ります。いろんな角度から、分野の輪郭を眺める必要があるのです。同じ分野の研究者でも、解釈の展開や力点の置き方などは人によって異なります。
・専門分野に取り組むにあたっては、入門書に加えてその分野の教科書、あるいは「基本書」と言えるものを買っておくこときお勧めします。最初の段階では、これらは読み通すのではなく、あくまで入門書の理解を深めるための「事典」として使います。何種類もあるときは、原則として、出版年がより新しいものを選ぶのがいいでしよう。
・基本書というのは、教科書のように教育目的で書かれたものではないが、その分野の中心的化なテーマについて詳しく書かれた重要文献です。各分野において優先的に読むべきなのは基本書である、と知っておいてください。基本書とは、まずは、入門書や教科書に重要なものとして繰り返し出てくる文献がそれだと思ってください。
・勉強の順序としては、複数の入門書→教科書→基本書、となります。
・読書の完壁主義を治療するにあたって、フランスの高名な文学研究者であるピエール・バイヤールの「読んでいない本について堂々と語る方法」は非常に役に立つ本です。
・読書と言えば、最初の一文字から最後のマルまで「通読」するものだ、というイメージがあるでしょう。けれども、ちょっと真剣に考えればわかることですが、完壁に一字一字すべて読んでいるかなど確かではないし、通読したにしても、覚えていることば部分的です。通読しても、「完壁に」など読んでいないのです。ならば、ここからだんだん極論へ行けば、拾い読みは十分に読書だし、目次だけ把握するのでも読書、さらには、タイトルを見ただけだって何かしらのことは「語る」ことができる。
・入門書への取り組み方として、まず、言葉づかいに慣れる。そのために重要なのは、自分の実感に引きつけて理解しようししないこと。「実感に合わないからわからない」では、勉強を進めようがありません。
・授業では、学ぶべきことをすべて教えてくれるわけではありません。勉強というのは、自分で文献を読んで考察するのが本体であり、教師の話は補助的なものです。
・どんな分野のブロでも、教科書に書かれているすべてをマスターしている人はいません。そう思ってもらってかまわない。つまり、何かを省略するものなのです。勉強をイヤにならずに続けるには、「完壁主義」を避ける必要がある。いつでも不完全な学びから、別様に不完全な学びへと移っていく。仮固定から仮固定へ。
・勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である。多くの他者の意見(つまり、他者の勉強の成果)をふまえずに、何か環境のコードを押しつけていたり、決断主義的に決断しているような語りは、どんなに有名でカリスマ的に人気がある人のものでも、勉強の足場にすべきではありません。
・勉強の足場しすべきは、「専門書」です。もっと限定すれば、学問的な「研究書」です。「書物には、専門書とそれ以外がある」、または「研究書とそれ以外がある」という二分法でも考えてください。ぞれ以外は、「一般書」と呼ばれます。ほとんどの本は一般書です。注意してほしいのですが、専門書は大きな書店でなければ置いていないこしもしばしばです。ほとんどの本は一般書なので、本格的に勉強を始めるとなったら、意識的に専門書を探しに行くことが必要なのです。
・一般書から有効な部分を取り出すには、読者に専門知識が必要です。ゆえに、シビアな態度ですが、初学者ならば、一般書すべてに警戒してほしいと思います。世の中の新しい動きの情勉報はまず一般書から得ることが多いと思いますが、著者の立場に注意して読んでください。
・信頼できる著者に関しては、「学会誌」に論文を投稿しているとか、専門家向けの(一般向けではなく)レクチャーをしているとか、そういう活動状況を著者のウェブサイトなどで調べることで、ある程度は判断でさます。文献に関しても、専門家集団からの評価があること、これを基準にしてください。多くの専門家が参考文献として使っている文献は、とくに重視されているものだといえるでしょう。
・勉強の経過をノート(アプリ)に書くことは、勉強の継続にとって、重要です。何を読んだのか、どこまで考えたのか、何がまだわからないのかなどを書き、いっでも簡単に開けるようにしておく。サボることがあっても、経過の記録があれば、いつでも戻れる。拠点となるノート(アプリ)の存在は、周りのノリに流されたり、「もういいや」で決断したりするこしに対する抵抗になるでしょう。勉強を続けるには、日々、ノート(アプリ)の管理をするように心がける。ノート(アプリ)としては、evernoteを使用している。
