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ゆっくりと読み進めてきた『中動態の世界』を読み終えた。國分先生の学問に対する態度は先日の文春オンラインに詳しい。副題にある"考古学"に相応しく、歴史的な知の源流と系譜学に深く闖入していくさま、論述のスタイルが勇まし過ぎて感涙だった。
中動態は、主語が「する」のか「される」のかを問う能動対受動のパースペクティヴではなく、主語が過程の内にあるのか外にあるのかを問う別のパースペクティヴにおいて理解されなければならない。p187
言語は不均衡な体系である。言語は常にさまざまな要求に対応しながら、抑圧と矛盾を抱えつつ運用されている。人の心や社会と同じである。p195
一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対してスピノザは、能動と受動を、方向ではなく質の差として考えた。p257
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能動か受動か。
確かに、この二択で事態を捉えている。
まず中動態を認識していないと、能動か受動かだけで言葉を解釈することになり、違う解釈となってしまう。
アルコール依存症の例示が大変わかりやすかった。
アルコール依存症は、自分の意思や、やる気ではどうにもならない。でも刑務所で講演会すると、努力すればやめられるという捉え方をされてしまう。
強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している。能動か受動かという対立で物事を眺めるとこれが見えないという。
自身を思考する際の様式を改める。
中動態の世界を認識して、少しずつ自由に近づくとある。
自由って難しいですな。
身体、気質、感情、人生、歴史、社会、他の人々とつくり上げた関係ゆえに自由ではいられず行為を強制される。
自由に近づくために、中動態を認識する。
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中動態という観点からインド・ヨーロッパ族の言語の文法の歴史を知れたのは単純に知的好奇心が満たされた。わかりやすい。
付随的に主にスピノザ、アレントの思想がわかる。
濃いので良い。
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能動態、受動態では語り得ない概念である中動態が、かつてあったこと、その実態と現代おける再認識の意味について。興味深い。
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この本は、ハイデッガーやアレントはもとより、デリダにラカン、フーコーにドゥルーズ、と有名どころを次々と繰り出しては、能動と受動という二つの対立以前に在った「中動態」という態の存在をあぶりだすことを目的として書かれている。聞きなれない名前だが、「中動態」の存在は早くから知られていたし、研究も存在していたという。著者自身、ずっと前から気になっていたのだが、アルコール依存症患者に係わる知人と話したりするうちに、書かねばという気にさせられたのが執筆の契機だという。
アルコール依存症患者は、意志が弱いから再発するのだ。もっと強い意志を持たねば、と普通は考えるが、実はそれがまちがいのもとだ、とその人は言う。発想が逆転している。そもそも、人が行動を起こすときに意志が先に立ったりはしない。意志は後から現れるのだ、と。では、何故そう思ってしまうかというと、われわれは、この世界を能動と受動という二つの態に分けてとらえてしまうからだ。無理やり飲まされて(受動)いないなら、自分で飲んだ(能動)ということになる。
銃で脅迫されて、ポケットから財布を取り出す行為は能動か受動か?ハンナ・アレントによるとアリストテレスの哲学なら能動になるのだという。なんでそうなるの?と欽ちゃんみたいな声が出そうになるが、「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」だから。確かに、財布を出すことを選択せず、ボコボコにされることを能動的に選択できる余地が残されてはいるものの、納得のゆかない説明だと感じる。
はたしてそう簡単に割り切れるものかどうか。そこで、著者は前々から気になっていた「中動態」をこの際極めてみようと、ギリシア語まで学びなおして、語源からたどり直す。このあたりは、大事なところなので、読み飛ばすわけにはいかないが、正直あまり面白くは感じられない。ただ、古くは、能動態に対立するのは受動態ではなく、中動態であったということが分かってくる。それが、いつの間にか消滅し、その後を襲ったのが受動態、とまあ簡単にいえばそうなる。
