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p80 〜合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ「効果」である〜。
合成と分解の平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調整することができる。〜サスティナブル(〜)とは、常に動的な状態のことである。
p260 〜私たちの生命を構成している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、例外なく絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にある〜私たちが食べ続けなければならない理由は、この流れを止めないため〜この分子の流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互に関係性を保っている〜。
p261 分子は環境からやってきて、いっとき、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。〜その流れ自体が「生きている」ということなのである。
p262 「生命とは動的平衡にあるシステムである」〜。〜生命というシステムは、〜つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。〜サスティナブルなものは常に動いている。
#社会や企業、事業にも当てはまる、非常に示唆に富む視点。
p269 太母は、この鯨に会いにきていたのだ。海で最も大きな生き物と、陸で最も大きな生き物が、ほんの100ヤードの距離で向かい合っている。そして間違いなく、意思を通じあわせている。
p282 渦巻きは、おそらく生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのものなのだ。〜私たちが線形性から非線形性に回帰し、「流れ」の中に回帰していく存在であることを自覚せずにはいられない。
p288 〜生命とは〜「容れ物」ではではなく、容れ物自体が流れゆく動的な存在だからである。多摩川を多摩川と呼ぶのは、〜絶えず流れゆく水の流れそのものだからである。
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生命とは何か。
これまでずっと不思議だと思い続けてきた。
受験生の頃、記憶は苦手だと思いつつ、生物は得意だった。
好きこそものの上手なれ、というやつかもしれない。
最近、命は、水の渦巻きのようなものというイメージが繰り返し頭の中に浮かんできていた。
この本にも、渦巻きが生命のイメージという記載があり、驚いた。
常に移ろい、実態はと尋ねると、どこにもその本質は見当たらない。
その割に、あたかも続いてあり続けているように、傷痕は傷痕のまま残り続け、シミシワが出来てくる。
物質として入れ替わるものなら、常に新品に生まれ変わればよいものを、何故か継続しているかのような外観に入れ替わる。
尽きせぬ不思議を感じる対象を、著者も同じように捉えていると感じた。
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「生物と無生物のあいだ」に引き続いて読了。
生物とは何か?という問いに、俯瞰的にかつ非専門家にも非常にわかりやすく書かれた良書です。
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人間の体をシンプルに機械的なシステムとみなしてはいけない。
ヒアルロン酸をとったところで、あまり意味はない。完全に分解して、栄養を作り直すからだ。
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医師のオススメ本として冬休みから読み始めてたらあっという間に新型コロナウイルスで世界が大変なことになってタイムリーな読書となった。ウイルスは分解と合成を繰り返して私たち生物にサスティナブルに生存していく。読んで後悔しない大変秀逸な一冊。
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生命とは何か、考え方の基礎から
揺るがす本。
新型コロナで、社会が迷走中だが
こういう生命観を持つと少し、対策も変わってきそう。
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動的平衡の概念が生命感のパラダイムシフトと謳われているが一理ある。生き物を複雑な機械仕掛け装置の延長とイメージする価値観は根強く、安易にサプリに頼ったり、遺伝子を操作することに抵抗を感じなかったり、脳を模倣してAIをプログラムで実現できると考えたり・・
分解を先行させ、合成を伴うことでエントロピー増大に逆行しているモデルは非常に面白い