・勉強を進めながら書くための、基本的な方法としてお勧めしたいのぼ、箇条書きによる「フリーライティング」です。フリーライティングというのぼ、思いつくままに、話がズレていっても気にせず、どんどん書いていくという実践です。箇条書きでの入力をサクサクやるには、「アウトライナー」と呼ばれるアプリを使うことをお勧めします。
・フリーライティングをしていると、何か気になるイメージとか、場面とか、理由を説明しにくい具体的なものがわいてくることがあります。そのときに考えるべきテーマと関係なく。そういうものも、言葉にしてみる。アウトライナーで書いているなら、そういう部分もそのまま書いてしまって、後になってから、別のところに保存しておく。おそらくそれは、自分の享楽的こだわりに関係している断片です。そういうものが、小説や詩など、文学の着想につながる可能性もあります。大して意味がなさそうだけれども、気になること。自分の奥底の無意味に触れているのかもしれない「雑念」。雑念にこそ、「自分ならではの無意味」が宿っている。何か「非意味的形態」のきらめきがある。自由な勉強とは、意味と無意味の行ったり来たりである。
・勉強の本体は、信頼できる文献を読むことである。信頼性の条件は、「知的な相互信頼の空間」に結びついていることである。この条件からして、勉強の一番底に置くぺきは、歴史ある学問であり、その上に、現代的・現場的な専門分野を載せるという二重構造の意識をもつ。
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ツッコミ(アイロニー)とボケ(ユーモア)。これは面白い。頁を手繰り寄せるように読み、あっという間に読了。この思考の疾走感が良かった。
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13年勤めた会社を辞めて,スクラップ&リビルド中の自分のこれからの研究生活を考える上での,メタなフレームが得られるというか,読みながらアタマを整理.
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今日の二冊目の書評は「勉強の哲学」千葉雅也著。バリバリの哲学者で東大大学院卒(博士課程)、現在は立命館大学で教鞭を取られております。
この書籍では「勉強とは何か、またどのように(勉強を)するのか」を人文科学的なアプローチで著わしたものです。しかし内容は複雑で難解。
では、私が分かった範囲でコピペブログ・スタート。
著者曰く、昨今の勉強環境は格段と進歩した。すなわち、インターネットやPC、スマホの発達で「勉強のユートピア」である、と。
しかしながら、情報が多すぎることで、考える余裕を奪われているともいえる。
そこで、著者曰く勉強のキーワードとなるのが「有限化」だ。ある限られた=有限な範囲で、立ち止まって考える。すなわち「ひとまずこれを勉強した」と言える経験を成り立たせる。勉強を有限化する。
ここで、著者はこういう。本書は「勉強しなきゃダメだ」、「勉強ができる=エラい」とか「グローバルな時代には英語を勉強しなきゃ生き残れないぞ」という脅しの本ではない。
むしろ、真に勉強を深めるためには、勉強のマイナス面を知る必要がある。勉強を「深めて」いくと、ロクなことにならない面がある。ある一定程度勉強して、それ以上「深く勉強しない」にはそれでいいと思う、とのことだ。なぜなら、生きていて楽しいのが一番なのだから。
深く勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方だ。状況にうまく「乗れる」、つまりノリのいい生き方である。
逆に「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まることであり、「ノリが悪くなる」ことだ。
本書で紹介するのは、いままでに比べてノリが悪くなってしまう段階を通って「新しいノリ」の変身するという、時間がかかる「深い」勉強の方法である。
著者はこう喧伝する。「勉強とは自己破壊である」
では何のために勉強をするのか?何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
それは、「自由になる」ためだ。どういう自由か?これまでの「ノリ」から自由になることである。
日本は「同調圧力」が強く「ノリが悪いこと」の排除の社会である。しかし、勉強は、深くやるならば、これまでのノリから外れる方向へ行くことになる。ただの勉強ではない。深い勉強である。
例えを挙げると、自己流で歌っていたときの粗削りだからこその圧力が、一念発起してまじめにボーカルレッスンを受け始めたら、だんだんその魅力が失われていった。
