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中国の思想に触れたことのない欧米人向けなのかな。マインドフルネスなど流行している思想が、知らないうちに自己を制限し得ることなどの気づきにはなる。
しかし、哲学書としては内容が浅く、自己啓発書としてはすぐに活かせると感じる人は少ないのでは?
「かのように」の理論以外は、「バランスよく生きよう」と言っているだけで、読む労力の割に深みに欠けた。
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内容としては、絶えず変化する世界に対して、常に「礼」「徳」「仁」を意識した振る舞いを重ね、「道(タオ)」に従って今を生きる事が大切である、ということを貫いている。
孔子、孟子、荘子について、もう少し整理した項目が置かれているとよりわかりやすかったと思われる。
特に新しい着眼点や考察があるわけではなく、良くも悪くも整理されているため、書物として読むよりも、講義として聴くべき内容なのだろうと感じた。
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「わたしはなんだろうとなりたいものになれると考えるのではなく、自分がなにになれるかは、まだ自分でもわからないという気持ちでいろいろ試してみる。」本文 p109参照
著者は自分を農夫だと考えてみる。そして様々な趣味や興味を有機的に育てることを勧めている。
つまりはじめから自分自身を箱に押し込めるのではない。私達は常に変化するものと思えというのである。
私達はとかく自分はこういう人間だからこうしなくてはいけないと思ってします。
こんなことを学んだからこうなる。とか、自分は外交的だから営業だとか。
でもそうではないのである。自らを変化し、成長させていくことが必要である。
それを古典から紐解いているところに説得力がある。
また、中国の古典にたいして興味をもてるそんな一冊である。
「孟子にとっての命は、人生の偶然性を意味することであった。」(本文110P)
「なすべきことに力を尽くしてから死んでこそ、天命をまっとうしたことになる。(孟子)
生きていると色々なことに遭遇する。予期しないことが多い。それでもそれに対して対処できる人になること。
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ハーバードの人気教授が、東洋思想の重要性を改めて説いた本。
西洋的な「自己に忠実になる」信仰へのチャレンジ。
下記にいろいろな思想があるが、それぞれ、世界をどうみるかによって力点が異なる
孔子:礼によって仁を促す
孟子:世界は安定していない。命(運命、天命、宿命等の「命」だが、孟子にとっては人生の偶然性)に従う。性善説
老子:分化していないのが道(タオ)
荘子:物化(物の変化のこと)。物事は変転する。変転するものとの一体化が荘子にとっての「道」
荀子:ことわりをつくったのは人間。人為の適用の仕方が重要
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自分の心と身体の状態を外側から看るために手にとった一冊。
感情をコントロールすることと感情を修養すること。
この類似する表現の全く異質な目的に気づくことができました。
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儒教というと、厳しい社会階層、男女の役割分担、礼儀正しさなど、正直古い考えというイメージがありましたが、そんな考えを改めさせてくれました。
文章は簡潔ですが、内容は深く、大学入試の現代文で出てきたら卒倒しそう(笑)。
自分なりにまとめた要旨はこの2つ。
・なぜ「礼」を大切にするか、それはあえて別の自分になりきることで「礼」をくり返し、自分の多様な側面を開発でき、自分を変えていくことができるから。