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人間を取り巻く物質は全て平衡状態にあるため、記憶とは、脳のどこかにビデオテープのように古い順に並んでいるものではなく、「想起した瞬間に作り出されるもの」である。記憶を物質的に保管しておくことは不可能である。記憶があるのは、細胞の外側、神経回路にある。
年を取ると何故一年が短く感じる?→タンパク質の新陳代謝速度が、体内時計の秒針。これは年を取るとゆっくりになるため、「半年が経ったなぁ」ぐらいの思いのときに、すでに「1年が」経っている。実際の時間の経過に、自分の体内の回転速度が追い付いていないからだ。
私たちは、無意識のうちに世界にバイアスをかけながら見ている。パターン化やデフォルメ化をしており、これが錯覚を引き起こす。世界を図式化し、単純化することが生き残るうえで有利だったからである。これは今の現実社会でもそうだ。
思い込みや錯覚を防ぐには、世界の複雑さを学ぶことだ。これによりわれわれはイマジネーションを抱き、自由になれるのだ。
消化管や子宮は、厳密には身体の「外部」である。口という穴からお尻の穴まで一本の空洞になっている人間は、いわばチューブ状のミミズと似た生き物である。口から取り込まれたタンパク質は、消化管でばらばらの存在に分解され、アミノ酸になり、そこで初めて体内に吸収される。食べ物が保持している情報は、消化管で区別がつかなくなるほど、完膚なきまで分解される。そのため、「コラーゲンを食べればお肌にいい」といった食品機能のうたい文句は、嘘の場合が多い。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
現代の人間にとっては、普通の食生活をしていれば、必要な栄養素を摂取しきることができる。
サプリメント等で過剰摂取をしてしまうほうが危ない。
食の安全・安心をめぐる問題は、消費者の「1円でも安くあれ」の精神が、コストダウンのために行われるあらゆるプロセスを無視し、見えなくしたことにある。食品をまつわる加工方法、保存料、合成着色料の配合の問題などを可視化することは、食品自体のコストを上げるものの、安全のためには必要不可欠なのだ。
生命は機械のように、各部品の総和ではない。
ES細胞...細胞は原初の段階ではどの器官になるかは決定していない。この「何物にもなれる」状態で分化をやめ、
増殖だけを繰り返し、かつ一時停止した分化を再度進めてくれるスーパー細胞が「ES細胞」である。
iPS細胞は、分化が進行してしまった後からでも、遺伝子操作で「何物にもなれる」状態に戻すことが可能となった細胞。
プリオン...ウイルスよりも小さい、未知の病原体。いまだ解明はなされていない。
ミトコンドリア、葉緑体は、人間ではない別の生物に由来するもの。それは、真核生物がミトコンドリアを体内に取り込み、共生関係を築きあげることで、より高度な生物へと進化し始めたから。ミトコンドリアDNAは母から子に全てが受け継がれるため、ミトコンドリアをたどれば母系の先祖の歴史を紐解くことができる(もちろん、途中で突然変異することもある)。
生命とは、「可変的でありながら永続的なシステム」である。
私たちの生命を構築している分子は、プラモデルのような静的なパーツではなく、絶え間ない分解と再構成のダイナミズムの中にある。個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように見えるが、ミクロのレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子の緩い「澱み」にすぎない。
生命現象とは、構造ではなく流れの「効果」なのだ。
こうした現象から「持続可能性」を読み解くと、直線性から循環性へ、機械論から動的平衡へ回帰していくことこそが、
生命と自然のありかたであることを自覚せずにはいられない。
オートファジー:自食作用。定常的な細胞内分解システム。生物は身体を動的平衡に保つために、作られるよりも多くのものを分解している。この分解>再生の関係性において、生命は「自身の寿命を短くしながら、動的な流れの中で坂を上り続ける存在」たりうるのだ。
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「歳をとるとなぜ時間が経つのが早く感じるのか?」とか素朴な疑問を生物学的に解説する前半が面白かった。
途中から数式とか出てきてよくわからず。もう少し理解できればもっと面白かったかも。
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分子生物学的な視点から生物とは何かという考察が平易に表現されており、筆者がエッセイや解説書を数多く手掛けているのも頷ける。
本書のテーマである「動的平衡」に関してはやや繰り返しも多く、好き嫌いが分かれるかもしれない。
動的平衡とは決してその場にとどまっているのではなく、合成と分解が不均衡に生じることで生命の坂を登っていく生命のあり方であるというのはとても面白い視点だ。
記憶とは「想起した瞬間に作り出されている何ものか」とあり、記憶がニューロンの可塑性に保存されているという概念を理解するのに役に立った。
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歳をとると時間が経つのが早く感じるのは、