このように、勉強は、むしろ損をすることだと思ってほしいという。
つまり、前述したように、勉強とはかつてのノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊である。換言すると、勉強とはわざと「ノリが悪い」人になることである。
ところで、会社や家族や地元といった「環境」が私たちの可能性を制約している、と考えてみる。生きることは、環境から離れては不可能であり、私たちはつねに何らかの環境に属している。圧縮的に言えば、私たちは「環境依存的」な存在であると言える。
本書では���「環境」という概念を「ある範囲において、他社との関係に入った状態」という意味で使うことにする。シンプルには、環境=他者関係である。
「他者」とは「自分自身でないものすべて」だ。親も恋人も、リンゴやクジラ、高速道路、シャーロックホームズ、神もすべて「他者」と捉えることにする。これはフランス現代思想において見られ使い方である。
また、環境の求めに従って、次に「すべき」ことが他のことを押しのけて浮上する。もし「完全に自由にしてよい」となったら、次の行動を決められない、何もできないだろう。すなわち、環境依存的に不自由だから、行為ができる。
ここで「不自由」はこれ以後、哲学的に「有限性」と言う。逆に「なんでも自由」というのは、可能性が「無限」だということ。無限の可能性のなかでは、何もできない。行為には、有限性が必要である。
私たちの課題は、有限性とのつきあいい方を変えることだ。有限性を否定するのではない。有限性を引き受けながら、同時に、可能性の余地をもっと広げるという、一見矛盾するようなことを考えたいのである。つまり、有限性とつきあいながら、自由になる。
ところで、会社や学校といった環境のなかでは、他者への対応がスムーズに無意識的にできるようになっている。環境には「こうするもんだ」がなんとなくあって、それをいつのまにか身につけてしまっている。
すなわち、「こうするもんだ」は、環境において、何か「目的」に向けられている。周りに合わせて生きているというのが、通常のデフォルトの生き方だ。
私たちは環境依存的であり、環境には目的があり、環境の目的に向けて人々の行為が連動している。環境の目的が人々を結びつけている=「共同化」している。
環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを環境の「コード」と呼ぶ。
会社や学校等の環境のコードに習慣的・中毒的に合わせてしまっている状態を、「ノリ」と表す。ノリとは、環境のコードにノッてしまっていることである。
いかなるコードも、普遍的なものではない。特定の環境の「お約束」にすぎない。そういう意識を通常は十分もってない。すっかり「その会社の人」とか「その地元の人」になっている。つまり自分は、環境のノリに、無意識なレベルで乗っ取られている。
ならばどうやって自由になればいいのか、環境に属していながら同時に、そこに「距離をとる」ことができるような方法を考える必要があるが、それを可能にするのは「言語」である。
言語は、環境の「こうするもんだ」=コードのなかで、意味を与えられる。だから、言語習得とは、環境のコードを刷り込まれることなのだ。言語習得と同時に特定の環境でのノリを強いられることになっている。
国語辞典に載っているのは、言葉の「本当の意味」ではない。載っているのは代表的な用法だ。辞典とは、人々が言葉をどう使ってきたかの「歴史書」である。
言語習得とは、ある環境において、ものの考え方について「洗脳」を受けるようなことだ。すなわち、私たちは言語を通じて、他者に乗っ取られている。
とこ��で、人間にとって「世界」は二重になっている。まずリアルに存在するのは、モノ=物質の世界である。物質的な現実だ。(以下、現実)それと、もう一つの次元として、言語の世界が重なっている。
そのもう一つの次元として、言語には現実に縛られない独自の自由がある。たとえば、テーブルの上にリンゴがあっても、たんに言葉として「リンゴが箱のなかにある」と非現実的なことも言うことができる。「ここにはクジラがいる」と言うことさえできる。何でも「言えるには言える」わけだ。
言語はそれだけで架空の世界をつくれる。だから小説や詩を書くことができる。先ほどの
「リンゴ」は現実の普通の言葉だが、例えば「リゴンゴン」のように、何をさすのでもないたんなる言葉をつくることができる。さらには論理的にありえないことまで「言えて」しまう。「リンゴはクジラだ」とか「丸い四角形」とか。
