紙の本
面白く哲学できるエッセイ
2019/05/02 08:18
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投稿者:りー - この投稿者のレビュー一覧を見る
感謝も反省もしない、というよりもそういう概念のないプナンの民と暮らした人類学者のエッセイ。現代社会で生きる人間は、時折自分たちが人工的に作り出した概念をこの世界のルールであるかのように誤認してしまう。それをものさしに正しいとか間違っているとか、優れているとか劣っているとか色々と判断を下してしまうのだけれど、それはそもそも便利だから作ったものさしなんであって、それによって人間を計るようになってしまっていては世話がない。今の時代に疲れた頭をすっきりさせてくれるようなジャングルの哲学が詰まった一冊。
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詳しいことはノートにメモしたとして。自分の価値観が揺さぶられる本。生きていくの窮屈だなぁって思ったら、思い出したい。
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ボルネオの少数民族プナンとともに暮らし、そのフィールドワークから導き出した人生観。
ニーチェの詩と対比させ、それは「永遠回帰」の生き方と結論付ける。
驚いたのは、後天的に所有欲を抑制していること。すべて共有財産で、まるで民族が一つの生命体のように生命活動しているがごとく。そりゃありがとうもごめんなさいも不要だ。
これからの時代、見習うべきところもあるだろう。
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いやこれ、久々に脳ミソ揺さぶられた著作だった。反省することや感謝することがそもそも存在しない世界に生きるボルネオの狩猟採集民プナンと暮らした著者である人類学者が、軽妙な文体で現代に生きる、いや過去から文化的に生きてきたと思っていた人間の価値観を揺さぶり続ける。それが今も生きてるプナンの人々の暮らしの事実と、思いもよらぬ視点からの考察で、今の我々の生き方の根元に疑問を投げかけてくる。それは今の我々が間違っているというわけではなく、こういう考え方もあるよという可能性の提示であるので、イヤな気持ちにもならない。これは面白いものを読んだ。久々得した気分の読書だった。
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日本の文化人類学者がマレーシア、ボルネオに住むプナンという部族と長い間暮らして書いた本。こちらの既成概念をゆるがせてくれるのではないかと結構期待していたのだが、期待したほどではなかった。
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マレーシアの奥地で狩猟採集生活を送るプナンという民族がいる。熱帯雨林で農耕しない、貯蔵もしない彼らの生活は、どのような思考や道徳、社会を形作るのか?文化人類学者が現地での生活から考察した一冊。
大変おもしろかった。哲学、特にニーチェに詳しければもっとおもしろかったかもしれないと思うと、自分が残念。『熱帯のニーチェ』という元のタイトルは残しても良かったのでは?
特に惹かれたのは前半部分。原始共産社会がどんなものだったのか垣間見た気がした。エゴを全開にして先のことを予想、計画し、効率とスピード、成果と利益ばかり気にかけるのとは対照的な、成長やら進化やら改善やらを置き去りにしたこんな世界がどこかにあるんだ、というだけで少し気分が軽くなる。PDCAクソくらえ!
農耕が今の時間の概念を作ったのではないか?という著者の考えには頷ける。プナンは獲物が取れたら、その取れた分をすぐ食べてしまう。未来に備えるという考えがなく、今という時間を中心に生きている。だから過去から現在、そして未来へと繋がる直線的な時間概念が薄い。結果として、過去の失敗を未来へ生かすという考えがない。つまり反省しない。子供が「将来何になろうか?」なんて考えることもない。
何度でも同じ失敗をして反省しない!いいじゃないか!そうなりたい!と一瞬思った。しかし。プナンはよその民族と敵対して殺戮することはなかったんだろうか?
