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最初、え?これが詩ですか?と驚いてしまい、実はなかなか読み進められなかった。
でもいったん入り込むと、これはとても不思議。すごく…おもしろい。
狸やお婆さんが出てきて、まるで昔話のような語り出す。そして突然サラリと異界へと連れられてしまう…すごく自由に、その詩の中の世界をみせられる感覚が、すごいな、こんなの読んだことない!って思わされる。
反戦的なメッセージが冒頭とラストにあるんだけど、あまりに奇妙だから、重くないし、どんな反戦歌とも違う。
それでいて、異次元の狸たちがホロリと呟く一言がぐわんと考えさせられる一言だったりして…
ずっとこのスタイルなのか、この先どんな詩集を作るのか、それとも物語を書いてしまったりして?…と、目が離せない作家さんだ!
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『モノクロームの古い写真に写る死者は大人しく、生者の目を引きつける。/我々の走馬灯の中で、並んで「そこにいる」「待つ」彼等を、頼もしく思うことさえある。』―『湯葉』
時々、詩集を買い求めることがある。大きな書店の詩歌の書棚の前に立って、著名な詩人の詩集たちの隙間に押し込まれている、薄っぺらい冊子のような詩集を買うのだ。代金を文字数で割ったらいったい幾らになるのだろうなどと独りごちながら、確たる基準も無しに詩集を選ぶ。
マーサ・ナカムラの詩集は、オンラインで購入した。そこに大した意味はない。「未明 02」に載っていた詩が気になって取り寄せたのだ。投げ出された言葉の響きが気になって。
詩の言葉にア・プリオリな意味はない。ア・ポステオリに湧き上がり共鳴し合う心象を追いかけるだけ。縦書きの言葉を追いかける度に、そう畏まって自戒しながらも、諦め悪く詩人の頭の中にあるだろう意図に思いを馳せてしまう。例えば、小池昌代の、蜂飼耳の、言葉には、持ち重りするような心象と共に、詩人の心の動きが見える。心の中まで見通しているのではない。ただ、その揺れている心持ちを感じ取り、密かな満足感を覚えるのだ。だが、マーサ・ナカムラの言葉から立ち上る意味は、霧を押し開くような手応えで実態を掴み取らせない。
マーサ・ナカムラの詩は、まるで多重露出のカラー写真を観ているかのよう。或いは荒木経惟の撮る(描く)一葉のような。乱暴な構図で、投げ込まれる色、そして抽象。当然のことながら、言葉の裏側に秘されたように見えるものには仄暗く淫靡な表象が張り付くこととなる。意図的な多重露出は計算外のニュアンスを産みはするが、案外と凡庸な価値観が透けて見えぬこともない。その危うさを、極端な擬人化と遠野物語風の語り口で、前のめりになりながらマーサ・ナカムラは転がしてゆく。
言葉の表象を敢えて裏切りながら、ナラティブに詩の言葉を紡ぐこの詩人の行く先は何処なのか。そればかりが気に掛かる。
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まるでその時代に生まれたような、それをみているような気持ちになる。
どこまでが本当なのか、幻想なのか、自分の世界も境界がなくなるような、不思議さがある。
もやっとしたり、晴れやかだったり、いくつも気分が変わる。全体的にあるのは、違和感と気持ち悪さ。そして、人間くささ。
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多分これは詩なのだろうけれど。マーサという著者名と伝統的日本イメージとの落差が効いている。佐藤さとるのコロボックルのイラストとか加古聡の天狗とか。まさこさんだったらここまでうけたかなあ。でもよかった。