筆者はいう。こうした言語の自由さに、あらためて驚いてほしい、と。つまり言語それ自体は、現実から分離している。言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。このことを「言語の他者性」と呼ぶ。
そして、言語の他者性によって、言葉のある環境での偏った意味付けは必然的ではなく、いつでもバラすことができる。別の意味づけの可能性がつねに開かれている、ということにもなる。
つまり、言語の他者性は、環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の、両方の原理になっているのである、と著者は主張する。
また、これにより、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きている、と言える。言語によって構築された現実は、異なる環境ごとに別々に存在する。言語を通していない「真の現実」など、誰も生きていない。つまり、環境においてノッているというのは、言語的なVR(ヴァーチャル・リアリティ)を生きているということである。
また、ある環境、すなわち言語的なVRが、人を支配すれば、解放もする。いわば言葉は人間のリモコンである。
ある環境において、言葉は私たちに命令する。言葉によって私たちは、特定のノリに従った動きをさせられる。
しかし、言葉にはまったく逆の機能もある。すなわち言語の他者性だ。言語は自由。それは言葉遊びの自由であり、それは言葉の組み合わせによって、目の前の現実とは別のたくさんの可能性を考えられるということだ。このことは社会的な意義がある。
社会を成り立たせるには、立ち止まって考えることが必要である。それは言語をフル活用し、可能性を想像するというこだ。つまり「もしこうならばああなるな、いや別の可能性もあるな」というふうに、シュミレーションすることである。
したがって、言語は、私たちに環境のノリを強いるものであると同時に、逆にノリに対して「距離をとる」ためのものである。
さて、私たちはある環境に「いながらにして距離をとる」方法を求めてた。この勉強論では、環境による縛りから逃れたいわけだが、完全な自由はないのだから、縛られながら逃れるようなころを考えなければならない。その答えが、以上の考察で得られたのである。
私たちを縛りながら逃れさ��るもの、私たちに命令しながら私たちを命令から解放するもの...それは、人間世界=ヴァーチャル・リアリティを構築する言語に他ならない。したがって、言語の開放的な力-言語の他者性-について考えることが、自由になるための勉強論に等しいのである。
とここまで、本書を紹介してきましたが、”勉強”と言うものを論理的に解析した、佳作です。ぜひ、「勉強の論理性」を探求したい方は一読をお薦めします。
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久しぶりにじっくり腰を落ち着けて熟読してみたいと思った本。難しくはないと思うが奥の深い本だと感じた。
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売れてるらしいので購入。うーん、なんとなく言いたいことはわかるようなわからないような。結局多様性が大事で、言葉の一般的なルールに無自覚に縛られたままだと、みな一様になってしまうみたいなもんなんだろうか。
語り口は平易だけど、なかなかその内実をつかみ取るのは難しいっぽい。
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『可能性をとりあえずの形にする。言語はそのためにある。
文学という極端から逆に考えてみてほしいのですが、「私は上海で働く」とか「貧困に苦しむ人がいない世界」だって、詩じゃないでしょうか?まだ現実ではない可能性を形にしている。
夢や希望を抱くことができるのは、言語を環境から切り離して操作できるからである。
この勉強論では、社会学やプログラミングを実用的に身につけることと、文学の読み書き、詩的言語を操作できるようになることを、連続したものと捉える。』
勉強を言語と思考に引きつけて論じている作品。
哲学科卒的には懐かしいテイスト。14年前くらいに読んでいれば、もっと楽しめたかな。ドゥルーズ&ガタリ、ジャック・デリダ、ラカンあたりは不勉強な領域なので、いつか読みたいなぁ〜。
てか、永遠の積読『千のプラトー』『アンチ・オイディプス』『哲学とは何か』『差異と反復』はいつになったら読めるようになるのだろうか。この4冊だけで2万円超えてるんだよな。今思うと何のために買ったんだ!?