・私たちは条理ある安定した世界を築こうとしているが、現実は果てしない衝突と不完全な人間関係のまっただ中にあり、そこに秩序を生み出せるかは、理性と感情を合わせた「心」を修養することにある。
疾病、災害など世界は不安定で、絶対的なもの(ゼロリスクなんかそうですね)や力を求めがちですが、日々の様々な状況下での行いの一つ一つで、人生をよりよくできるのかな。
変えられない他人や社会に怒ったり嘆いたりするより、変えられる自分の日常を大切にしていきたいと思いました。
<印象に残った文章>
人生の脈絡や複雑さを凌駕する論理的、道徳的な枠組みはない。
あるのはわずらわしい現実世界だけで、わたしたちはそのなかで努力して自己を磨く以外ない。
ありきたりの<かのように>の礼こそ、新しい現実を想像し、長い年月をかけて新しい世界を構築する手段だ。
人生は日常にはじまり、日常にとどまる。
その日常のなかでのみ、真にすばらしい世界を築きはじめることができる。
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なかなか面白かった。西洋からみた中国思想といった形で、より明確に中国思想の輪郭が見えてくるようでした。
ありのままの自分に満足するとか、強さを求めるとか、西洋人らしい考え方とは違う魅力が、中国思想にはあることがわかった。
西洋哲学と比べると、いかに自己研鑽するか、人と繋がるかということを問題とした東洋哲学は実践性があるのかなとも思いました。
西洋と東洋の考え方や価値観の違いも見られて興味深かった。
自分を変容させる、弱さによって物事を動かす、世界の断片をつなぐ、自然かどうかよりも人為的なものが正しく作用しているか判断する、などなど、知ってるつもりの中国思想が、日常でも生かされる形に具体化されていました。
多少砕いて説明しすぎな感もありますが、ビュエット氏の解釈はかなりわかりやすく現代の問題に置き換えられているので、ある程度中国思想を学んだ人にも楽しめる本。
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もしかすると、あなたは
・自然に、あるがままの自分でなきゃいけない。
・目標に向かって主体的に生きなきゃいけない。
と思っているかもしれないが、そうとは限らんよ?
よい生き方をするとはどういうことだろう?
別の考え方(東洋哲学)も参考にしてみよう。
孔子は「仁」を実践することが大切だと説いた。
ただし、仁とは何かを明確に定義はしなかった。
複雑で次々と変化していく世界で、普遍的な仁を決めるのは危険だからだ。
むしろ、入り組んだ事情と格闘して、仁(良きあり方)を考えること、
仁を感じて育むことが大切であるとした。
行動を改めることなしに変化は起きない。
そこで「礼」によってこそ「仁」が修養されると説いた。
礼は他者とのよい関係のベースになる。
「こんにちは(挨拶)」や「ありがとう(感謝)」などの
日常の小さな行為の積み重ねが、人格を磨き、仁を育む。
「小さな礼の実践」→「仁に磨きがかかる」→「さらに礼の実践が捗る」→「さらに仁に磨きがかかる」
このように、よい生き方が実践され、皆が仁を感じることで真にすばらしい世界を築くことができる。
孔子曰く『よい生き方をお望みなら「礼」と「仁」の両輪をまわしては如何かな?』
孟子は人が生れながらに備える「善」と、それを引き出す「環境」が大切だと説いた。
孟子と同時代に墨子という人がいた。
墨子は二元論的に世界の善悪はハッキリしていると考えた。
善悪の明確な道徳基準は天(上帝)が定める。
天の道徳律に従うのがよい生き方で、逆らうのは悪い生き方だし天罰が下る。
皆が道徳律に従えば世界はすばらしいところになるし、
今の世が乱れているのは人々がそれに従わないからだと説いた。
ついでに、「礼」は型にはまった無意味なもので、こんなことを気にしては
本当に重要なことに集中する妨げになると考えた。
孟子は墨子に全然同意できなかった。
あなたはが通りすがりに、井戸に落ちた子供を見かけたら
何の躊躇も迷いもなく、その子を救おうとするのではないか?
