紙の本
我が国の「鬼」について解説した画期的な書です!
2019/01/27 16:58
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、我が国で言い伝えられている「鬼」について、伝統的に伝わる説話や伝説、さらに芸能や絵画などを分析することによって多角的に解説した画期的な書です。私たちも知っているように、我が国には様々な「鬼」が存在します。例えば、雷神、酒呑童子、茨木童子、節分の鬼、ナマハゲなどです。また、古くは『日本書紀』や『古事記』にも鬼が登場します。彼らは私たちの精神世界にどのように住み続けているのでしょうか。同書は、こうしたことを徹底的に解説してくれる興味深い一冊です。
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・鬼は私の関心事である。だから、小松和彦「鬼と日本人」(角川文庫)を読んだ。例の如く鬼の定義を示す。「怪力・無慈悲・残虐という属性はほとんど変化していない。鬼は、なによりもまず怖ろしいものの象徴なのである。」(6頁)かう書いたうへで、怖くない鬼がゐることを述べて、「だが、そうした鬼は、怖ろしい鬼がいるからこそ生み出された変則的な鬼であり、そこに鬼の本質を見いだすことはできない。」(同前)と言ふ。あくまでも鬼は怖いものだといふのである。本書の諸論文はこの線でまとまつてゐる。鬼は怖いものだと言ひ続ける。「留意したいのは、異形の者、無慈悲な者、人間より大きく強靱な者等々の属性が鬼に与へられるということから、それを敷衍して、さまざまなもの属性に対しても鬼という語が冠せられることがあるだろう。」(12頁)オニヤンマとか鬼監督の類である。どこまでも、鬼は怖いものなのである。だから、目次を見ると、百鬼夜行絵巻や茨木童子、酒呑童子を初めとして、怖い鬼のさまざまな生態が並ぶ。だから、「あとがき」で、「『鬼』は大昔から日本人が特定の現象や存在に対して用いた民俗語彙・民族概念なのである。」(265頁)とあるのは納得できる。ちなみに、「『妖怪』は研究者が用い出した学術用語・分析操作概念であ」(同前)るとか。つまり妖怪といふ語は新しく作られた語であるらしい。とまれ、鬼は昔から鬼であつて怖いものだつたのである。
・以上、本書を読んで納得できる人もゐるに違ひない。さういふ人の周囲には、おとぎばなしや昔ばなしの鬼がゐるだけで、それ以外の鬼がゐないのであらうと思ふ。しかし、世の中、広いのだと言つたところで、私が言ふのではなかなか納得してはいただけないであらう。しかし、それ以外の鬼がゐるのである。例へば東三河地方平野部の春祭り、ここに鬼が出る。何か所で出てゐるのか。数へたことがないので分からない。20か所ぐらゐであらうか。もつとゐるかもしれな い。これらの鬼はいづれも怖い鬼と言へるかどうか。それこそまだ何も分からない乳児はその鬼を見て泣く。怖がる。正に怖い鬼である。ところがこの鬼、ひとしきり泣かせておいてから乳児に飴やタンキリを与へる。かういふことが何年か続くと、鬼は怖くないと分かつていくのである。さう、東三河のおまつりの鬼は怖くない。例の如き鬼の風貌で、例の如く怖さうにはするが、その実、決して怖くはない。少なくとも、物心着いた人間にはあの鬼は怖くないのであると思ふ。 これは筆者の鬼に合はない。鬼には「異形の者、無慈悲な者、人間より大きく強靱な者等々の属性」があるといふ。少なくとも、その「無慈悲な者」といふ属性には合はない。形は異形であつても、東三河の鬼は無慈悲ではない。東三河の鬼が安久美神戸神明社の鬼祭の鬼から来てゐるのであれば、あるいは、からかひの最後に天狗に負けて逃げ出す時にタンキリを撒く、ここが出発点かもしれない。それが石巻神社等から広がつていつたのかもしれない。タンキリを撒き、飴を撒 く、さういふのが鬼なのである。これは、敷衍すれば幸せをもたらす鬼といふことになる。筆者はかういふ鬼について書いてない。知らないとは思へない。まだそこまで考へが至らないのであると思ふ。鬼は幸せをもたらす存在であるといふ考へは昔からあるはずである。それについて是非書いてほしかつたと思ふ。鬼が怖いものであるのは良い。それがなぜ幸せをもたらすのか。打出の小槌で大きくなれた一寸法師、その小槌は鬼の残したものである。かういふところに幸せをも たらす鬼がゐるのかどうか。あくまで本筋から外れた鬼だといふのであらうか。
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鬼とはなにか
鬼の時代―衰退から復権へ
「百鬼夜行」の図像化をめぐって
「虎の巻」のアルケオロジーー鬼の兵法書を求めて
打出の小槌と異界―お金と欲のフォークロア
茨木童子と渡辺綱
酒呑童子の首―日本中世王権説話にみる「外部」の象徴化
鬼を打つ―節分の鬼をめぐって
雨風ふきしほり、雷鳴りはためき・・・妖怪出現の音
鬼の太鼓―雷神・龍神・翁のイメージから探る
蓑着て笠着て来る者は・・・もうひとつの「まれびと」論に向けて
鬼と人間の間に生まれた子どもたち―「片側人間」としての「鬼の子」
神から授かった子どもたち―「片側人間」としての「宝子・福子」
あとがき