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東大・京大で一番読まれている(発売当時)らしいが、よくわからない。「勉強」とは何かについて書かれているのだが、単なる言い換え、比喩、言葉遊びに見える。同じような主張なら平野啓一郎さんとか、外山滋比古さんの著書の方がよほどわわかりやすいと思うが。
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2017年発刊の人文書中で話題になった一冊。千葉雅也はlifeとかゲンロンなどで、かすめる程度に知っていたが、なんとなく自己愛過剰なルックスなのでちょっと遠巻きに見ていた。たまたま電車での長距離移動があり、kindleで暇つぶしを探していたら出会い、ものの勢いで読み始めた。
しかし面白かった。ただのポエミーなハウツー本だったら嫌だなと思っていたが、ちょっと先入観が強すぎたようで、準専門書と言ってもいいぐらいしっかり理論的で、かつ読みやすい内容。フランス現代思想の影響を色濃く反映しており、言語に対する視点と扱いから、勉強を考えるという感じ。理論はとてもうなずけるもので、非常にためになった。僕自身も勉強好きで、職場でも多少浮くところがあるので、こういう形で理論づけしてもらえると自身のことながら納得がいって、ありがたかった。
実践編では「読む」ことと「書く」ことを教えてくれている。自身に不徹底なところがあるので、時に思い出しながら癖をつけていきたい。
18.1.22
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勉強することはノリが悪くなること。
別のノリに引っ越すこと。
全くこの本をうまく説明できませんが多分最近売られてる本で最もおもしろいです。
哲学とは案外柔らかいもののように思えてきました。
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勉強するとはどういうことかを書いた本。
「勉強の哲学」という題名だが、「哲学の勉強」ともいえる哲学の入門書。
本来、哲学の本は、難解な哲学用語で書かれているため、読んで理解するのは難しいが、この本は、若者たちにわかりやすい身近な例え話(芸能人の不倫の話題における会話のコードとは何か、など)を挙げ、説明することで、非常に読みやすくなっている。
ただし、それは比喩として分かりやすいだけで、本来の意味を知ろうとすると、「なんでなのだろう?」とわからない事が多数。例えばこの本で面白い部分で、アイロニー=ツッコミ<>ユーモア=ボケという説明があり、真を知ろうと考えを深めていくアイロニーこそが、勉強の本質といいながら、真の答えには絶対に行きつかないから、途中でユーモアの方にいき、観点、切り口をたくさんもち、連想を見つけていく。その上で享楽的という部分にもたどり着く。という話があるが、なぜ「真の答えにいきつかないか」ということは、感覚的にはわかるが、厳密になぜそのように説明できるのかというと、私には読み取れなかった。
ただ、筆者も本文で主張しているが、すみからすみまで書いてあることを理解する必要はない。という事なのかもしれない。
とにかく、この本を読んで、哲学的に思想するとはどういことか、勉強するとはどういうことか、ということに興味を持ち、そこからどんどん哲学、勉強へのめり込んでいければ、この本を出す目的を達成しているのだろう。
また、哲学的な考え方を身に着けることで、今までになかった視点から自分自身を客観的にみることができるようになるのではないだろうか。
この本は、割と難しい哲学の本であり、そんなにとっつきやすい記載でもないと思うので、本が売れているということに、驚きを感じる。
何か、この本を読んだら、薀蓄を語りたくなる部分はあり、ある意味ハウトゥー的に読めるのかもしれない。哲学的な語り方を。
また、東大生、京大生が読んでいる。とのことだが、意欲のある学生が少し背伸びして読み始めていくうちにどんどん世界が広がっていく、そんな経験を影響しているのかも知れないと思った。
副タイトルの、「来るべきバカのために」というのは、頭が超良い人が、わざと「バカ」という言葉を使っている感じがして、もしかして、筆者は賢すぎることをコンプレックスに感じて、「バカ」という言葉に憧れているのでは?と思ったけど、idiotの意味なんですね。
ドストエフスキーの白痴のムイシュキン公爵をイメージすると、なんとなく筆者のいわんとすることが理解できる気がした。どちらかというと純粋さに近い、平衡感覚がないような感じか。