紙の本
自分自身を見つめる
2017/08/17 06:44
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
小説家色川武大が、ギャンブラー阿佐田哲也を冷めた眼で眺めているのが印象的でした。自らの過去との決別が伝わってきました。
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これは色川武大名義だが、形式としてはもはや博打打ち或いは麻雀小説家の阿佐田哲也でもなく、或いは実直な小説家の色川武大でもない、
誰でもないような、敢えて言えばもうすっかり隠居してしまって昔の自分を第三者の目線で見守る視点で書かれた小説。
麻雀放浪記もそうであったように実際どこから本当でどこまで小説なのか分からない。
「奴」こと阿佐田哲也が麻雀新選組なるタレント集団をプロデュースしたのは事実だが、その話とクロスするいつもの博打小説のパートは、やっぱり小説なのだろうと思う。
内容はあっちらこっちら行ってる小説だが、もはや売ることを目的に書かれたような本ではないので、素直に阿佐田哲也らしさに思いを馳せればいいと思う。
最初に本当の博打打ちとは何なのかを説いている。
麻雀放浪記なんてものを書いたために、世間では博打打ちとは麻雀を打って日銭を稼いだりしているようだと思われるが、そんな博打打ちはいない。
麻雀は時間が掛かり過ぎるからだ、と。
じゃあなんで麻雀放浪記では麻雀を打っているのか。それはもちろん分かりやすいからだ、と。
要は阿佐田哲也の「ネタばらし」をしているわけだ。
当時の阿佐田哲也に対する熱を私は知らないが、世間でもてはやされているような人物では無さそうだ。
最後のオチでも同様に世間の誤解を解いている。
阿佐田哲也自体は何も行動を起こさない。
釣り糸を垂らして海をただじっと眺めているのが本当なのだと。
タクシー運転手に、麻雀放浪記を読んだと言われ、博打で身を滅ぼしたことを告白され、何も気の利いた返事が出来なかったというエピソードに、ただのおっさんらしさを感じた。