そこで、そのちがいだが、能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるが、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になるのだという。例えば「曲げる」は、主体から発して体の外で完遂する過程を表す。問題は、「生きる」も「在る」も、それと同じカテゴリーに入っていることだ。つまり、当時は「生きる」ことも、主語から出発して主語の外で完遂する過程と考えられていた。生きることに主体の関与は必要なかったのだ。
ここで、カツアゲの例に戻る。「私が暴力によって脅されてはいるものの、物理的には強制されずに行った行為」の中に、もう一つ概念が必要だったことがわかる。それが同意だ。私の行為には自発性は存在しないが同意は存在する。アリストテレスの場合、強制がなければ自発的ととられているが、強制ではないが自発的でもなく、自発的ではないが同意はしている。そうした事態は日常的に多くみられる。自分はカツが食べたいが仲間が蕎麦にしようというから仕方なく��麦屋に行くというパターンだ。強制か自発か、つまり能動か受動か、ではなく能動と中動の対立する事態を枠組みとして設定すれば、事態が分かりよくなる。
著者はこの後スピノザを持ち出し、かなりその哲学について詳述している。かなり煩雑になるので結論から言うと、能動と受動を行為の方向と考えずに、スピノザは質の差だと考えた、というものだ。行為の方向から考えると困っている人にお金を渡すのも、カツアゲも同じ行為である。しかし、質は異なる。自己の本性の必然性に基づいて行為する物は自由であるとスピノザは言っている。同じように見える行為の中に、自己の認識の差を見ているのだ。
最後の唐突に登場するのが、ハーマン・メルヴィル。『白鯨』の作者である。そのメルヴィルの遺作『ビリー・バッド』という小説に登場する、三人の人物を「善」と「悪」と「徳」の寓意として読み取り、どの生き方も完全ではないとする。彼らは強制はされていないが誰も自由ではない。彼らの生き方を問うことで、われわれが置かれている世界は、完全な自由などないが、完全に強制されているわけでもない。つまりは中動態の世界なのだ。では、どう生きるか?中動態の世界を知ることで、より自由に近づいていこうと呼びかけて終わっている。
ハイデッガーやアレント、スピノザについて、少しではあるが学ぶことができたのは収穫である。ありもしない自由意志に縛られていることは、以前から朧気ながら気づいていたので、それを文法上の問題として改めて考えられたのはよかった。しかし、最後まで読んできて、えっ、これで終わり?と思ったのも確かだ。何か、肝心なところで手を離されたようで落ち着かない。もう少し展望の見える位置まで引っ張って行ってほしい気がする。それこそ、個人一人一人の問題だ、と著者は言うだろうけれど。
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意志とは自由とは何かを明確にするために、「中動態」という能動態でもない受動態でもない問題を、哲学からそして言語の歴史から紐解く書籍。看護関係の雑誌に連載していたものだが、論理的だが読み進めるのには骨が折れる。ネタバラシになるが、最後の章で哲学的論考から一気に本書の本質に至る。回復している依存症者の姿が少し垣間見えた。
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例によってラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」で紹介していた本。
壮大というか深すぎるというか、読み終えられはしたけど全てを理解できたとは思えないけど、何らかの理解の入り口には立てたかも、と思える本だった。
言葉と思考、というテーマは、最近個人的にぼんやりと興味がある事だったので、それを理解するという意味でも面白く読めた。
手話を最近覚え始めたので、言葉が変わると思考も変わるかもしれないということに、なにか目が開かれる思いがする感じがする。
それを丁寧に解説していくというか、解き明かしていくようなこの本は、難しい内容なんだけど読まずにはいられない感じがあって、毎晩寝る前に少しずつ読み進めていった。哲学のことはほぼ素人だけど楽しく読めるのでテーマに興味があったら読んでみるといいかも。
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この本のメッセージを一番シンプルに要約するならば、能動・受動の対に替えて自由・強制の対で考えろということなのだろう。そして、自由・強制の対で考えるということは今のわれわれにとってそんな奇異な発想ではない。責任を問うとき・量刑を決定するときも、「これくらいは強制されていた」「これくらいは自由であった」とみなされるべきだということに関して、客観的な事実を定めようとする。しかし、そういう責任や賞賛・刑罰の営みを行いながらわれわれは思う。自由や強制の度合いなんてものはあくまで社会的な決め事であって、本当のところは因果関係で決定されているのではないか、能動と受動なのではないか。いいかえれば、自由・強制は社会的取り決めの問題であり、形而上学的な問題は能動・受動で語られるべきなのだと。