“それまで生きてきた時間に対して実際の時間の比率が小さくなるから”
という説をよく聞くが、筆者の説は
“新陳代謝(タンパク質の分解と合成)の速さが体内時計の秒針であり、それは歳をとると遅くなるので時間をゆっくり感じるようになり、実際の時間が早く過ぎるように感じる”
というもの。
…そういえば、そもそも歳をとると時間が経つのが早く感じるか、実はピンとこない。
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動的平衡
分子生物学の雄である福岡伸一先生の代表的著作。
動的平衡の基本的なコンセプトは、P80の文章を引用するとわかりやすい。
「合成と分解の動的な平衡状態が、生きているということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ効果である。合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる。これはまさに生きているということと同義である。サステイナブルとは常に動的な状態である。」
序盤は、身近な例から分子生物学を読み解いていく。我々の身体は、タンパク質に刻まれた無数の情報の集積体である。そして、絶えずその情報を他者の情報と折衝し、スクラップ&ビルドしている。消化とは、他者の情報を吸収できる状態まで分解することである。分解された情報は、もともと我々の身体にあったタンパク質と取って代わられる。アミノ酸は、吸収可能な段階まで分解されたタンパク質である。
生物学について、情報という言葉を使っての記載は、珍しく、私にとっては新鮮であった。先日、ジョジョシリーズの岸部露伴のアニメを見たが、まさしくあそこに描かれているように、我々は情報の集積体なのである。
さらに、上記の論を推し進めると、アミノ酸となるまでは、いくら我々の身体に入っていようと、それは身体にとっては外部である。その点で言えば、口から肛門までの長い長い管は、厳密には身体の外部である。文中にも登場する人間をちくわに模した表現は、分子生物学からの示唆では、正しい。
しかしながら、そうすると、我々にとって、他者との境界線はどんどん後退していく。つまり、自他の境界線は限りなく淡くなってくるのである。さらに言えば、アミノ酸となった情報も、身体内部の情報と交換されるために、我々の身体は1秒たりとも静的な状態とはならない。そう考えると、自己とはなんなのかという哲学的な問いに近づいていく。西田幾多郎の主客未分の概念の如く、我々と他者、外部を分節するものは厳密にはないのかもしれない。我々は常に、西田のいうところの純粋経験の渦中にあるということは言い過ぎではないのであろう。
ここまで読むと、動的平衡という概念が、身体を機械論的に理解するデカルトの思想に対するアンチテーゼであることがわかるだろう。生命とは効果であり、動的な平衡にささえられた状態である。いくら分解された機械を組み合わせたところで生命を1から作り出すことはできないのかもしれない。現代では、臓器移植は当然と考えられており、臓器移植が多くの人を救っているのは間違いのない事実である。しかしながら、臓器移植の例だけをとり、生命を機械論的に理解することはミスリードであると福岡先生は警鐘をならす。
動的平衡のコンセプトを理解していくにつれ、直近読んでいた知識創造経営にも通じるものがあると感じた。知識創造経営もまた、暗黙知と呼ばれる言語化(分節化)以前の知の存在に言及している。人間と人間の間で言語を介さずやり取りされる暗黙知は、我々が日々操作している言語による知の背景には広大な領域が広がっていることを気づかせて���れるのである。動的平衡は、知や情報に関する機械論的な理解ではなく、合成と分解のバランスの上に成り立つ生命のダイナミズムに言及している。つまり、我々が可視化し、分節化できる領域とは別に、その背景である情報と情報の間―分解と合成のせめぎあいの先―に生命が宿ると述べているのである。双方において、「間」に潜む重要性を述べている点で、二つの概念は近いように感じる。
「間」という考え方では、文化人類学の名著である『贈与論』も引かざるを得ない。私が贈与論をはじめとする文化人類学から受け取ったメッセージは、人間は交換する「モノ」よりも交換によって発生する「コネクションー関係性」を重要視しているというものである。このキーコンセプトもまた、やりとりするコンテンツではなく、やり取りをするというその「間」、交換というダイナミズムを評価するものである。そうした点で、動的平衡―暗黙知―交換(暗黙知と交換という組み合わせはすでにマイケル・ポランニーによって指摘されている通りであるが)から何か数珠つなぎのような関連性(偶然の一致)を見出してしまう欲望を抑えることができない。
ここまで読み返して恐ろしいことに気づいてしまったのであるが、「人間」という感じは人の間と書く。
人間とは、人と人の間に成り立つ動的平衡状態であることを、人間という言葉を運用し始めた時点で知っていたのかと思うと、これは鳥肌ものである。