これまで人類は理不尽な殺戮を繰り返してきた。そして、今の政治がやっていること、目指しているのは、今だけを生き、同じ失敗を繰り返して反省しない態度の表れだ。「自民党は動物的だ」と誰かが言っていたのを思い出した。
獲物は皆が常に取れるとは限らない。だからプナンは取れた獲物は常に公平に分け合う。持つ者は持たない者に分けるのが当然であり、それをしないものはケチとされ嫌われる。何でも人にあげてしまう人(結果として貧しくなる)が最も尊敬を集める。シェアするのが当然のことなので、そのやりとりの中に「ありがとう」という言葉はなく、その代わりに「良い心がけだ」という言葉が返される。プナンも子供のときは所有欲があるが、後天的にシェアする考えが植え付けられる。
シェアする考え方が子育てにも適応されていて興味深い。日本では核家族化が進んで家庭が密室化している。その結果、親子間の距離が必要以上に近く、親以外の大人が子育てをシェアしにくくなって様々な問題を生んでいるように思う。
プナンにとってシェアする考え方は、困り事への対処など様々なことに適用されているんだと思う。「生き心地の良い町」という本の中で、日本一自殺率の少ない町の人達が共有していた『病を市に出せ』という考え方も『シェアする』ことだと考えると共通するものがある。プナンには精神障害者がいない可能性が指摘されている。もしかして、シェアする文化が弱くて所有する文化が強いと精神疾患の発生に関係してくるのではないか、なんて考えてしまう。
何でもシェアするなんてすばらしいじゃないか。とここでも一瞬思ってしまう。しかし。日本の閉鎖的な田舎だと些細なことでもシェアされてしまうという話を聞いた。めんどくさい町内会の行事に駆り出されるのもシェアすることだ。干している洗濯物とか、家庭内のケンカとかそういうレベルの情報が地域に広がってしまうのもシェアだ。何でもシェアするということはプライバシーがないということだ。プナンはオナラまでもシェアしている。耐えられる気がしない。それとも何でもシェアするのが当然の社会で育つと、そんな拒否感も生じないのだろうか。プナンの子供は後天的にシェアする考えを植え付けられるそうだけど、プライバシーについてはどうなんだろう。子供の頃はプライバシーを隠したりするのだろうか。
死者への向き合い方が日本人と対照的なのもおもしろい。日本人は死者を忘れないように刻印するのに対し、プナンは忘却しようとする。具体的には、日本人は死者に別名(戒名)を与えるのに対して、プナンでは親族などに別名が与えられる。プナンは死者が出ても墓を作らない、死者が出た居住地は引っ越してしまうなど、死を忘却する努力が徹底している。
この点については、日本人が意識的に死をシェアする一方で、プナンは死を意識しないシェアしないことに力を注いでいるように見える。どちらも死を恐れる故だと思うけど、死をシェアする者と死をシェアしない者では、どちらが死を恐れているんだろう。どちらが生にポジティブなんだろう。農耕、貯蔵、蓄財するのは死への恐怖からだとすると、農耕し貯蓄する日本人のほうが死への恐怖が大きいことになる。
熱帯雨林の自然についても触れられているけど、気候や自然環境の違いが思想や社会、時間感覚に大きな影響を与えているんだろうと思う。熱帯雨林の季節感が乏しいことが時間感覚に影響することは容易に想像がつく。
ところでヤマアラシの胃石が大きな現金収入になるそうだけど、それでもシェアする考えは崩れないのだろうか?それと殺人が起きたらどう対処するんだろう?
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中盤、子どもの頃のエピソードが不快だったので途中で読むのをやめた。今どきこれはちょっとマズいんじゃないの。
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おもしろい!
