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吃音について、心と身体のかい離という観点から見つめなおした一冊。この本を読むと、話すことは非常に複雑な身体運動であること、スムーズにしゃべるということはこの複雑な身体運動を、さらにいろいろな意味を与えながら行うという離れ業であることに気づかされる。そこで心と身体の連動がうまくいかないとき、吃音が生じる。それを回避しようとする工夫がまた別の症状として現れる。そんな吃音は、心と身体の関係をとらえるのにとても適した教材なのかもしれない。
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身体論としてのどもり。
最初の「しゃべる」からして、目から鱗だ。
当たり前が、当たり前じゃなくなる。
他人のすごさをあとがきで知る。
・言葉ではなく体が伝わってしまった
・二重スパイ
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どもり・吃音が起こっているとき、体がどのように反応し動いているのか(あるいは動かなくなっているのか)を、当事者へのインタビューをもとに解説した一冊。というと難しそうだが、読み手にやさしく語りかけてくるように書かれていて、身体論や医学の知識なしでも気持ちよくすいすいと読めた。
吃音者でない人は、話すときの身体の動かし方や反応は完全に自動化されてしまっているので、その過程を分解して説明することはもはやできないだろう。
この本では、吃音というエラーやフリーズによって浮き彫りになる、話すこと・それに順応していく体のプロセスを丁寧にひもとき、私たちの体の不思議さ、それを理解することの難しさ、そしてそれゆえのおもしろさを教えてくれる。それはいわゆる「障害」とは全く別の視点で、吃音を通じて気づくとても豊かな世界だ。
三好愛さんの表紙・文中のイラストは、本の内容をとてもよく描き当てているのだが、インパクトがあり、電車の中でこの本を読んでいたらちらちらとこの図書に目を向ける人が何人もいた。
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「ケアをひらく」は毎回良い。どもりについて「からだのコントロールがはずれた状態」と表現し、自身の身体感覚に関する自分研究のきっかけになる本。
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0149
2019/10/09読了
少し吃音がある気がするなと思って読む。あと表紙の絵に惹かれて。
読んだ結果、私はそうでもないのかもと思ったが、世の中にはこういう人もいるという知識を持ててよかった。
吃音といえば連発と言われる症状だが、難発という喋れなくなる症状があることも知った。
会話には瞬発力やリズムも大事ということも知った。キャッチボールがどれだけうまくいくか?
リズムをつけたり言葉の言い換えでスムーズに話せるようになるけど、それは自分らしさが無い、乗っ取られたような感覚と悩む人もいる。逆にどもりを回避することが習慣化されすぎて何とも思わない人もいる。当事者が気にしすぎて周りはそんなに気にしてないこともあるとは思う。
これからは会話を大事にしたい。
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障害がある場合、介助者や補助具など体外の何かと一体となることがあっても、どもりは体のリズム一体となる意味において、自分自身の体と対話が常に必要でした。どもりがない会話をする人より、自分の発言に対し、使う言葉のつながりを吟味し、自分の状態を観察し、コントロールする能力に長けている印象を持ちました。
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前半がなかなか細かい話で進まず、後半に怒涛の展開。まさに本そのものが「どもって」いる感じ。
自分の意識と身体がズレて言葉が出なくなる、それを取り返すために、リズムやフレームといった意図的な制約を作る。それにより自由になる人もいれば、乗っ取られたと感じる人もいる。
吃音者に限ることではなく、自己を中動態的、もしくはマジンガーZ的、合気道的に理解するには、素晴らしく示唆のある本。
