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コペルニクスからホーキングまで、科学者が何を発明してきたのかについて神云々よりページが割かれていました。
それはそれで難しいながらも面白く読めました。
ただタイトルに期待していたような答えは示されなかったです。
というか信じている人ってこうなんだろうなと想像できることしか書かれていなかったです。
もっと具体的に、モーゼの奇跡やキリストの復活を科学者が信じているのなら、その根拠がどこにあるのか、などが知りたかったです。
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物理学の歴史をピタゴラスから始まりホーキングの宇宙論まで非常に分かりやすくまとめた良書。ただし、表題の「科学者がなぜ神を信じるのか」というどちらかと言うと哲学的な命題については全くの期待はずれ。思わせ振りなタイトルに星一つ減点した。「科学者が神を信じる」理由ではなく、当時の社会的・文化的背景において神を信じていた科学者が科学を発展させたというだけ。確か立花隆の「宇宙からの帰還」で、宇宙飛行士が宇宙から地球を見ることでその圧倒的な神秘にさらされ信心深くなるということが書いてあったが、この本にはそのようなことも書いていない。最近読んだ木田元の「わたしの哲学入門」にも科学者は物理法則(自然法則)を探求することで神の意思に近づこうとしているというようなことが書いてあったが、それと同じことが書いてあるだけ。さらに、最近の科学者に至っては神を信じていない。もっとも「神」の定義が何かによるので、「物理法則」=「神」と捉えると「神を信じている」ことになる。どちらかと言うとそれらは本書においては周辺情報であり、やはりこの本は物理学の歴史を分かりやすくまとめた入門書として捉えるのが最適。中に紹介されるハイゼンベルクとディラックとパウリの神に関する会話は現代の知性を余すところなく発揮しており、一流の物理学者は一流の哲学者にもなれるのだと感心した。
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「神」という存在を主軸にして語ってみた「科学史のお話」といった感じの本。
本の最初の方ではキリスト教や聖書の成り立ちなどの歴史的背景の解説がありますが、あくまでブルーバックスなので全体的に見れば宗教色はあまり強くはありません。それぞれの時代の背景とそれぞれの時代の科学者が、科学や神についてどのように考えていたのかを考察してみるという内容です。
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「オリジン」を読んで、科学者が宗教とどう折り合いをつけているのか興味をもって読みました。科学者の宗教観を取り上げながら、物理学の発展についても概説してくれているので、とても分かりやすかったです。
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科学者がなぜ神を信じるのか。
この本で書かれている神はキリスト教における神のことだが、とても興味深いテーマでぐいぐいと引きこまれて読んでしまいました。
本書に出てくる科学者の多くが無神論者から神を信じるようになったのではなく、最初から神を信じている人(クリスチャン)が科学者になったという話が多かった。
面白かったです。
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まさかブルーバックスでこんなに感動する日が来るとは思わなかった。神との対峙、という文脈で科学史を振り返る画期的な試み。とても分かりやすいもののド文系には反物質や超弦理論までくるとやっぱちょっとむり。もっと頭良くなりたいな。ニュートンとかナショジオとか思わず定期購読したくなる本。いや、たぶんしないけど。
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とても興味深い内容。後半は物理学史の色合いが濃くなって、完全文系の身としてはなかなか理解に至らなかった。個人的には、神に人格のようなものを与えるのは難しいように感じる。
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現代における神について知りたかったのだが、現代の科学者の話ではなく、歴史上の科学者の話がメイン。
そもそも科学の始まりは神の御業をより理解しようという純粋な衝動であった。しかし、コペルニクスを始め科学を極めようとすればするほど聖書や教会の教えと科学の矛盾に気がつくようになり、科学者はそのはざまで葛藤する。
・バチカンは進化論を禁じていない。1950年に発表された教皇ピウス12世の提言によると、進化論は身体の期限に関する理論であり、霊魂は神によって直接に創造される。
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地動説が正しいことを知っている私たちは、天動説に固執した当時の教会を非科学的だと決めつけがちですが、実は教会が天動説を採用したのは「科学」によって理論武装するためだったのです。しかし、ローマ時代に衰退してしまっていた自然科学には、これに反駁する力はありませんでした。学者たちの目は夜空に向かうのではなく、1500年前の資料が眠る倉庫に向かっていました。革命が起きるまでには、まだしばらくの時が必要でした。(pp.48-49)
コペルニクスには、敬愛する神はどのような宇宙を創ったのかを少しでも知りたいという純粋な欲求がありました。彼の神への思いは、神が創った宇宙に複雑な家庭が入り込むことを許しませんでした。宇宙はもっと美しいものであるはずだーーこの確信が、地動説を生む原動力となったのです。(中略)科学を進歩させたのは、愛する神のことをもっと知りたいという純粋な衝動でした。しかしその結果、聖書や教会の定めとの矛盾に気づいてしまうコペルニクスのようにすぐれた科学者は、信仰と研究のはざまで葛藤することにもなったわけです。(pp.61-62)
コペルニクスやガリレオの発見は教会が説く神の教えに疑問符を投げかけはしましたが、彼ら自身は、神の存在を微塵も疑ってはいませんでした。しかし、さらなる科学の進歩は、神の存在そのものをあやうくしていくのです。(p.99)