今思っている
「当たり前」のこと
食べること
ねること
あいさつをすること
すまうこと
まとうこと
かんがえること
なやむこと
気を遣うこと
働くこと
…
それらのことが
根底から覆されていく
その快感
むろん
それが「良い」とか「悪い」
とかの基準などでは全くない
「人間」が「人間」として
この地球の上で
この土の上で
生きていること を
新しい眼で
考えさせられてしまう
一冊
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ボルネオの先住民プナンは、ありがとうもごめんなさいも「いらない」。
プナンによって我々近代人は別の生の可能性を知る。
プナンにとって、自我は個人所有する主体ではない、幼い頃から慾を捨てるよう方向づけられる。モノだけでなく知識も共同で所有する。徹底的に。
そうすると、悪いことも良いこともみんなの問題、お互い様となる。誰にも帰属せず誰のせいでもない。ありがとうもごめんなさいもいらない。
一方、過剰な責任追及、過剰な感謝のある社会は、こういった共通感覚、共同身体性が失われていることを意味するといえよう。
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プナンの生活を通じて、すべての価値観・すべての常識・すべての当たり前を問い直すきっかけになる本。
「大いなる正午」に出くわす経験。
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自分達の常識が正しいとの思い上がりに気付かされる。わかりやすく、異文化を紹介している。ただ、同じことが複数の章で何度も書かれているところがあり、少し冗長な感じを受けた。
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人は、えてして自分(たち)の価値観が正しい、普遍的なものと考えてしまうものだが、よくよくその起源を辿ると、案外そうでもないのでは、と思える場合もあるものだ。
本書は、そのタイトルからしてなかなかキャッチーである。インドネシアに住む、プナン族のもとフィールドワークした人類学者の書いた本だ。
そのプナン族では、感謝の言葉である「ありがとう」も、謝罪の言葉である「ごめんなさい」も、単語そのものがないという。
言葉がないということは、そういう感謝や謝罪・反省を求められるような環境にはないということであり、それが何に由来しているのか。
その点にも当然言及しているのであるが、まだまだ考察が必要そうな論点だと感じた。
本書を読んでとりわけ興味をひかれたのは、
①所有・私有とは何か
これは誰のものという感覚がほとんどない。
あっても分け与えることが良しとされ、そこには感謝や返礼の観念はない。
そもそも物を持つというのは個人としての自我があってのことだが、共同体の一員としての自覚のみであれば、所有という概念もなくなるのか。
しかし、それは自他の境界が広がっただけ?
②倫理はどうやって起こるのか
彼らの倫理は狩猟民族であるがゆえの倫理観というべきか。
それならば、農耕社会による倫理とは。
そもそもヒトはどの段階で倫理的になるのか。
その生物学的な論拠は。。
といったあたりか。
こういう新たな関心を喚起してくれる書物はよい書物だと思う。世界がさらに広がるから。
断定的ではなく、そういう余地を残している点で、本書は良書だと感じた。
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ボルネオ島の森に暮らす狩猟民族プナンと生活を共にした文化人類学者による
レポートです。
本のタイトルからも想像がつくように、プナンの人々は、反省するということがない、向上心というものがない、感謝の気持ちを伝える言葉がない、将来どうなりたいとか、どうしたいという心構えがない、薬指を表す言葉がない、方角という概念がない等々、先進国に暮らすわたしたちには、思いもよらない文化や習慣が紹介されています。そもそも時間の概念、捉え方が、わたしたちとはまったく異なります。
どちらの文化や考え方が良いとか悪いとかいうのではなく、あらためて気づかされることがたくさんありました。でもどちらかというと、プナンの人たちの生き方のほうが、無理がないのではないかという風に感じられます。先進国で暮らすわたしたちは、どこかで自分を偽っているような気がしますが、プナンのひとたちの振る舞いは、すごく自然であるように思われました。生き方を問い直す、良い機会となる一冊でした。
べそかきアルルカンの詩的日常
http://blog.goo.ne.jp/b-arlequin/
べそかきアルルカンの“スケッチブックを小脇に抱え”
http://blog.goo.ne.jp/besokaki-a
べそかきアルルカンの“銀幕の向こうがわ”
http://booklog.jp/users/besokaki-arlequin2
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ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと。奥野克巳先生の著書。ボルネオ島の狩猟採集民族であるプナン人との交流から奥野先生が学んだことがまとめられています。人間の幸せの意味について改めて考えさせられる良書です。お金儲けのための森林破壊や森林伐採でプナン人が苦しむようなことがないように願います。
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ニーチェなんだけれど。なんでニーチェなのかは中にも出てくる。でも、あまり合わない気がする。ニーチェいらないんじゃないか。この人たちの話はとてもとても興味深いし、面白かったけれど。