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投稿者:とんきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
「間違えても、まぁいいか」認知症の話しだが、誰にでも当てはまるこの言葉が心に響いた。てへぺろの輪が、日本中、世界中に広がってほしい。久しぶりにいい本に出会った気がする。ありがとう。
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投稿者:どん。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
美味しそうなメニューやはち切れんばかり笑顔で働く方々のお顔が容易に想像できる。
行ってみたい。
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読みやすいし、なんかほっこりする
ただ、実際介護をされている家族や介護士さんにとってはやっぱり大変なことで・・・
一部分だけのほっこり感なんだろう
介護してる母は「もう一度子育てしてるみたいなものよw面白いw」とは言ってるけど、体力的にも大変だろう・・・
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注文を間違えるというコストと思われるところを
少しワクワクというメリットに変えてしまうところが良い。
あとは、筆者の巻き込んでプロジェクトを進めていくバイタリティーもすごい。
本の構成もおもしろい。
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いい本でした。
「注文をまちがえる料理店」のロゴマークの「てへぺろ」は、「あ、間違えちゃった、ごめんごめん」というお気楽な気持ちを表しているのではない。
「間違えることは、つらいこと」
未熟だから間違えるのではない、そうではなくて間違えてしまうことのせつなさを感じながらの「てへぺろ」。そのせつなさに寄り添うデリカシーが、著者でありこの料理店の発起人である小国さんにあったからこそ、このプロジェクトは成功したのでしょう。
終盤で語られる小国さんのこれからの展望が形になっていくのを楽しみに応援したいです。
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間違えてもいいというコンセプトはもちろん、異業種のメンバー同士のコラボが面白い!
ただ、当事者の方の「間違えるのはつらいこと」は忘れてはいけないなと思う。
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ニュース番組の特集で見て、気になっていたので読みました。
前半は、この料理店を作った人たち、働いた人たち、お客さんとしてきた人たちの、それぞれに感じたことやエピソード。後半は、仕掛け人である著者がどんなことを考えて、そしてどういう人たちと一緒にこの料理店を作ったのかの紹介でした。
認知症の人であったり、障害を持った人であったり、高齢の人であったり。そういった人たちに対して、社会が少し”寛容”になるということ。「認知症」「高齢者」というようなグルーピングでとらえるのではなく、「○○さん」という個人でとらえるということ。そんな社会は、社会全体にとって生きやすい・過ごしやすいものになるんじゃないかなぁと感じました。
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認知症の状態にある方々がホールスタッフを務めるレストラン「注文をまちがえる料理店」の発起人、小国さんによる著書。「注文をまちがえる料理店」の着想から仲間集め、準備から当日の運営までを振り返り、またお客さんの声なども紹介している。
不謹慎だという周囲の声も当然受けながら、それでも「不謹慎を超えたところにいく」ことを志す小国さんの想いに共感した。
「まちがい」に対し寛容なほほえみが向けられる場や空気が広がることは素晴らしいと思う。それは決して認知症という病気を、症状を、笑いの対象としているものとは異なるのだろうと感じる。
また、小国さんがこのプロジェクトにプライベートで取り組んでいることにも驚いた。
やりたい仕事を探している身の自分としては、「仕事以外にもやりたいことをできる機会、場所、縁はたくさんある」という気づきに、少し背中を押してもらえた気がしている。
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認知症の方がホールを担当し、「間違えても許してね」というコンセプトで期間限定で開店した飲食店の物語。
祖母が認知症ですし、身内に認知症を患っていた方が何人もいます。
身近に接していれば、笑ってすませられないこともありますし、朗らかに接する事ができなかったりもします。
でもこの本を読んで、「良いな」と思いました。
間違っても、忘れても、「まあいいか」と容認できる場所があるというのは素敵です。
それにやはり人は、働いたり、誰かの役に立ちたいと願うもの。
認知症になれば仕事は無理。人の役にも立てない。と決めつけるのではなく、こうして活躍できる場があれば、本人も嬉しかったり楽しかったり、やりがいを感じたりできるのではないでしょうか。
我が家の祖母は、デイサービスで洗濯物を畳んだり、掃除をしたりして職員さんを手伝う事で、達成感というのか、満足感を得ているようです。
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あ、間違った。
タイトルの印象から思わず『宮沢賢治』関連の本かと思って借りたが、賢治は一切出て来ず。(笑
内容は
認知症の人に働く場を与えたくて開いたレストランでのエピソード集。「だから、注文間違えちゃうこともあるけど大目にみてね♪」がタイトルの由来。
以前『世界の果てまでイッテQ』の番組内で、
女優業にも手を出し始めたイモトに内村さんが
「イモト!お前の居場所はここだからっ♪カン違いすんなよ」と一喝したシーンを思い出した。
あの時
(イモト、居場所があっていいよなぁ~)なんて羨ましく思ったものだが、
認知症の人達にとっても、どれだけ嬉しい事であっただろうか。
