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アイロニーとユーモアのくだりはよかった。
ただ、全体的に内容はうすかった。
まあ、でもよかった。
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まずノリの悪くなる学びを。
コードの逸脱。ボケとツッコミ。アイロニーとユーモア。問い立てができる力。
・入門書から専門書へ。どこまで勉強するか。
・享楽に従う勉強の有限化。視点を持つこと。
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人生は勉強だろう。人は言葉を使い、概念を持って思考する。勉強し、成長し続けるためには、アイロニーとユーモアを組み合わせ、来るべきバカとなり続けるということなのだろう。深いし、スカッとする。面白かった。
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ものすごいわかりやすい文章を追っていくうち、なんだかよくわからない混乱がやってきますが、でも、一方で感覚はわかるわかるモードに入っている、そんな読書でした。本書の中でもピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を引き合いに、読書は完璧にはできない、と言ってくれて、その布石を打ってくれていたりします。わかる感じ、というか沁みてくる感じなのはアイローニー=ツッコミ=深追い、ユーモア=ボケ=目移り、のあたりから。正解を求めようとする完璧主義が、決断主義を生み、それが他者との共存を許さない不寛容となり、無限に多様性を追い求めるコレクションが、先延ばしを生み、それが非当事者意識となる、なんか、いまの社会の気分の見取り図として、ものすごく腹落ちしました。そのための処方箋が「仮の有限化」。アイロニーからユーモアへ。ユーモア的な有限化へ。比較を続けながら比較を中断する、ということが考え続ける、ということ。それが勉強を続けるということ。答えのない時代(答えがある時代があったか、どうかわからないけど…)の生き方としてなんかグッと来ました。
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1〜3章の文体の「キモ」さ(千葉氏の哲学的文体)と,4章の文体のギャップが面白い。勉強しろという本ではなく,勉強に対する弊害を押し出しているところがミソ。
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/post-b2aa.html
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p30 「自分とは他者によって構築されたものである」
p34 「人間にとって世界は「二重」になっている〜もうひとつの次元として、言葉の世界が重なっている」
p36 「言語の他者性」
p47 「ただの音としての言語〜器官なき言語」は言語なのか??言語と扱う必要はあるのか?
p50 「言語使用は〜主に道具的である」
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言葉についての言及がとても興味深かった。モノ自体と言葉は完全に独立しているのか?自分が興味があると思っているテーマについて、自己ツッコミを入れられれば、もっと深く追求したいテーマにたどりつけるのかも、心がけよう。
実践編は取り入れたいこと、参考になることがとても多い。何より「教師は有限化の装置である」という言葉に大納得。
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千葉雅也『勉強の哲学』読了。「勉強」とあるけれど、広義的な「勉強」と捉えられる内容で、ある種のオタク分析のようにも読めて、非常に興味深かった。内容としては、勿論『勉強』についてではあるんだけど、勉強というツールを使ったコミュニケーション論であり、言語論といった感じで、面白かった。
『勉強の哲学』読んでて、サルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という言葉がふと浮かんだのだけれども、『勉強は自己破壊』という文中の言及、元々存在する環境(不自由)からの脱却は時として重圧である、自由(自己責任)の方が困難なこともあるよなぁと改めて考えたりしたわ。
まぁ、その読みも知識のない私の勝手な解釈に過ぎないけれど…。内容としては大枠としては理解したつもりになっているけれども、所々、前提条件とされる知識が曖昧な部分があったりして、勉強不足を痛感したよね……。言葉は多く持っているに越したことはない………。
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第2章の部分は話が抽象的すぎるし、次々と新しい言葉が出てくるので、それこそ言葉が浮いているような感じがして、とても読みにくかった。
でも、読み終わってみると納得できる部分は多かった。
勉強をすると賢くなるのではなく、一旦場から浮くようなやつになってから賢くなる。でも、それも結局、勉強していないバカと見分けがつかないという部分が好きだった。単純に、勉強は大事だとか素晴らしいとかいう短絡的な見方ではなくて、勉強について批判的に考え抜いたあげく、最後はスタート地点に戻るみたいな台無し感がすごい良かった。
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著者の千葉雅也は、2013年発表のデビュー作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で注目を集めた、フランス現代哲学を専門とする新進の哲学者。