それに対して、この本は、「いや、自由・強制の対は形而上学的な次元にも言えるものなのだ」と踏み込んでいるようにも思われる。その論証の核となるのが、ドゥルーズおよびスピノザ読解にかかっているように思われる。
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(目次)プロローグ-ある対話 第1章能動と受動をめぐる諸問題 第2章中動態という古名 第3章中動態の意味論 第4章言語と思考 第5章意志と選択 第6章言語の歴史 第7章中動態、放下、出来事-ハイデッカー、ドゥルーズ 第8章中動態と自由の哲学-スピノザ 第9章ビリーたちの物語
著者は「強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、(中略)能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できる」と言う。けれど、そもそも本書を読むためには哲学や語学にある程度以上の専門的な知識が必要なはずで(あとがきによると執筆のために古典ギリシア語を学び直された、とのこと)、その意味ではど素人の私にはこの本を「たやすく」読めるはずもないのだけれど、ビリー、クラッガート、ヴィア艦長の3人を自分自身として考えてみる。それならできるかもしれないし、その先にはなにかの気付きがあるのかも。(あってほしい‥)頭の芯が熱を持つような読書体験だった。第16回小林秀雄賞 ★★★★★
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中動態の世界があることをこの本で知りました。
他の人のレビューをみても、とても中身の濃い素晴らしい本だと書いていました。毎日少しづつ読み続けていますが、最後までしっかりと読了したいと思います。
・・・・
10月、この本が2017年の小林秀雄賞を受賞しました。すごいことだとただ感心しました。
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私たちがいかに言葉に規定されているかを思い知らされる。
「中動態」という態を知ることで、生き方が変わるだろう。
明快な論理展開も素晴らしい。
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2017.10,28市立図書館(読む暇なくひとまず返却)
2018.1.27市立図書館(60ページぐらい読んで返却)
→手元においてじっくりとりくむべきだとわかったので購入(2018.2.10)
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-2017.12.17
自由の問題を巡る議論の混乱は、意識の問題と同様に、近代西洋の知が設定した枠組みの産物であるといふ側面を持つ。その枠組みから出て問題を見直せば、新しい視点、より現実に即した考へ方が見つかることがある。
かうした知の枠組みが作られた時代には、これらの問題についても、より幅広く、深く考へられてゐた。デカルトは極端な二元論やその後の唯物的な見方の親玉のやうに見られることが多いが、実際にはより多面的な考へを持つてゐた。この本で取り上げられてゐるスピノザは、デカルトを批判した人だが、問題の核心に関はる思想を展開した点は共通してゐる。彼らの時代まで立ち返つてみることは、有益だ。
能動態と受動態の区別も、近代社会の枠組みの中で顕在化、固定化された可能性がある。
この本が、雑誌『精神看護』の連載を元に書かれたといふのは、非常に興味深い。
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かなり読み応えのあった一冊。言語学的な考察を深めながら、失われた「中動態」の世界を再発見する。能動、受動の二項対立で語られる私たちの行為だが、本来人間の生をそのような二種類の分類で切り分けることはできないだろうと主張する。完全ないみでの自由意思を否定し、再帰的に自らの世界を規定し続ける人間のあり方に目を向ける。
こんな感じで説明すると、結局中動態の概念はわかっても、それが何なんだというところに落ち込んでしまう。仲正昌樹が「不自由論」で言っていた、自己決定なんて無理でしょっていう諦念との区別がつかない。改めてこれを語る國分の熱意が見えにくい。アイヒマンではないのか。