なお、8章の『エレファントム』の記載も非常にポエティックで美しい。本書は第8章にキーコンセプトが凝縮されているため、時間のない方は8章だけでも読むことお勧めする。
動的平衡について考えていると、いろいろなことが思い浮かべられてしまう。
企業のM&Aについてはどうなのだろうか。企業のM&Aはでは、シナジーというものが重要視される。シナジーとはまさしく、1+1が2以上の何かであるという概念そのものである。明確な目的を持ち存在している企業を生命体に模して考えることに限界はあることを承知の上でこそあるが、企業生命体もまた、情報の絶えざる分解と合成の上に成り立っている。企業もまたM&Aによって事業を吸収することもあるが、それ以外にも、積極的に外部と交渉することで、知識創造経営のように、情報を消化し、知識として再利用する繰り返しなのである。これらは正の側面の話であるが、負の側面も本書からのアナロジーを導き出すことができる。本書の中盤では、病原体の「種の壁」について言及されている。いわゆる病原体は、種の壁があるため、動物から人間にはうつらない(厳密には、ヒト以外の種からはうつらない)。しかしながら、もちろん、人間から人間には映るのであるが、カニバリズムに対する忌避感は、この同種間の感染リスクからくるものであるのではないかと福岡先生は指摘する。M&Aも、実質的にはカニバリズムであろうと思うと、このような負の側面もあるのではないかと邪推してしまう。
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合成よりも分解が、ほんの少しだけ上回る。
それによって、僕たちという命は前へと転がり始めるのだ。
時間が経つほど、澱みが増していく一方のような、この「生きる」ということは、ぼくたちが目を奪われがちな、手に入れることよりも反対に、手放すということが着実に行われていくことによって、どうにかその活動の向かうべきところを、進むための理由を、生きていくという意味を、持ち合わせているみたいだ。
止まらないために、止まるということが許されていないために、生命というもののそもそもの存在のために、生きるということの定義として、止まらない人間というシステムがある。存在するがために、その瞬間から増大していく乱雑さと出来る限りの折り合いをつけながら、本来なら進めないはずの道を、自然ではない行方を進むために、産み落とされた生命という仕組みは、進み続けること、走り続けること、生まれ、そして死ぬところまで、全てが、エネルギーというバランスの中で、はじまり、そして終わり、でもその全てがひっくるめて、全体という中の大きな流れの一部であり、そこには境がなく、明確な線が引かれるものではない。
流れだ。
流れというものの中で、生命というものが一瞬一瞬のまぼろしみたいな輪郭を浮かび上がらせる。
そう思えば、少しだけ、気持ちが落ち着くんじゃないか。
どんなことをしたって、それは流れというものの一部でしかなく、どんなふうにいたって、流れがぼくを飲み込んでくれる。
きっと、ぼくという気持ちが間違っている。
ぼくというものが流れなんだ。
日常に湧き溢れてくる乱雑さ。
人間という社会に居るしかなく、囲まれるしかない遣る瀬無さ。
そんなものたちに掻き乱される必要なんて、ひとつもない。
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分子生物学の研究でおなじみの、福岡伸一先生による『動的平衡』の概念に関する解説本。『最後の講義』(NHK)での大学生向けの『動的平衡』の解説が素晴らしく、気になって本を読んでみようと思ったのが動機である。ちなみに『令和の寺子屋』(同)でも小学生向けに「生きるとはどういうことか」をテーマに講義しており、大学生向け、小学生向けと、同テーマをレベル別に言葉を変えて説明されており、さすがと唸ったものである。
さて、本題に戻るが本の感想。いきなり研究者の起業のエピソードから入る本書。どうやって動的平衡まで持っていくのかと思っていたら見事にそこへ繋がっていく。昨今のトンデモ健康志向、一時世の中を混乱に陥れた狂牛病の問題、食の過程に投資をする重要性、細菌、ウイルスとの闘い。研究者としての研究における紆余曲折も書きながら、一般に知られている問題の原因や、誤解などを説いている。それは『動的平衡』という概念に到達する。
後半は少し専門的で、私のような初学者にとっては難解であったが、途中の諸所の解説は例えが秀逸で想像しやすく、非常に読み易かった。
「私たちのたべているものは、私になり、明日の私は昨日の私ではない」。
生命とは、絶妙なバランスのもとに成り立っており、やはり人間の叡智を駆使しても、太刀打ちできるものではないかもしれない。
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人間は口から肛門までのちくわの様なもので、よって胃袋は外界
種の壁が病原体から体を護っている
身体は分解されてから合成される
全てのものは平衡に広がっており、広がりが秩序の乱れを産むので、分解=廃棄する作業が必要
分子から細菌、ウイルス、DNAまでの機能を調べることで生命は何なのか?を読み解いている。
しかし私レベルではトンチンカン。
とりあえず読みました感全開でした。