紙の本
重層的な傑作
2021/07/29 23:15
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
フラナガンの父は日本軍の捕虜になり、強制労働に従事させられたという経験を持つ。しかしこの作品は父の体験をそのまま小説化したものではない。「日本兵」にさせられた朝鮮人も登場するように、あの戦争とその後を重層的に描くもので、オーストラリアもまた問い直される。語ることの困難さも含め描き出す、稀有な戦争小説となっている。
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いやー、まいったまいった。また凄い物が読んでしまったな。
読後しばらく放心。重くつらく、ほのかに煌めく。素晴らしい。
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主人公はドリゴ・エヴァンス。七十七歳、職業医師、オーストラリア人。第二次世界大戦に軍医として出征し、捕虜となるも生還して英雄となり、テレビその他で顔が売れ、今は地元の名士である。既婚、子ども二人。医師仲間の妻と不倫中。他人はどうあれ、ある時期以降の自分をドリゴは全く評価しない。戦争の英雄という役割を演じているだけだ。とっかえひっかえ女とつきあうが愛しているわけでも肉欲に駆られてのことでもない。アイデンティティ・クライシスから抜け出せないで歳をとってしまっただけだ。
きっかけは分かっている。戦争が二人の仲を裂いたのだ。婚約者のいる身で他人の妻、それも自分の叔父の妻と恋に落ちてしまった。それが叔父の知るところとなり、別れようという相手に、帰ったら結婚しようと電話で告げて出征した。戦争が終わり、帰還したドリゴは婚約者と結婚し、戦争の英雄とたたえられ、現在に至る。傍目にはめでたし、めでたしの人生だが、本人にとっては不本意の後半生だ。ではなぜ、ドリゴは約束を果たさなかったのか?
すべての小説は探偵小説であるといわれる。別に探偵が出てくるわけではない。読むことでしか解消できない疑問点をその中に含んでいるからだ。その謎を解こうと読者は本を読み続ける。そして結末に至り、そういうことだったか、と納得するのだ。だから、尻切れトンボに終わってしまう作品には不満を感じる。逆に伏線がうまく回収され、ひっかかっていた不自然さが自然なものに感じられるような作品は高く評価される。
『奥のほそ道』は、ドリゴ・エヴァンスという男の人生を、恋愛と戦争体験の二つの要素に基づいて描いている。そして、そこにはこんな立派な男がなぜ抜け殻のような後半生を送らねばならなかったのか、という謎を解くカギが隠されている。メロドラマ要素の強い恋愛悲劇も、悲惨を通り越してアパシーに陥ってしまいそうな捕虜生活を描いた部分も、それだけで充分読ませる力を持つのだが、その二つを通してドリゴを変容させたものが見えてくるように仕組まれている。
決して親切には書かれていない。最後まで読み通したらもう一度初めに戻って読み直すといい。最初あれほど読みづらかった部分が、面白いくらいすらすらと読めることに気づくはずだ。なぜなら、さして重要な人物とも思えない複数の人物のエピソードが、冒頭から何度も顔を出すが、これがカギなのだ。初読時は、その後出てこなくなるので重要視もせずに読み飛ばしてしまう。ところが、これが後で回収される伏線になっている。
あるいは、作中くどいくらいに何度も話題として取り上げられるのが、当時封切りされたばかりのヴィヴィアン・リーとロバート・テイラー共演の映画『哀愁』。有名な「オールド・ラング・ザイン」の曲を蝋燭が一本、また一本と消えていく中、映画をなぞるようにドリゴも恋人と踊る。これもカギだ。結婚を約束した女と兵士の仲を裂くのが男の出征という点がそのまま共通している。映画をよく知る読者には悲恋の暗示であることは自明である。
それだけなら、よくできた大時代的なメロドラマになってしまいそうなストーリーを基部で支えているのが、ドリゴが日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の敷設のため、強制労働を課される部分である。この部分は、もともと軍曹として従軍し、捕虜となり泰緬鉄道工事に携わった作家の父が話して聞かせた事実に基づいている。無論、多くの資料を読み、現地に足を運んで調査して得た客観的な事実に作家の主観的な想像力を働かせた虚構である。しかし、その迫力たるや生半なものではない。