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吃音を単なる発音の問題ではなく、身体の問題として捉え当事者インタビューからメカニズムを明らかにしている。
一見すると症状と見られるような連発・難発といったものが、別の側面から見ると対処であること。あるいはその逆もあるということにとても納得した。
さらには乗っ取る、乗っ取られるという観点から自己というものについても論じられている。面白かった。
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体は物理的な存在であり、耐えざるプロセスの中にある
発声しながら、別の言葉に移っている
吃るのは体のコントロールが外れた状態、体がはぐれている
言葉ではなく肉体が伝わってしまう
自己所有感と自己主体感
吃音に対して客観的にみるという別の視点を持ってみる
ゲシラムルカのパッションでいっぱいの詩を聞くと、
あまり吃音とは認識できず、一種の芸術のように感じてしまった。また体がキュッと縮まっていのがみて取れた。
正しい、正しくないという感覚
症状が対処法である
言いたい言葉は頭の中にある、打が出ないという感覚
何を意識するか?で吃るタイミングが変わってくる。
→音読→僕は読まないといけないという共通観念がある。他の人は頭を介さなくてよい。
役割、義務への意識
対話と会話の違い、対話は違うことが前提
奴隷制
意識をするのが怖い感覚
ゲームのみとかめっちゃ怖いやつやん、本来
人にはみんなリズムがある
自分の運動を一部手放す
自立とは依存先を増やすことである
コリみたいな感じ
どこまでが本当の自分か?じぶんのりんかくをはっきりさせる
吃音によって成長しておる感覚
一生を通して考えられる謎を持つことだ
書き言葉の気楽さ
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・音読の持つ拘束性はおそらく、吃音当事者だけが感じるものではなく、音読という行為そのものに内在する特性でしょう。その証拠といえるのが、古代ギリシャでは音読は奴隷の仕事とされていた、という事実です。音読は文字に関わる行為なので、自由人のものだと思いがちですが、実はそうではなかったと考えられているのです。
なぜか。スウェーデンの詩人で古代哲学ギリシャ哲学が専門のジュスペル・スヴェンプロはこう言います。「読むこととは、自分の声を書かれた物のために(最終的には、書き手のために)役立てることにほかならない。読んでいる限りは、自分の声を相手に引き渡しているのである」。
・文字、あるいは物に自分の声を奪われること。それは結局、私の発声器官、私の体を、自分ではないものに乗っ取られることを意味します。「声は書かれた物にその身を委ね、それと一体となる。従って、読まれるということは、時間と空間がどれほど隔たっていようとも、相手の肉体に力を及ぼしていることにほかならない」。だからこそ、音読は自由を失う行為とされ、奴隷が行うべき仕事とされていたのです。
・違うけど同じ、同じだけど違う。この相反する特徴をあわせ持つことことがリズムの特徴です。つまり、リズム的反復とは事細かに細部を指定する規則ではなく、異なるものをざっくりと束ねる寛容さを持った規則なのです。
この「変化を含んだ反復である」という点が、「リズム」と「拍子」の異なる点です。リズムと拍子なんて同じじゃないの、と思われるかもしれませんが、この点に関しては、クラーゲスも厳密な区別を設けています。クラーゲスは一言でこう定式化します。「拍子は反復し、リズムは更新する」。
・こうした能動と受動が混じりあう状態のなかで「自己から匿名態への移行」が起こる、とレヴィナスは言います。それは意識的でも無意識的でもない状態です。ノッているとき、私たちは運動を意識的に構築しているわけではありません。かといって、夢遊病者のように無意識の状態に陥っているわけでもない。「リズムという存在様相には、意識の形式も無意識的なものの形式も適用されない」。匿名態とは、この「無意識ではないけれど、自分でコントロールしているわけでもない状態」を指します。
・アンデルセンに「赤い靴」という恐ろしい童話があります。主人公の少女カーレンは赤い靴がお気に入りで、養母の忠告も聞かずそれを履いて教会に行ってしまいます。養母が病気になっても、看病せずその靴を履いて舞踏会に出かけてしまうのです。すると不思議なことにその靴は勝手に踊り出し、脱ごうとしても脱げなくなってしまう。
