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サービス産業化する社会福祉業や教育。
その背景には
もし何かあったら責任は誰がとるのかという思想がある。
自らが関わる社会に当事者意識をみんなが持つこと。
そんな意識を持てるような学校教育をしなければならないと改めて感じた。
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あそびの生まれる場所〜「お客様」時代の公共マネジメント
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「あなたでなくてもいい」
「他のお客は関係ない」
「自らの未来について、関与しなくてよい」
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コミュニティワーカーであり、「おとうさんのヤキイモタイム」( http://yakiimotime.com/ )の発起人である著者の西川正さん。現代のサービスと受益者は、上記のような関係性の上に成り立っていると提起します。
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上記の指摘に「だから・・」と付け加えるなら
「あなたでなくてもいい」
(だから、あなたの意見は聞かない)
「他のお客は関係ない」
(だから、わたしの主張を優先してよ)
「自らの未来について、関与しなくてよい」
(だから、誰かにまかせておけばいい)
という感じでしょうか。
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これは企業が消費者に提供するモノやサービスだけでなく、公共サービスについてもいえること、と西川さんはいいます。
役所の窓口で職員にクレームを言いまくる住民。
自由に遊べなくなり空き地と化す公園。
保育園のスタッフに「うちの子が」とクレームを言う保護者。
挙げ始めるときりがありませんが、これらは全て、上記3つの要素を含む関係性から起きているのでしょう。
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そんな関係性を少しずつ変えていくのが「あそび」だと。
『遊ぶとは、何か他の目的をもたず、そのこと自体をしたいからしている状態のことを指す』と。
(ちなみにこれは、チクセントミハイ氏の名著「フロー体験 喜びの現象学」で提唱されたフロー状態だなぁと思いました)
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西川さんは、自分の子どもが通う保育園をきっかけに立ち上げた「ヤキイモタイム」を例に挙げます。
保育園⇔保護者という関係性のみで成り立っているために、保護者どうしが交流する機会がなく、お互いを知らない。
ましてや、たまーにしか保育園に行かない父親なんて、他の保護者を知る機会なんてほぼない。
それにより、互いを知っていれば「あぁ、○○さんの子ですか。それはしかたないですねー」くらいで済む出来事も、「うちの子になんてことを」みたいな事件に発展してしまう。
そこで西川さんは、お父さんも気軽に参加できる、焼き芋を囲んで楽しむ会を企画。ただただ焼き芋を楽しみながら、そこで保護者同士も(なんとなく、無理に会話しなくても)お互いを知る。
すると、次に保育園で顔を合わせるときには「先日はどうも」という挨拶から始まる。
(ヤキイモタイムには、焚き火の準備はみんなでやるとか、いろんな「一緒にやる」プロセスがあるようです)
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このように「遊び」(=したいこと)の積み重ねの上に成り立つ公共やサービスの中では、「あなたでなくてもいい」「他のお客は関係ない」「自らの未来について、関与しなくてよい」という状態に陥らないのではないか、誰もが当事者として関わる場になるのではないか、ということなのかなあ、と。
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わたし自身は、コミュニティデザインという仕事で、行政からの依頼を受けて、このような「遊びを重ねる場」を住民と一緒につくってきたのかなと思います。
しかし・・・「コミュニティデザイン」というものが日本で広がって10年ほど経ったいま。
行政がわざわざ、わたしたちのような事業者に依頼して「じゃあコミュニティデザインでお任せしますね」というのも、そろそろ風化していくのかなと感じています。
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公共の場ってどうあるべき?いち社会に生きる構成員として、どんな風に関わっていくことが本当は理想だろうか?など、考えてみたい問いがたくさん浮かんだ。
ビジネスの世界に生きていると、単純に公共サービスがサービスとして充実していくことは良いことなのでは、と感じでいたけれど、自分達の場なんだ、という意識は確かに薄れていたかも。サービスする側とされる側で本来分けてはうまく回らない子供あることに気づいた。