ハリウッド映画でお馴染みの男ばかりが共同生活する軍隊ならではの磊落なユーモアが陰惨な強制労働を描くタッチと絶妙な均衡を保っている。もし、この男たちのくだらないといえばくだらないやり取りがなかったら、どこに救いを求めればいいのだろう。食べる物も着る物もなく、支給された褌一丁の姿で、泥濘の中を徒歩で工事現場まで歩き、ハンマーと鉄棒で岩を砕く。栄養失調で肛門が突き出た男たちは、便所までもたず糞尿を垂れ流す。あのナチスの強制収容所でさえ雨風から身を護る建物があった。ここには何もない。
日本軍の将校たちでさえ「スピードー」と呼ばれるこの命令の不条理さは理解している。ただ、彼らはそれに背くことができない。この服従の仕方はもはやカルトでしかない。自分の認識力や理解力の上に天皇という上部構造を置いて、その命令を行使することがすべてという生き方を自ら選び取る形で受容する。不都合な部分は受け入れやすい形に変形していく。まるで今でいうフェイクのように。リチャード・フラナガンの筆は、まるで今の日本を見ているような気にさせる。
そのように受け入れがたい現実を自分に強いた兵たちは、戦後においても何ら戦中と変わらない価値観で生きてゆくことができる。あれほどの犠牲を強いた泰緬鉄道を走った蒸気機関車C5631号機が靖国神社に今も保存されている。犠牲者については何も触れてはいない。戦後日本は体面上は、戦前の価値観を否定した上に今の日本を築いたことになってはいるが、戦犯の孫が戦前の価値観を称揚し、憲法改正を訴えることについて異議を唱える人の方が少数派というのが現実だ。
新聞を読まない人々によって支えられている政党が多数の支持を得ているのだから、こんな小説など読む人の数は限られているに違いない。小説は声高に正義を唱えたりはしていない。それどころか、戦争という異常事態の中で自らを失った異なる国家に属する人民の一人一人に寄り添っているとさえいえる。もちろん、主人公はドリゴなのだが、活写される人物たちの内面が読者の中で生命を得て甦り、それぞれの人生を生き始める。読む者は彼らとともにこの救いようのない現実に直面し、ふと己の置かれている現在を見つめ直す。自分を失っているのはドリゴだけでないことに。
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ブッカー賞受賞作で泰緬鉄道でおくのほそ道というタイトルに興味を惹かれて読了。
実に仔細な熱帯と人間の記述、それぞれの人生と苦悩、時間と場所が交錯する中で、あらゆるものの混沌と、対称的に挿入される俳句による一瞬の静寂。
祖父から数十年前に聞いた戦争の話が、もしかして泰緬鉄道建設と絡んでいたのではという個人的思いもあり、自分の存在について考えさせられるものであった。
訳者あとがきで紹介されているBBCのドキュメンタリーも必見である。
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『彼らはそういったことを考えていたのではない。そういうものだと知っていたのだ』
歴史上の出来事を一つの記号に集約させる。例えば、大化の改新とか、応仁の乱とか、関ヶ原の戦いとか。するとあたかもその様な結果になったのは全て必然であったという錯覚に陥る。それどころか、複雑な要素は至極単純な因果関係に収斂し数学の公式と同じような記憶の対象となってしまう。勧善懲悪。ブラック・アンド・ホワイト。それと同じように泰緬鉄道という言葉の意味するところも、二百字以内で要約可能な出来事に矮小化される。そして自分たちの世代だと、水野晴郎や高島忠夫の顔とともにあの口笛の旋律が喚起され、ウィリアム・ホールデンや早川雪洲の顔が思い浮かんでしまう。
けれども「戦場にかける橋」は余りに西部劇のようだし、「戦場のメリークリスマス」はオリジナルのガンダムのよう。どこかしら青臭い正義感や子供っぽい善悪の価値観に支配されているような気がして、クワイ河マーチや坂本龍一の音楽さえ耳障りなもののように思えたりもする。史実を語ることは容易ではないと理解しつつ、後年の価値観をべったり上塗りされたものを見せられるのは勘弁して欲しいとも思う。それは多分に自分自身の狭量さによる感情だとは認識しているけれど。
リチャード・フラナガンを読むのは「グールド魚類画帖」に続いて二冊目。自分でも意識してはいなかったが新しい翻訳が出ているのに気付きすっと惹き寄せられた。帯に泰緬鉄道にまつわる話であると書いてあったがタイトルの意味するところが気になって手に取る。はじめは一人のオーストラリア人捕虜経験者の少々人生に屈折した物語かと思わせるが、徐々にグールド魚類画帖を思い起こさせる文章が展開する。歴史は断片で語るのがよい。それ以上に適切なフォーマットは無いとも思う。
ここにあるのは価値観の破壊などという生易しいものではない。崩壊し、ばらばらになり、そして全てを手放すことを強制される巨大な力だ。価値観の喪失、その先で待ち受ける諦観。そしてそれと矛盾するような躍動感。今日一日を、日々を生きていくこと、詰まりは生への執着の圧倒。そんなぎりぎりの精神状態の中、自身の中に辛うじて残るもののおぞましさの発見。それが自分自身の腹の底に巣食っていたものであることを改めて知る恐怖。そんなものがフラナガンの書くものの本質であろうと思う。