人々が自然とよい行いをしたくなる場面があることは事実だ。
よって孟子は、人は生まれながらに「善」の資質を備えているに違いないと考えた。
人がよい生き方をするのは、水が低きに流れるのと同じく自然である。
もちろん、水が高きに逆流することもあるが、
それは流れをせき止めるなどの外力(環境)によるものだ。
善という素質は、環境によって失われたり、ゆがんだり、変質する。
だから、日々の生活のなかで、善の素質を育む努力をすることが大切なのだと。
人は善を好み、善でありたいという傾向を持っているのだから、
それを引き出す環境に身を置くのがよい。
また、あなた自身が、他者から善を引き出す環境であることもお忘れなく。
老子は「道にかなった無為」が大切だと説いた。
あなたはとても���しく、今日は特にイライラしている。
そんな状況で、今から急遽、話し合いを行わなねばならなくなった。
ここのとき、腹を立てながら、さっさと話し合いを片付けてしまうこともできる。
ただし、他の参加者は、あなたのストレスと怒りに影響される。
その場に漂う緊張と喧嘩腰の空気のせいで、話し合いはあなたの提案とほとんど関係のない
不愉快な論争の場となり、あなたは前よりさらに嫌な気分になって話し合いを終える。
共感的な口調、言葉選び、人に向ける眼差し、笑顔、うなずき、寛容。
出席者の意見を楽しみにしていることを全身で伝えることもできる。
出席者はあなたがどれほど場に影響を及ぼしているかを意識していない。
しかし「いやあ、今日の話し合いはすごくうまくいったな。
なんだか、ひとりでにスルスルと進んだみたいだった。」
と満たされた気持ちでその場を後にするだろう。
あなたは「道にかなった無為」により、穏やかに、さりげなく、
誰もが繋がり、他者の意見を楽しみにする世界を作り上げた。
誰もがそれまで想像していたもと違う、それでいて、想像した何よりも素晴らしい意見が得られた。
後ろを振り返ると、そこにまるで「道」があったかのように思える。
「道」は今まさにできたのである。
エイブラハム・リンカーンは
「87年前、わたしたちの祖父たちは、自由の体内ではぐくまれ、
すべての人が平等につくられているという命題に捧げられた新しい国家をこの大陸に生み出した」
と、有名な出だしにより、いずれ社会通年になるタネを撒いた。
独立宣言を起草したトーマス・ジェファーソンは奴隷を所有していたし、
宣言文の「人」の定義は「白人男性」しか含まれていなかった。
平等の中に「奴隷」が含まれているなどという事実は一切なかったはずだ。
リンカーンはすべての人の平等を強硬に主張することなく、無為により「道」ができた。
荘子は人生を最大限に生きるために「自己中心」をやめて「他者視点」に立つことを説いた。
「胡蝶の夢」という説話に荘子の考えがよく現れている。
荘子になる夢を見ている蝶なのか、蝶のになる夢を見ている荘子なのか。
現実が夢なのか、夢が現実なのか。
自他を分けて「自」という視点に限定されない境地への誘い。
自分などという視点に限定されては世界がまるで見えない。
自分のいう枠組みで経験を深めても、それは単一視点の強化に過ぎない。
他者視点、すなわち別の信念や価値観へのシフトが視点を変える原理であり、
世界を違った視点から捉えるということである。
「主体的」「自発的」も、荘子の「おのずから」と比較すると正反対である。
どんなに腕の良い料理人でも1年に1度は包丁を手入れする。
並みの料理人ならそれが月に1度だ。
なぜかというと、切れ味鈍く、刃こぼれしてくるからだ。
「包丁」という優れた料理人がいたが、19年も使った牛刀が、
今研いだばかりのごとく鋭かったという。
牛の骨折には隙間があり、牛刀の刃先には厚さがない。
厚さがないも���を隙間に滑りこませるのだから、刃が鈍ることがないのだ。
自分の神性に働きかけて、世界と繋がり、世界とうまく感応する。
この訓練された自発性のことを「おのずから」「主体的」と言うのである。
つまり、自己中心(自分の信念や価値観などを唯一とする)ではなく、
他者視点(世界とうまく感応すること)によって人生を最大限に生きられるということだ。
主体的に生きる、自発的に生きるということは、
自分の立場から見て、自分の内から出た目標に向かうことではない。
「おのずから」世界とうまく感応することかもしれない。
荀子は、、、孟子の仲間である。
荀子は性悪説で、孟子は性善説なので、一見すると対立意見を持っているような気がする。
けれども、そんなことはなくて、どちらかというと考え方に似た側面がある。
人はねじ曲がった木のようなもので、放っておくとひん曲がってしまう傾向がある。
でも、これは人為(環境)の力で真っ直ぐにすることができる。
