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●ともあれ縄文人は「よくもの言う」自然と対峙しながら、生活圏にある川や野原、山、谷、沢、浜、岬、さらには巨木や岩などにそれぞれ名前をつけていった。それは、「そうした自然を自分たちの息がかかった味方に引きずり込んでいく」ことだった。と小林氏は言う。ソトの世界に存在するよそよそしい場所も、名前をつける(あるいは、名前を知る)ことで、たちまち関係を取り結んで自分たち人間側の世界に所属させることができる。名づけというのは、所有すること、占有することでもあるのだ。(略)太古、人々は場所に名前という言葉を貼りつけることで、人知の及ばない力をもつ土地の精霊をその名で縛って言向け和し、ハラの場所一つひとつを自分たちの生活空間にマッピングしていった。西田氏の「定住革命」論にからめるならば、土地への名づけは定住生活を成り立たせるために必要な観念操作だった、とも言えそうだ。
●おそらく常陸地方に暮らしていた縄文人にとって、谷間の低湿地を表す「ヤト」という地名は、そのまま、その土地に宿る精霊の名前でもあった。そして、その「ヤト」という地名=神名は、精霊のカミとしての霊力や性格を背負うものだったのではあるまいか。よく「名は体を表す」と言われるが、「草木よくもの言う」時代にあっては、名前(目に見えない世界)と実体(目に見える世界)はぴったり一致していて、まさに名実一体。目の前に広がる大地につけられた地名は、ムラの人々が代々カミなる自然と真剣勝負の交渉をして獲得してきた認識のすべてを背負ったものだったに違いない。