熱帯特有の湿度、植生、泥、雨、疫病、腐敗。そんなものは、単なる上辺を取り繕う化粧に過ぎない。むしろ、戦地から生還し目の当たりにする清潔な現実に潜む倦怠に気付いてしまう無意識の欲望に似た感情。おぞましいと思いつつ、腹の底に巣食うものに惹かれる心。そんな人間の性を圧倒的な鮮明さでフラナガンは描き出す。湿潤な村上春樹。今のところリチャード・フラナガンは自分にとってそんな位置付けだ。
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第二次大戦中日本軍のオーストラリア人捕虜として過酷な生活を送った著者の父親の実体験をベースに書かれた小説。
軍医として従軍し、日本軍の捕虜となって泰緬鉄道の建設部隊に配置された主人公の回想形式。
タイトルはもちろん松尾芭蕉の著作から引かれたもので、本作にもところどころで俳句が登場する。
重い。
第二次大戦中の日本軍捕虜を描いた作品としては『戦場にかける橋』『戦場のメリークリスマス』、或いは戦争の悲惨さを描いた作品では『西部戦線異状なし』『ジョニーは戦場へ行った』(いずれも第一次大戦だが)などを読んだり観たりしてきたが、レベルが違う。
究極まで地に堕ちた衛生状態、その中で押し付けられる理不尽、あまりに軽く無造作に失われていく生命…しかもその「加害者」が日本人であるということから受ける重苦しさ。
いや、重苦しさなどという表現も適切ではないかもしれない。
人間という生き物が極限状態に置かれた時に、どのようになってしまうのか、そのリアリティがただ哀しく、そして深刻に響いてくる。
終戦後、故国に帰還したオーストラリア兵士、そして日本軍の上官のその後も描かれるが、本書に糾弾のトーンは窺えない。
ただただフラットなのだ。
だからこそ重く、静かで、厳粛。
その感覚が、芭蕉に回帰する。
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第二次大戦中、ミャンマーとタイを結ぶ鉄道いわゆる泰緬鉄道の建設に捕虜として従事することになったオーストラリア人医師の人生の物語。その医師の視点だけでなく、他の登場人物の視点からも、また作者の俯瞰的な視点からも物語は描かれる。作者の成就しない恋愛を第1軸、鉄道建設を第2軸、時間軸を第3軸として物語は重層的に展開する。
戦時下の行動を決して善悪の二項対立では評価できないということが繰り返し表現される。
日本人の行動が戯画化されているような印象があるが、これは仕方がないのだろう。
著者リチャードフラナガンの父親が実際に捕虜として鉄道建設に従事し、その体験談をもとに様々な取材をし、12年かけて書き上げたという労作。
さすがはブッカー賞受賞作。最初の章は話があちらこちらに飛び読みにくいがそれは最初の100ページほどなので
そこだけ頑張りましょう。読んで損はなし。
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内容にも作者についてもまったく何も知らず、ただ表紙が美しいという理由で気楽な感じで図書館から借りてきた。そしてウキウキと表紙をめくって、インドシナ半島の地図を見、そこで初めて戦時の日本軍の話だと気づいた。
あ、やばい、心構えが必要な本だ!と慌てた。
著者は日本人ではない、ということは、きっと容赦ない内容なのだろうと思い、NHKサイトのアーカイブから、近そうなインパール作戦あたりのドキュメンタリーを4、5本見て、日本側の事情をおさらいし、少し意識をそっちに向けてから読み始めた。
他国の残虐な行為について読むのと違って、日本人のホロコースト的な行為について読む時、とっさに客観的でいられない弱い自分がいるということに最近気づいた。だからこういうワンクッション置く儀式は、私にはとても重要。
でも、そんな儀式は必要ない本だった。
神のような公平さで描かれていて、ちょっと驚いた。裁くことが目的の本ではないということを、非常に強く感じた。
戦争について書く本は、当然ながら戦時中の話に終始することが多いのだけれど、この本は、終戦後から当事者たちが死ぬまでの、長い時間の経過を描いていることがとても印象的だった。
泰緬鉄道建設で起こった出来事がもちろん物語の中心であり、その物語じたいに激しく凄まじいものがあるのだけれど、それだけじゃなく、その後、時間がどんな風に彼らの戦争体験と人生を変化させていったのかまでが丁寧に描かれている。初めて読むタイプの戦争だと思った。