神性とかややこしいことは抜きに、人は良きにつけ悪しきにつけ
環境に働きかけて環境をのものを変えることができる。
自然状態に手を加えることで、全体に秩序と調和がもたらされ、人も真っ直ぐになれる。
人をとりまく状況(環境)に手入れをすることで、人の基本的傾向(性善説)にそって善に向かう、
あるいは人の基本的傾向(性悪説)に引きずられることなく善へと向かう。
そして、人は環境に影響を与える力を持っているという。
よく生きようとすることは日々の積み重ねである。
今よりも、もっと、よい世界にする努力に終わりはない。
決して急ぐことなかれ。
わたしたちは何かを学ぼうとするとき、
自分の価値観や基準に合致するように変形がちである。
人類の叡智から学び活かせるか、それはわたしたち次第である。
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様々な東洋哲学のエッセンスが書かれている。初めの孔子の話が印象的であった。人は日々の様々な出来事に対してパターンに凝り固まって反応している。その行動の中には「仁」のない、感情に任せた行動や合理的なだけで感情を無視した行動も多くある。しかし、何か出来事が起きたときにいつもと違うパターンで行動してみる。その行動を「礼」といい、「仁」のある「礼」を日々、意識的に行うことによって人は様々な出来事に対する反応が研ぎ澄まされていき、どんなことが起きたとしても柔軟にふさわしい反応を起こすことができる。
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孔子からはじまり中国哲学の流れが西洋哲学と対比しながらコンパクトにまとめられています。
各思想について、厳密さという面では詳しい方から見ると不足があるのかもしれませんが、入門書としては読みやすいと思います。
本書を読んで、中国哲学というのはいわば日常の哲学と言えるのではないか、と思いました。
日常生活のなかで、礼をもって「かのように」振る舞い、自分を、そして世界をより良いものにしていく。
小難しいことを考えるのではなく、日々の生活に取り入れることによって、まさにタイトル通り「人生が変わる」のではないかと感じました。
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孔子の「礼」の部分だけでも読む価値あり。
「かのように」ふるまうことで普段と違った反応を引き出し、より良い関係を築ける。この連続こそが世界を変える力になる。
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超越的/超越論的な価値に基づいて行動するのではなく、日常の積み重ねの中で「道」を生成していくという思想観。超越的な普遍性ではなく積み重ねていくことそのものに普遍性を見出す。
孔子:「人生の脈絡や複雑さを凌駕する倫理的、道徳的枠組みはない。あるのはわずらわしい現実世界だけで、わたしたちはそのなかで努力して自己を磨く以外ない。ありきたりの<かのように>の礼こそ、新しい現実を想像し、長い年月をかけて新しい世界を構築する手段だ。人生は日常にはじまり、日常にとどまる。その日常のなかでのみ、真にすばらしい世界を築きはじめることができる」
孟子:
「孟子流のやり方で理性面と感情面を統合するとすれば、自分の感情的な反応に注目し、それを改善するよう努力することだ。理性を使って感情を修養する。日々、なにが自分の感情や反応を誘発するか意識する。君が世界をとらえるときのパターン化した習癖、つまり深く刻み込まれた物語はなんだろう」
「はっきりした指針や安定した世界があるという観念を捨て去れれば、わたしたちに残るのは道案内をしてくれる心だ。心がすべてであり、わたしたちはともにすごす人たちとの関係を通してそれを育てていく。心はものごとを正しく感じとり、成長のための地ならしをし、自分にあるものを生かすのを助けてくれる。そうすれば、自分はこういう人間だと思っていたものがすべて変わりはじめるはずだ。存在することさえ知らなかった自分の隠れた一面が見つかる。かつては安定していると思っていた世界が、無限の可能性に満ちた世界に見えてくる」
老子:
「道は、今ここに、みずから能動的に生じさせられるものだと説く。わたしたちはだれしも、自分の生きる世界を変容させられるほどの影響力を秘めている。道はつくりかえることができるのだ」
「身のまわりのあらゆるものを能動的に一つに織りあげることで、わたしたちが道をつくりあげる。一人ひとりが、老子にー聖人にーなって新しい世界を生み出す可能性を秘めている」