ただ巻末の言葉でこれを書くに至った動機と出会いが書かれていて、動機の部分はやはり結局わからなかったが、その使命に取りつかれギリシャ語を学び、スピノザを学び直す知的情熱には胸打たれるものがあった。
17.2.22
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『責任を負うためには、自分の意志で自由に選択ができなければならない』―『第一章 能動と受動をめぐる諸問題 3意志と責任は突然現れる』
ハラスメントを巡る議論が活発になる世の中。モラルの低下を嘆く声も多いことであるし、ハラスメントを加える側に非があることは原則として正しいと思う。しかし非難される側を非難されて当然と決めつけ、やや行き過ぎたペナルティを加えがちな風潮にどこかしら違和感を覚える事もまた事実。そう感じるのは決して自分だけではないだろう。そんなことを考えていると、先日亡くなった元プロ野球監督の生前の指導の在り方が、そんな寛容性の無い白黒の付け方に一つのアンチテーゼを投げ掛けているようにも見えてくる。
漠然と感じていた「意志」と「責任」の関係についてのもやもやとした思いは何処から来るのか。悪に基づく行動をすることは罪であると考えることは当然と感じる時、その「当り前」という感覚は何に由来するものなのか。かつてハンナ・アーレントを読んだ時、彼女の展開する論理の明快さ故にそこで定義された「意思」と「責任」という概念に納得したこともあったけれど、改めて問い直して見ると「意志」という存在はやはり極めて曖昧だ。そこにアーレントが導入した「自由」という文脈を持ち込んだとしても、それは自由という言葉の持ち得る曖昧さに問題を転嫁しただけ。それ故、会社の中間管理職が部下に仕事をさせることとナチスの下級兵士が非人道的な行為をすることとに構図としての差異はなく、命じる側の「責任」と命じられる側の「意思」の問題は単なる能動と受動の関係に切り分けることが難しい。横綱のかわいがりと暴力の線引きが難しいのも根源的には同じ問題であるように思える。
『だがそのように思えてしまうのは、それまで自分が意思と行為あるいは意思と選択の間にぼんやりと想定していた関係を、意識されないものと意識されるものとの関係にも投影してしまうからである』―『第5章 意思と選択 4意思と選択のの違いとは何か?』
この本を読み始めた時に、まさかそんな事を考えることになるとは少しも思っていなかった。しかし読み進めて行くと「中動態」を巡る議論とはまさに現代社会が抱えている「責任の在り処」という問題に直結した議論であることに気づく。議論は何処までも学術的に展開する。豊富な参照文献とその丁寧な解釈を基に。メディアに登場する人々のようなヒステリックな申し立てとはかけ離れている。それでいて、古典ギリシャ語の古い文法書の読みから失われた言葉の文脈を読み解くくだりなどは、古代の言語を読み解く者を無意識のうちに規制している解釈者自身の扱う言語の特徴にも踏み込み、失われた言語の考古学的問題に中立的な立場が存在し得ない事を解き明かす。それだけで既に下手な推理小説よりも刺激的だ。そして言語をそこまで解きほぐした上で「中動態」という「態」の存在とその意味を問い直し、徐々に人間の「意思」というものを巡る哲学的な課題へと移行する。
プラトンからアリストテレスへ至る「行為」に伴う意思の捉え方の変遷と、中動態が本来意味していたことが失われていく過程の言語学的論証に基づく比較。そしてスピノザのヘブライ語文法書とエチカに記されている中動態的思考についての再解釈。その一連の展開自体がとてつもなく刺激的だ。だがそれ故に胸の奥に巣食う違和感の存在を告発されたような思いも強くなる。悪と善の対立を絶対的な倫理の軸とする現代人には見えにくい別の倫理軸を著者は「徳」と「悪徳」という軸として再定義し、そこに中動態的精神の根源を見る。例えば他人を殴るという行為にも神の意志を見出すスピノザの哲学は、殴るという行為を常に「悪」とする現代人には理解し難い。しかし殴るという行為が「徳」に基づくものか「悪徳」に基づくものかという軸で問い直すことが可能であるかと問われれば、ことは理解し易くなる。そう理解できればスピノザが「怒りに駆られて」為された「殴る」という行為を「受動態」で表現し、そうでない場合に「中動態」で表現することの論理は朧気ながらに見えてくる。すなわち神の意志の発露である徳に基づく行為は、行為者の意志というよりは神の意志に基づく行為であり、形式的には受動態にも見える中動態となる。いずれにせよ、どちらの殴るという行為にも「能動態」という表現がないことに衝撃にも似た感慨は覚えるのだが。
当然、これだけの文献、言語に通じていないものに、たった一度の読書で全てが理解出来る筈もないが、本書は間違いなく今年最も刺激的で知的好奇心を呼び覚ます本であったことは確かである。