呪われた靴の力によって踊り続けなければならなくなったカーレン。養母の看病もできず、葬儀にも出席できず、彼女は踊り続ける自分の足をついに切り落とすのです。切り離された足だけが、踊りながら遠くに去っていくさまは、これ以上ないほど「乗っ取られる」の恐怖を物語っています。
・それは、ヴァレリーが骨休めに散歩をしていたときのことでした。「スタ・スタ・スタ」と石畳を踏むヴァレリーの足音。すると、その歩調にからみつくようにし���、ある複雑なリズムがヴァレリーのもとにやってきたのです。「私は突然、あるリズムにとらえられた。それは私に押し付けられ、すでに異質な機能作用という印象を私に与えた」。
・吃音の有無にかかわらず、私たちの社会生活は「演技」に満ちあふれています。アーヴィング・ゴッフマンは、人類学の立場から、私たちの生活がいかに演技に支えられているかを分析しました。「個人は、他者の前にいるとき、たいてい彼は何らかの理由があって、自分の行為を操作して、伝達することが自分の利益になるような印象を他者に与えるだろう」。
部屋に一人でくつろいでいるときと、仕事で得意先とやりとりしているときで、態度や顔つきが変わらない人はいません。誰もが、場面場面でさまざまな「顔」を使い分けているのが、私たちの社会というものです。社会のなかでは、誰もがみな俳優です。
・社会生活上の演技は、そこにいる人の顔ぶれによって調整が必要です。山田さんの「適当キャラ」は、実態としては「吃音回避のための演技」なわけですが、あくまで対外的には「社会生活上の演技」である以上、相手によって演じる人格を調整しなくてはなりません。ところが、「先輩に対しても失礼でないような吃音を回避できる話し方」を山田さんは持っていない。それまで使い勝手のよかったやり方が急に使えなくなり、山田さんはどもり始めます。先輩に「チューンナップ」するのに、結局半年の時間がかかりました。
・「一重スパイ」つまり単なるスパイであれば、自分が何のためにその人格を演じているか、嘘をついているのか、自覚的になれます。自分は本当はA国の人間なんだけれどもB国から情報を盗み出すためにB国の人間のようなふりをしている。B国の人格を演じるとしても、目的は明確です。嘘をつくのはつらいかも知れませんが、しかし、自分が何のために嘘をついているのか、演じているのか、自覚することができます。
ところが、「二重スパイ」は違う。山田さんは言います、「『二重スパイ』っていうのは、(・・・)A国ではA国の人間のようなふりをして、裏ではB国のために画策し、B国ではまるでB国の人間であるようなふりをして、裏ではA国のために画策する。いったい本当はどっちの味方なんだか、自分でもよく分からなくなってしまった人間なんです」。
・藤岡さんの語りで興味深いのは、「現象」という言葉を使っていることです。「どどどどどどど」という自分の連発を、「失敗」や「苦痛」ではなく、まるで木の葉が散るのを眺めるように、ただ「現象」として受け止めている、そこにはいかなる評価の視線もありません。ただニュートラルに、どこか他人事のように、自分のどもる体を観察しています。
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https://ichikateiiryou.hatenablog.com/entry/2023/08/30/072051
【要約】
吃音とは「言葉が円滑に話せない、スムーズに言葉が出てこないこと」(Wikipedia)。
吃音を心身二元論的な観点から分析した書籍。
体が心のコントロールを外れてしまう状態が、連発。
これは吃音当事者としては、自然な状態で身体的な苦痛は伴わない。
ただ、時間がかかったり、相手を待たせてしまったりと社会的な観点において問題になることがある。
そのため吃音当事者は意識的あるいは無意識的に工夫をして対処する。
その対処として、難発・言い換え・ノるなどがある。
これらは慣れていくと、意識せずともできるようになり、むしろ勝手にそうなってしまう(=乗っ取られる)こともある。
ただし、これらの対処法は、一方で困った症状ともなりえる。
その症状への対処として、新たな対処法を見出す人もいる。
自分の体のことを全て知ることはできないが、うまく付き合っていく方法をその都度見つけていく必要がある。