読み終わって二日たった今も、登場人物たちのそれぞれのリアクションについて考えていたりする。
特に、オオトカゲの人生ついては私には思いもよらなかったという意味でショックで、彼のこともきちんと描いている作者の公平さに驚嘆した。
訳者があとがきで紹介されていたBBCドキュメンタリー「Richard Flanagan:Life After Death」も続けて見たが、すごく良かった。非常に興味深かった。
この本のクライマックスシーン、300人が3人の残虐行為をただ茫然と見守っていた、というところについては、著者が幼いころから繰り返し聞いてきた彼の父親の実体験がベースになっているとドキュメンタリーの中でフラナガンは述べていたが、あのシーンや晩年の父親の姿について語る著者本人の言葉を聞いていると、この本が全くもってジャッジメンタルでない理由がなんとなく理解できるような気がした。
ただ、チラリと挿入されていた捕虜たちの痩せてボロボロになった身体の実際の映像は、本を読み終わってほっとしていただけに、ふいうちに遭ったように驚かされ、激しく動揺した。あれが日本軍がしたことなのか、と文字では理解できていなかった自分に気づいた。
なお、ドキュメンタリーではフラナガンのほかの著書についても触れられていて、なんだか全部読みたくなった。Gunns社とそれに絡む政治家たちのことなどは全然知らなかったので、思った以上に骨太な人なんだなぁ、とビックリした。
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P383に「少しばかり言葉を食べてしまった」と意味のよくわからない文章がある。原文で相当する文章は "just eaten half a word"。イディオムかと調べてみたが、やはりよくわからない。
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凄い深みのある作品。
感想もさらっと出てこない。
前半、場面や時間があちこちに移るので読むのに苦労するが、後半それが繋がりだすと俄然物語に引き込まれていく。読み終わると再度前半を読み返して理解を深めていくことになる。
戦争の虚しさ、残酷さは他の無数の作品で語り尽くされてはいるが、著者は声高らかに戦争の反対を訴えるわけでもなく、日本軍の残虐行為を非難するわけでもなく、虐待する側、される側双方の戦前、戦後の人生を描いていく。
著者は相当日本文化を研究したんだと思う。
日本の俳句を絡めて極めて興味深い作品になっています。
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1943年、タスマニア出身のドリゴは、オーストラリア軍の軍医として太平洋戦争に従軍するが、日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」(「死の鉄路」)建設の過酷な重労働につく。そこへ一通の手紙が届き、すべてが変わってしまう……。
本書は、ドリゴの戦前・戦中・戦後の生涯を中心に、俳句を吟じ斬首する日本人将校たち、泥の海を這う骨と皮ばかりのオーストラリア人捕虜たち、戦争で人生の歯車を狂わされた者たち……かれらの生き様を鮮烈に描き、2014年度ブッカー賞を受賞した長篇。
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凄まじい本だった。圧倒的。まず描写力がすごい。体験した本人しか書けないんじゃないかと思うような、各人の具体的な感触、思考の流れ、感情。臨場感ありすぎ。
物語の構成も凄い。語られていく断片が徐々にパズルのピースのように埋められていき全貌を露わにし新たな意味を表す。
父親の経験を基に12年をかけて書かれた本。この本には血肉があり、何人もの個人的な叫び、痛み、疑問があり、人類全体の持つ闇、結局のところ暴力とは何なのか、人が人を虐げ続けることとは何なのか、という恐怖や絶望もある。
そして欺瞞や、一つの嘘が人間を壊してしまうということも。
これからもこの本に書かれている一つ一つの文章について考える必要があると思った。
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泰緬鉄道がこのような悲惨な状況下で作られていたことを初めて知った。衝撃を受け続けた物語、様々な人間の心の奥底について考えさせられた。悍ましく印象に残ったページは、医学部の石山教授による若き米兵の生体解剖、取り出した心臓が秤の上で震えていたという記述に、背筋が寒くなった。惨状に慄きながらも、読み進めていくことで、心が穏やかに落ち着ける物語になっていて不思議だった。良い本に出会えたことに感謝。
読了後、映画レイルウェイを観てみようと思った。