万有引力によって初めて、ケプラーの観測結果が示すように惑星が楕円を描いて動くのは「なぜ」かについて、理論的説明が与えられたことです。科学においては、ある実験や観測の結果を説明するために、どのような科学法則が適切かを考えます。それまでの科学常識を覆す結果が現れた時、それを説明できれば、その法則は優秀なものと評価されます。ケプラーの観測結果が、当時の科学常識を超えていることは明らかでした。(p.120)
まず万有引力によって、人間の住む地上と神が存在する天界とを隔てていた垣根は破壊されました。身近にありふれた林檎にも、天体と同じ法則が当てはまることが暴きだされたのです。そして、万有引力を使って書ける運動方程式によって、それまで神業とされていた天体の運行も、すべて計算で導けるものであるという事実が突き付けられました。(中略)ニュートン力学によって神は「天界」という聖域を侵され、「天体の運行」という秘儀を失い、そして「全知全能」という絶対的な権威までも揺るがされることになったのです。(pp.121-122)
私にとって神とは、ほかのすべての原因の根底にある、第一原因なんだ。何でも知るだけの力はあるがいまは何もわかっていないと悟ったとき、自分が無限の知恵の海岸の一粒の砂に過ぎないと思ったとき、それが宗教者になったときだ。その意味で、私は熱心な修道士の一人だといえる(アインシュタイン)(p.172)
ものごとが一つには決まらないという二重星をボーアは「相補性」と呼びました。それは量子力学を象徴する考え方といえるものです。ボーアはそこに、インド仏教や中国の陰陽思想と共通するものを見いだしていたようです。(p.194)
『信じる』とは『すべてを鵜呑みにする』ことではなく、『信じる道標』でなければいけない。『すべてを鵜呑みにする』ことではなく、『信じる道標』でなければいけない。すべてを鵜呑みにするのは、新しい知識の発見を、古い精神的な枠組みが爆破されるかのような脅しに感じることだ。知識と信仰を完全に話して考えることは緊急処理であり、一時的な救済にすぎないのだ。(p.212)
ホーキングもやはり。物理法則は誰かが意志をもってデザインしたものであってほしいと考えていたのだなということです。彼がその「誰か」を神と呼んでいたかどうかは別として。(pp.249-250)
「もう神は必要ない」としてこの無限のいたちごっこをやめてしまうことこそが、思考停止なのであり、傲慢な態度なのではないでしょうか。科学者とは、自然に対してもっとも謙虚な者であるべきであり、そのことと神を信じる姿勢は、まったく矛盾しないのです。晩年のホーキングも、またディラックも、そのことに気づいていたのではないかと私は思います。(pp.263-264)
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著者は物理学者でカトリックの聖職者でもある人。西洋での科学と宗教をめぐる歴史を丁寧にまとめてあって、学ぶところも多かった。タイトルから期待していた内容と違うとガッカリした読者もいただろうが、個人的には必要十分な内容であるように思った。
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科学史を紹介しながら、科学史の節目となった偉大な科学者が神(キリスト教)とどう向き合って来たのかを紹介。量子力学など近代科学は門外漢なので内容は全く理解できなかったが、偉大な科学者とて神という存在を否定せず真摯に向き合い続けたことに改めて彼らの偉大さを見た思いです。
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コペルニクスからニュートンまでの歴史は理解できたが、アインシュタインからホーキングまでの議論が理解できなかった。
しかし、宇宙をめぐる物理学史として、よくできている。
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「科学者であるのに、科学の話で神を持ち出すのは卑怯」。
高校生から投げかけられた言葉から、著者は科学者であることと神への信仰が矛盾しないことの説明をテーマとする。
歴代の科学者の功績を紹介しながら、「神」という視点をもって科学を眺める。
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私もクリスチャンという立場ですが、この本はクリスチャンでなくとも科学と神の存在を何となく真逆のものとしてイメージしている全ての方に読んで欲しい素晴らしい本でした。特に著者の言葉として同意できるのは、「もはや神は必要ないと考えることこそ思考停止ではないか」というところです。宇宙の始まり然り、生命の誕生も、進化論も、詰まるところ納得出来る証拠はなく解明されてはいないのです。そうであれば、「神はいない」という初期条件を付する必然性もそこにはないということになります。神を考慮に入れようとする時よく「非科学的」という非難を受けます。しかし、確たる証拠もなく「神はいないと思いたい」という感情から発せられる恣意的な初期条件こそ、非科学的アプローチではないかと私は思います。科学的に捉えて「神がいなければ成り立たない」のであれば、それはつまり「神がいる」ことの証明なのではないでしょうか。
この本で筆者が言いたいことが端的に述べられた言葉が聖書そのものの中にあります。それは、「言うまでもなく,家は全て誰かによって造られるのであり,全てのものを造ったのは神です」というもので、"ヘブライのクリスチャンへの手紙"3章4節に書かれています。地球は素晴らしく設計された家であり、宇宙もそうです。その設計技法や仕組みを解明したいという行為が科学なのであり、その解明をもってイコール設計者がいないことにはならないのではないでしょうか。
いずれにせよ、この本が物理学史として素晴らしいだけでなく、名だたる物理学者たちの宗教観と神の捉え方という側面からの解説を積極的に文字化しているという点で、特に日本において一石を投じる科学書であることは間違いないと思います。
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神というか道の方が結局しっくりする感じ
宇宙や素粒子物理学の流れが西洋思想的な観点から語られるのは分かりやすくて良い
でも結局人格的創造神ではなく、それ以上偉大なものが考えられない創造の源としての神に行き着くのであればそれはどの宗教にも通底するんじゃないかな?