働く場を与えられて、お給料をもらって♪
広い心と温かい目をもって、訪れてくれるお客様も素敵♪
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2018年52冊目。
認知症の方々がスタッフを務めるカフェの物語。その店では、注文したものとは違う料理が運ばれてくることが少なくない。ただ、お客さんはみんなそれを分かったうえでやってくる。
この取り組みは、二つの面からとても面白いと感じた。
一つは、認知症の方々への効果。どんな状況に置かれても、人は役割を持つことで自己効力感を保つことがとても大切だと思う。支援される人たちは、周囲に「ありがとう」を言う機会が多い。それが次第に、「ごめんなさい」に変わっていく。彼ら/彼女らが「ありがとう」を言われる機会は少ない。この一方向的な関係は健全ではないと思う。だから、役割を持ち、人から「ありがとう」を言われる機会があり、自分の存在意義を感じられる場を増やす取り組みの意義は大きいと思った。詳しくはわからないけど、この自己効力感の低下は、認知症の悪化とも関係があるのでは、とすら思う。
もう一つは、お客さん側の変化。注文が間違えられることを覚悟して来るどころか、間違えて運んで来られることに期待さえしたり、不思議な効用が生まれている。「まあ、いっか」の精神を世の中に育むことは、認知症という分野だけに限らず、あらゆる課題に対する寛容さを醸成することにつながると思う。『赤ちゃんにきびしい国で、赤ちゃんが増えるはずがない。』(三輪舎)を読んでも、周囲の寛容さはとても大切だと感じていた。
一方で、この企画は不謹慎だと思われることも少なくないらしい。認知症の人たちをネタにしているのではないか。実は僕自分も、この企画名を知ったときに、最初は少し違和感も感じていた。本人たちは決して「間違える」ことに対して開き直れているわけではなく、やっぱり間違えたくないし、間違えたら恥ずかしいという気持ちも持っている。このことは見逃してはいけないと思う。
でも、それを考慮したうえでも、間違えることへの寛容さを育んでいくことは大事だと思う。間違えること自体は致命的ではないし、間違えないこと自体はそんなに重要ではない。周囲の理解や助けも手伝いながらも、その人の役割が遂行されて、周囲が喜ぶ結果になっているのであれば、間違えること自体は問題にならない。誰だって欠点は持っていて、完璧になる必要はない。枝葉の欠点に目を向ける以上に、全体で支え合って成り立てばいい。
それにしても、謝礼を受け取ったことや、この料理店で働いたという事実すらも忘れていってしまうという現状には、正直認知症の現実を思い知らされた。高齢者の数がますます増え、85歳以上の人の4人に1人は認知症という調べもあるなか、認知症の方と接する機会はそんなに特別なことではなくなっていく。そこに向き合ううえでも、考えるきっかけを与えてくれる一冊だと思う。
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忘れちゃったけど
まちがえちゃったけど
まあいいか
まちがえることを受け入れて
まちがえることを一緒に楽しむ
「認知症を抱える人」が接客をする
不思議であたたかいレストランのものがたり (表紙より)
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「ま、いっか」という寛容さ。大らかさを改めて考える本。
所々涙したり、心に刺さったりしながらあっという間読めます。クラウドファンディングという仕組み、上手く使えると何でもチャレンジできるんだろうなー、と前向きになれました。
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現代社会は、社会の問題点を解決すること自体が価値あると思う。例えば本作で対象とした認知症の方である。彼らを得体の知れない人々と判断して封じ込め作戦をした過去から抜け出し、認知症の方でもできることをサポートしつつ社会に組み込んでいく、これ自体が価値があり、今後目指していくべき社会なのではと思う。
他の社会問題として、障害者、高齢者、性的マイノリティー、ほか沢山ある。これからはそれらの問題に注目しつつ、いかにしてその問題を解決しつつ、社会活動をするべきかをよく考えていきたい。
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餅は餅やというけれど、この料理店もテレビ番組のディレクターというエンタメのプロの方が仕掛け人となって、さまざまな分野のプロが「非利益」で情熱をかけたプロジェクトであり、そうゆう努力と葛藤の末の一歩は、世界をひとつ変えるんだなっと思った。ひとつの分野に置けるプロ・職人気質の日本という国が、平成の最後頃になって、「〇〇×〇〇」といった、コラボレーションによるシナジーに一目を置くようになった気がしている。
そんな小難しいことを考えた一方で、私は発達障がいの当事者でもある。どうしたって間違えを起こしてしまうことへの自己嫌悪、「てへぺろ」で生きていくことへの(それば自分なりに身につけた自己防衛だとしても)やるせなさがある。
この料理店のコンセプトの中で、間違えても大丈夫、許してもらえるという安心感は大きい一方で、間違えたくないという気持ちにも主催者の側が気づいてくれてくれた(当事者を企画に巻きこむ)という場面があり、それが大事だと思った。
ひとって本来はグラデーションで、おんなじようなことを皆抱えているはずなのに、「支援をする」となると、カテゴライズされてしまう。「障害者」とか。それは分断であって繋がりが見えにくくなってしまう。利便上の言葉が一人歩きして、わたしとあなたの、どこがどんな風に違う?どこが同じ?という本来の「ひと」という生物が見えにくくなってしまう。
そんな時、こんな料理店のように関わり方を第三者が仕掛けてくれ、コミュニケーションが取れる場を作ってもらえたら、再確認して近づくことができる。入りは「エンタメ」が最適だと思うし、でもその「間違えたくないと本人は思っているんだよ」というのを無視せずに方向性を見つけていったのが成功の秘訣だったと思う。茶化されたくないもの、困っているんだもの。そこを知って、歩みよる一歩になれる料理店なんだろうなと思った。