荘子:「すべての視点から世界を見ることを学び、<物化>を理解できれば、宇宙のあらゆることへの理解が深まると考えた。そして、現実を経験する典型的なやり方から抜け出せるようになれば、日々の平凡な生活の一瞬一瞬で<おのずから>の境地にいたるとはどういう意味かがわかると説いた」
「考えすぎても分析的に取り組んでもいけない。どの肉も同じではないからだ。荘子によれば、“技よりもまさる<道>“に重きをおく必要がある。自分の神性に働きかけて、世界とつながり世界とうまく感応できるようにする。意識的な理性ではなく精神を使うことで道を感じる。そうなってはじめて、肉のさまざまなふぞろいを感じとれるようになる」
「役立てるためには、修練が目の前の技術に特化したものではなく、視野の狭さを打ち破るための修練でもあると認識する必要がある。視野の狭さは、自分でも気づかないうちに人生に大きな影響をおよぼしているからだ。それを自覚できれば、もっとほかのものも手にはいる。つまり、真の想像力と創造力を育てる心の状態が得られる。ゾーンにはいることと、想像や創造に関係があるとは意外かもしれないが、荘子にとって想像力と創造力は、たえまない<おのずから>のフロー状態からわき出てくるものだ」
「ほかのだれかが世界をどのように眺めるか常に自問し、自分の見方だけが唯一の見方ではないことをたえず意識しつづけることだ。荘子が示しているとおり、これがものごとを違った目で見る、すなわち視点を変える原理であり、視点を変えれば、新鮮さと情熱をもって人生を経験できるようになる」
荀子:
「人間の本性は悪であって、それを善にするのは人為によるものだ。今、人の本性には生まれつき利益を好む傾向がある・・・また、生まれつき人をねたみ憎む傾向がある・・・そうだとすれば、人の本性に従い、感情のままに行動すると、かならず争い奪い合うことになり、社会の秩序が乱れ、ついには天下に混乱をきたす」
「これは自然ではない。人間が世界を飼いならした結果だ。人間が手を加えて、まるでばらばらの現象を調和のとれた一連の過程にしたのだ」
「わたしたちは自然を飼いならし、構造を与え、パターン化する。どのようにそれを実行するかはわたしたちしだいだ」
「自己の神性を修養し、周囲の世界と感応することは、人間性を超越することにつながりかねないと考えた。この人間性こそ、よりよい世界をつくり出す力をわたしたちに授けると荀子が論じたものだ。感応する神の気のようになろうなどと望んではいけない。わたしたちをつくっているややこしい人間らしさの部分でなんとかするべきだ」
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高校の倫理の授業で習って以来の中国古代哲学思想。学び直しの復習として興味深い上に、西洋哲学思想やそれを基盤に現代の私たちが当然だと考えている世界の見方との違いも示唆してくれる、入門書として素晴らしい本でした。
西洋社会が、人間とは変わらない存在だ、と自覚的に考えているのかは正直わからない。ただ、世界には普遍の秩序があるだろう・あるべきだ、と考えている自分に確かに気付かされた。もっと生なまとした物事の繋がりや、論理的に説明しきれない感情の役割。実際生活している上でもどかしさを感じる自分の感情の動きに向き合うためにも、もっと個々の思想家の本を読んでみたくなった。
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中国の古代哲学者の孔子、孟子、荘子、荀子の考えを取り上げており、非常にわかりやすい説明で勉強になった。本書の原著はThe path であり、本書の根幹テーマになっている「道」の概念を紐解きながら、我々の生活で中国の古代哲学がいかに有用であるかを力強く主張している。
真実の自分、あるがままの自分を啓蒙する自己啓発本は溢れているが、本書ではそうした考えを否定し、日々の小さな行動から自己変容は可能であると述べている。
道とは世界は変わり続ける一瞬で構成されており、あらゆる物事は相互作用の関係性にあることを意味する。だからこそ、日々の小さな決断で自分のパターン化された意思決定を抜け出し、かのように振る舞うことで、初めて新たな視点を見出すことができる。
諸行無常の世の中なので、思い通りに行かないことは当然で、瞬間ごとに相手を思いやる善を発揮し、ありたい自分ののような言動をすることが、長い目で見たときに大きな変化に繋がる。
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第42回アワヒニビブリオバトル「道」出張@もりのみやキューズモールで発表された本です。
2018.08.22