【面白かったところ①】
体をコントロールできないというのは吃音に限ったことではなく、そもそも全てのものは「無我」であるという仏教思想にも通ずるものがあるなと思った。
【面白かったところ②】
「乗っ取られる」とき、能動的でもなく受動的でもない。中動態的な状態であると表現できそうに思った。
【その他】
大学時代の同級生に吃音のある人がいて、その人のことを思い返しながら読んだ。
【まとめ】
他人はもちろん自分の体のことですら分からないことだらけだが、うまく付き合っていく方法をその都度探り続けていくことが重要。
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伊藤亜紗さんの本は「目の見えない人は世界をどう見ているのか」に続き、二冊目です。
伊藤さんは美術が専門分野なのですが、もともと生物学者を目指しておられたそうで、今回はその生物学者寄りの本と言えるでしょうか(しかし、随所にヴァレリーなど登場するあたり、美術とも無関係ではないかもしれません)。
まず、目を惹く可愛らしい(?)イラストが素敵です。モノトーンの絵柄に蛍光ピンクで「どもる体」と題が書かれていますが、中をめくってみると挿絵にもビビッドなピンクをふんだんにあしらったゆるりとしたイラストがあります。
これが、素敵なのですが一方で目に刺さるほど眩いのです(笑)
主題は「吃音」で、私自身は口下手なだけで吃音の傾向はなく、かつて通っていた学校に当事者の男子学生がいたなあ、という程度。彼は(まだ幼かったし)連発型だったと思います。他者視点として私の抱いていた気持ちは、本の中でも記載されている「祈っちゃうような感じ」にとても似ていました。言葉が唇から出てくるのをひたすら待つ、という体験の中に、無意識に相手を「気の毒だな」と思う気持ちがあったと思います。
本書では7章にわけて吃音を解剖していくような形なのですが、「身体論としてのどもる」から、普段の”しゃべる”というところに焦点を絞って「あなたはなぜしゃべれるのか」、さらに吃音に踏み入る形で「連発」「難発」「言い換え」、応用的な観察・推察を含んだ「ノる」「乗っ取られる」「ゆらぎのある私」と分けられています。
私は個人的には前半部分に興味を持ちました。普段、何気なく行っている”しゃべる”ということ、音を連ねることというのは、こうして説明されてみて初めて、とても複雑だったのだなと気付かされました。
また、あとがきにもあるように吃音当事者の方にとって、この本が「自分を俯瞰で見られる」助けとなるのではないかなと感じました。当事者でなくても発見があるし、当事者であればもっと発見のある本かもしれません。
でもやっぱり一番の感想は、ピンク……目が痛いなあ(笑)
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どもることを認識論する。体と気持ちとの関係が意識的になる状況としての吃音。
いろいろと楽しかった。
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ただ吃音を治すだけの話じゃない、なぜ吃音が生じるのか、吃音の種類、吃音との向き合い方(なんと吃音を肯定的に捉える人も!)、さらには言葉を発することが思考をドリブンさせるという、喋ることについて多面的に考察した本。
子どもが吃音持ちのため、吃音の種類(連発、難発等)やその原理は、とても興味深かった。本書を読んでから、子どもが難発になったときに、次の音は何かな?と興味津々で発声を待ち構えてしまった。歌うときはどもらないというのも、子どもを観察していて気づいていたことだが、ノることが身体を意識の支配から解き放し、ただ流れに身を委す状態を作り出すという説明には、なるほどと思った。
しゃべることが思考をドリブンさせるということは、アウトプットが思考を深めるということと同じ。ブクログへの初投稿が本書となったのは、たまたま読んでいたからという全くの偶然だが、これからアウトプットを増やしていこうと決めたばかりの私にとっては、運命的な一冊となった。
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→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1383543922165645317?s=21