著者は本書について、「ドゥルーズ&ガタリの哲学とラカン派の精神分析学を背景として、僕自身の勉強・教育経験を反省し、ドゥルーズ&ガタリ的「生成変化」に当たるような、または、精神分析過程に類似するような勉強のプロセスを、構造的に描き出したもの」とし、補論でその学問的背景についても語っている。
よって、前半の原理篇1~3(第1章~第3章前段)には現代思想の専門ワードも登場するが、著者の思考の展開をきちんと追えば、さほど抵抗なく、むしろ共感をもって読み進めることができる。
◆勉強するとは?・・・「勉強とは何をすることかと言えば、それは、別のノリへの引っ越しである」、「深く勉強するとは、言語偏重の人になることである。言語偏重の人、それは、その場にいながらもどこかに浮いているような、ノリの悪い語りをする人である」
◆勉強の方法は?・・・「ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである」、「勉強はアイロニーが基本である。しかしアイロニーをやりすぎず、つまり、懐疑(疑い)を深めすぎず、ユーモア的に多数の可能性を連想する。しかし、そうした可能性の増殖はきりがないので、切断して足場を仮固定するために享楽的こだわりを刃にする。その刃に、また、やりすぎないアイロニーをかける。このようにプロセスが進むのです」
そして、後半の実践編1~2(第3章後段~第4章)では、P・バイヤールのベストセラー『読んでいない本について堂々と語る方法』などを引用しつつ、著者自らの体験に基づく具体的な勉強の仕方が紹介されている。
「勉強とは、わざと「ノリが悪い」人になることである」。。。目から鱗の一冊。
(2017年7月了)
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割と読みやすく、わかりやすい内容でした。
また、著者の頭の良さがよくわかるような気がします。
ただ、ここに書かれてあることについては、自分も含めて
みんながある程度知らず知らずにやっていることでは
ないかと思います。思考がまとまるとき、うまくいくとき
にやっているやりかたであるような気がします。
ただ、そういうことを論理に則って展開していくところ
がよく考えられていると思います。
また、一般的に言語論は面白いと思います。
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勉強とは何なのか、それをするとどうなるのかということについて、哲学を基礎に置いていますが、バックボーンの無い人にもわかるように書かれています。勉強すると余計な贅肉も付いてしまい、それがアイロニー(ツッコミ)として発生してしまいます。そういう人間たくさん見るなあと思い当たる点、自分にも有ったりしました。本書はそこからどうするのか、かじり始めた勉強をどうやって発展させていくのかが書かれています。
勉強していない人に、勉強する意味を説明することは非常に難しいものです。なぜならそれをするためには、相手にそれを理解するだけの知識を求めるからです。本書はその難しさを、可能な限りハードルを下げて説明されていると思います。難解なことをここまで分かりやすく専門性を省いて書かれた著者の労力はすごいと思いながら読みました。
アイロニカルに突き進むと「自分が決めたから決めたんだ」という結論に至りますが、著者はそれではマズいと言います。その視点は反省を促し、冷や汗が出ました。
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アイロニーとユーモアの対立から勉強の方法を示す。アイロニーが至る先の「決断主義」はまさにかつて陥ったものだな、と思ったし今もそれに引き摺られている。
アイロニーからユーモアへ移動し、ユーモア過剰を区切るのが「享楽的こだわり」。この辺りがとても現実的。そして享楽は勉強によって変化可能。以前は自分は心理学やサブカルに興味あったが、今は海外の事や政治や家庭科に興味が出てきたなーと思っており、それは試しに情報を仕入れてみた所面白かったからであった。複数のタイムラインの発生。
現在のコードに乗っかりつつも、一方でコードから離れ浮遊し他のコードのタイムラインを作成・没入し、自分に特有の享楽(バカな部分)を自由に変化させつつ、比較を続ける態度。難しいですね。
読んでると自由な気持ちになれる。コードから離れていいんだな、ユーモアへ移動していいんだな、中断していいんだな、身近な関心は学問の専門分野へと通じているし、既にそこで論じている人達がいるんだな。心地よかった。
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勉強=いままでのノリから抜け出すこと
相対的に比較していくことで世界を認知するならば、比較対象を増やしていくことはより比較の精度を上げることになる。
懐疑(アイロニー)と連想(ユーモア)を繰り返して思考を深めていくが、それは際限がないので享楽(自分のこだわり)によってある程度見切りをつける。
自分の享楽について理解するためには欲望年表を作成すると良い。
「ある程度勉強した状態」はあっても「勉強完了」の状態はないので享楽を繰り返しながら深めていけば良い。
この知の有限化のプロが教師。教えられる者は何を教わっているかと同時に教師は何を切り捨てているのかも意識できた方が良い。
学問も、それぞれの世界にノることと同義。入門書→教科書→基本書→専門書と深めていく中でその学問のノリに入っていく。そうした書物はプロ・モードで書かれているためにそうして慣れていかないと理解ができないから。
本は修正が効かない分注意深く書かれていることが多い。でも間違っていることも往往にしてある。プロ・アマ両輪で読むことによって必要な分だけ自分のものにしていく。
ノートは勉強のタイムラインになる。
考えた結果を書くというより書きながら考える。箇条書き(アウトライン化)も有効。