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「雨宿りですよ。すんごい雨でしょう?」
深夜、予告なく家に押しかけてきた言い訳がこれだ。
「あのさ、葉月。俺はもう寝るところだったし、実際半分くらい寝てるようなものなんだけど」
蛹は恐らく眠いのだろう、緩慢な身振りで葉月を家に上げ、居間に通した。葉月は仕事帰りらしく、スーツ姿だった。傘は持っておらず、頭のてっぺんからつま先までずぶ濡れだった。
葉月は、蛹に借りたタオルで髪を拭きながら、ふと、テーブルの上の本に目をとめた。無造作に投げ出されている、分厚い新書。
「蛹さん、嘘ばっかり。ちょうど今その本を読み終えたところでしょう。で、コーヒーカップを片づけて、そろそろ寝ようか、みたいな。あれ? やっぱり寝るとこですね、それ」
「だから、寝るとこだって」
「もう一杯くらい付き合ってくださいよ。この格好じゃあ、帰れないでしょう」
葉月は蛹にTシャツとジャージを借りると、無謀にもスーツとシャツをまとめて洗濯機に放り込み、脱水を試みた。それから、台所で湯を沸かし、コーヒーを二人分淹れ、居間に戻ってきた。
「で、どうでした? その本」
蛹はコーヒーを一口飲み、眠気を払うように小さく頭を振った。
「感情論に走りすぎ、かなあ」
外は相変わらずどしゃ降りだ。トタン屋根を雨が強く打っている。そのうえ洗面所では洗濯機が回っている。こんなうるさい夜はそうない、と蛹は思う。思いながら、頭の別のところで、本の内容を整理する。
「自然のままにしておくべきだという考えは――つまり遺伝子操作や人工妊娠中絶や臓器移植や帝王切開をNGだという発想は――この本の中においては、そういう技術が出てくる前の宗教的倫理に根拠を求めている。それが当然だとでもいうように。滑稽じゃないか」
「言われてみれば、まあ、そりゃ当時考えられる範囲外のことですからNGだって話ですね」
「そもそも宗教的倫理観に照らしてNGだという発想は、宗教的倫理観には問題がない前提だろう」
それを聞いて、葉月は思わず噴き出した。
「蛹さんは、それが気に食わないんですね」
納得したというように、満足げにコーヒーを飲む。
「感情論と一緒だよ。君がよく言う、『なんかキモイ』と同じだ」
「私、そんなこと言いますっけ」
「言うよ。こないだも、車に轢かれたカエルの切れ端を見て言ってたじゃないか。うちの前で」
「それとこれ、同じ問題にしちゃいます? あ、しちゃうのか……」
この人は、と。葉月は、本をめくり、ざっと見出しだけを斜め読みして、ふとあるところで目をとめた。
「訳者の人、『動的平衡』の人ですね」
「うん。だから買ってみた」
「生命は独立したものでなく、環境の一部として現れる『現象』、みたいな。そういう視点は面白かったですけど」
「その源流になるような考え方を求めていたけれど、この本ではそういう風には話が広がっていないね。序盤の雰囲気で、そっちに広げるのかと思ったんだけど、途中で違う方向に行ってしまった」
「心底残念そうですが」
「俺が期待していたことは書かれていなかったというだけだよ。期待の外側を���せてくれたという点では、面白かった。生命倫理に関する対立の問題点を、はっきり見せてくれる本ではあったし。技術がどんどん進んでいくのを止めようとするものは、古い倫理観だけだった、っていう」
葉月は、その蛹の言葉について、少し考えてみた。
「結局のところ、どこまでを生命の個体として扱うか、という問題ですよね、突き詰めていけば。こういう生命科学の問題って、生命とそうでないものとの境目の話ばかり。脳死と臓器移植の問題も、中絶の問題も、この本の主題でもある、生物の一部を部品として扱えるかどうかという問題も」
「そうだよ。でも、そもそも、どこまでが生命かなんて、分からないだろ。境目なんて無いんだよ、きっと。ニック・レーンの『生命、エネルギー、進化』にも書かれていた気がするけれど、生命とそうでないものの境目は、はっきりと線を引けるものではなくて、グラデーションを描くように、徐々に変化するものなのかもしれない」
「なら、どうすればいいんですか」
「どうもしないよ。やりたいようになればいいだろ」
「科学や医療によって交換可能な部品とするならそれでもいい、と。まあ、個人的にはそれで助かる人もいるし、とは思いますが」
「何が問題だろう?」
「そうして、できるだけのことを交換可能な部品にしても、何か、残るものがあるなら、いいのでは、と?」
「あると思うよ、俺は」
「ゴーストみたいなものが?」
「攻殻機動隊はまあ、極端な未来予想図だけど、だいたい言わんとしてることは近い。もっとも、それはきっと普遍的なものではなくて、部品を交換することによって変化していくものかもしれない。あとはどこまでを個とするかという問題だろうね。君の言うとおり」
雨が少し弱まり、外は静かになっていた。いつの間にか、洗濯機も止まっている。
「俺はそろそろ寝るよ。君も、今のうちに帰った方がいい」
「そうします。今なら、終電に間に合いますし」
そうして、その騒々しい夜は終わった。