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まえがきを読んだだけで、もうなんだか、石牟礼道子さんの世界に取り込まれてしまった。梁塵秘抄、読んでみたい。
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感想→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1302032332048588801?s=21
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石牟礼道子さん、読まなきゃ読まなきゃと思っているのに、まだ読んだことがない。まず「苦海浄土」だけでも読まないと。
「梁塵秘抄」も通して読んでみたい。
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この本と出合う機会は2度あったはずなのに取り逃していた。 石牟礼道子を知ったのはたぶん 「100分で名著」。その後、「苦界浄土」を読む。石牟礼道子の本を全部読みたいと思う。文庫になっていないものもあり、古本で探したりしている。しかしまだまだほとんど読めていない。新版が出たときどうして手にしなかったのか。もう一度入手しようとしたときには品切れだったか手に入らなかった。今回、伊藤比呂美がテレビでお経を唱えているのを見て、「いつか死ぬ それまで生きる」を購入。その際、本書も見つけて購入。タイトルを意識してちゃんと読んでいなかったのか、どうして死の話ばかりなのかと最初は思った。伊藤が石牟礼に次々と質問を寄せる。かなり年上で、たぶんもう体も弱った石牟礼が気の毒になるくらい。幼いころの殺人現場の記憶。これなどは、もう本当に思い出させるのがかわいそう。相当ショックな出来事だったのだろう。血の記憶がありありとよみがえる。伊藤はおそらくこのあたりから仏教を勉強しだしたのだろうか。まだ、ご両親も健在だったようだ。親に対する思いと詩の母ともういう存在の石牟礼に対する思い。実母を受け入れていく様。読みごたえがある。石牟礼が代用教員だった頃の思い出も良い。いじめっ子に対する優しい視線。プロであってもなかなかそんな風に思ってあげられない。本書を読んで、石牟礼との出会いがもっと前であったことに気づく。「のろとさにわ」 伊藤と上野千鶴子との対談。これを僕は読んでいた。その最後に、石牟礼が書いていたとのこと。その出会いを生かせなかったのが残念でならない。今のように簡単にネットでどういう人物かを知ることはできなかったからなあ。本書を読む中で、梅原先生が何度も言っていた「草木国土悉皆成仏」ということばが何度も頭をよぎった。
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此処にひとりのほとけさまがいる。
もはや、詩人伊藤比呂美を聞き手にした石牟礼版「歎異抄」。
人は何故生き、何故死ぬのか。
‥‥次の世というのは、あるんだと思いますよ。「次の世は良か所に、行かれませ」って言いますよ。亡くなったあとに、体を清めてあげるときに。
‥‥人間というのはね、「願う」存在だと思いますね。(略)逆に言えば、人間はそれほど救済しがたいというか、救済しがたい所まで行きやすい。願わずにはいられない。
‥‥(この世に生まれた意味は?と聞かれて)役割とも違いますね。役割を自分は見つけたとしても、その役割を果たすのは至難の業で、ただ、なんか「縁」がある。
‥‥(死とは何かを聞かれ)(賢治の詩にあるように空に微塵に散らばるというイメージという、更には)散らばるというよりか、私はどっかの葦の葉っぱかなんかに、ちょっと腰掛けていたいような気がする(笑)。
‥‥(死んで行くのは浄土だとしても怖くないですか?と聞かれ)怖くない。(←即答)
←ビックリしたのは、7歳の頃、19歳のころ、何度か自殺を図っている。結局、91歳迄生きた。
‥‥(生きていることの苦しさとは何か?と問われ)自分は半端人間だと思うのですよ。(略)半端な人間ですよ。私だけでなくて、生命、特に人間は、生きていくことが世の中に合わないというか。(略)人間が、私だけじゃなくて、無理しないと生きていけないんじゃないかと。
‥‥(好きな「梁塵秘抄」を問われて)「儚きこの世を過ごすとて、海山稼ぐとせし程に、万の仏に疎まれて、後生我が身を如何にせん」(240)。(略)私が若い頃ノイローゼになって死にたくなったのは「万の仏に疎まれて」ということだった。
‥‥「暁静かに寝覚めして、思へば涙ぞ抑へ敢ぬへぬ、儚くこの世を過ごしては、何時かは浄土へ参るべき」(←石牟礼解釈 と、私が解釈 寒い夜に覚めて、辛い世の中に涙してこの世を過ごしても、いつか浄土へ参らせて頂ける)非常に普遍的ですね。普通の庶民の女の人が、こういう歌をつくったと想う。だから共感できるし、共感する。
無宗教の石牟礼道子さんが、人生で受け取った生と死の想いが、素晴らしい聴き手を迎えて縦横に語られてゆく。浄土真宗とも違う。法華経の賢治とも違う。浄土宗からかなり離れたはずの後白河法皇編纂の「梁塵秘抄」の世界とも違う、まるで、弥生時代からの古代の宗教意識のような石牟礼道子さんの死生観が、語られた。もちろん、これを読んだからといって、私たちが石牟礼道子さんの心境になれるわけではない、と想う。石牟礼道子さんの膨大な著作を読んだ後に少しわかる世界だ、と思う。いや、ごめん。私たちは既にわかっているのだ。それを言葉にできないだけなのだ。
道子さんの著作は、今のところ一冊めから挫折している。私は4年前、日本文学全集所収の「椿の海の記」を読み出して、まるきり読み進めることができなくなった。気に入らないのでもなくて、難しいのでもない。その反対で、とても素晴らしく、やさしい小説なのだけど、1ページ読むだけで、もう直ぐに腹イッパイになるのである。一行一行に描かれていることがあまり��も豊潤で美しく、発見がある。1ページも読むと、自分のキャパがすぐにイッパイになる。そういうことが、もう1年ほど続いて、そのあと紐解くのが怖くなった。今回対談形式ということで、やっと普通に読めた。これで石牟礼道子さんの「呪い」は解けるだろうか?
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死についての対話、先日、曽野綾子と石原慎太郎の対話の本を読み、ほぼ対話になっていなかったことを覚えています。本書は石牟礼道子さんと伊藤比呂美さんの対話の形ですが、伊藤さんが聞き役といった感じです。「死を想う」、2018.7発行。石牟礼さんの言葉は、しみじみとした心に響く優しさ、そして重さがあります。「浜辺の歌」と「椰子の実」がお好きとか。3年前からパーキンソン病、起きるためにベッドの脇の柵を握る、ペンを握る、箸を握る、それぞれの握力の違いを吐露されてます。また、この病は、食品か環境からくるのではと。
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https://kinoden.kinokuniya.co.jp/shizuoka_university/bookdetail/p/KP00032249/