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副題に「文明の構造と人類の幸福」と付けられたベストセラー『サピエンス全史』の最後に著者はこう書いた。
「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」
本書は、この疑問 - 「私たちは何を望みたいのか」ー について語るために書かれたのかもしれない。
『サピエンス全史』で、著者は人類の歴史について、「認知革命」「農業革命」「科学革命」の三つの革命を通して段階的に発展してきた、という大きな歴史観上のフレームを示した。本書では、人類の歴史における過去の三つの革命に次ぐ新しい革命が起きることで、人類は「ホモ・デウス」となるかもしれないという新しい物語を提示する。
約七万年前の「認知革命」により、人類は小さいながらも集団で虚構を共有することができるようになり、その集団内で協力を促す力を得た。さらに約一万二千年前の「農業革命」により、人類は共同主観ネットワークを拡大・強化する物質的な基盤を手にすることができた。それでは今回の革命によって人類は何を獲得するのか。そしてそれを手にすることで生まれる「ホモ・デウス」とは何なのか。
人間は長らく飢餓・疫病・戦争という三つの問題に常に悩まされてきた。それほど遠くない過去の話だが、農業革命と科学革命を経て、これらの問題はおおむね対処可能な課題に変わり、うまく抑えこめる目途がついた。これらの課題が克服された状態が実現すると、人類の目的が苦境からの脱出から、「幸福」の追求になっていくだろうというのが著者の見立てである。具体的には、この状況においてAIとバイオテクノロジーの進化が重なることにより、人類は「至福」と「不死」を目指すことになるという。その方向により実現される人類の状態を、人間を神にアップデートするものであるとして、著者は「ホモ・デウス」と表現する。
技術によって人間を拡張するという未来は、レイ・カーツワイルの『シンギュラリティ』などでも語られることだ。本書でも、人類が生み出したバイオテクノロジーによって、素材技術による人工的な臓器だけでなく、生化学的なアプローチで心まで作りなおすという可能性まで挙げられている。しかし、ある意味では、そこまでは他の類書でも述べられているところでもある。本書の重要なポイントは、それが現在の支配的イデオロギーである人間至上主義(ヒューマニズム)の根本的な見直しにつながると指摘しているところにある。
かつて、人間至上主義が世界に現れる前には、神々が世界と人間との間を取り持っていた。一神教が人類史を理解する上で重要性をもつのはそのためだ。例えば、柄谷行人は『探究II』において世界宗教について語った。ジュリアン・ジェインズは『神々の沈黙』で数千年前には人間の意識が今のようなものではなかった可能性について論じた。人間至上主義は近年の発明であり、人がそう信じることで機能するイデオ��ギーであり、ある側面から見ると一種の宗教であり、決して絶対に動かせない事実や真実ではない。なにしろ、共産主義やナチズムもある意味では人間至上主義の一形態でもあると著者は指摘する。
「農業革命が有神論の宗教を生み出したのに対して、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、人間は神に取って代わった。有神論者が神を崇拝するのに対して、人間至上主義者は人間を崇拝する。自由主義や共産主義やナチズムといった人間至上主義の宗教を創始するにあたっての基本的な考えは、ホモ・サピエンスには、世界におけるあらゆる意味と権威の源泉である無類で神聖な本質が備わっているというものだ。この宇宙で起こることはすべて、ホモ・サピエンスへの影響に即して善し悪しが決まる」
人間至上主義の中心には意識と自由意志があるが、意識の受動性は近年の研究によってますます明らかになり、自由意志についてはそれ自体の存在すらも危うくなっている。そして著者はそのことを決して否定しない。「心を説明できず、心が果たす役割がわかっていないのなら、あっさり切り捨ててしまえばいいではないか。科学の歴史の中には、捨て去られた概念や仮説が累々と横たわっている」と言い、「科学者のなかには、ダニエル・デネットやスタニスラス・ドゥアンヌのように、脳の活動を研究すれば、主観的経験を持ち出さなくても、関連する疑問にはすべて答えられると主張する人もいる。だから科学者は、「心」「意識」「主観的経験」といった言葉を安心して自分たちの語彙や論文から削除できるというわけだ」と続けている。
著者は、神を崇めた有神論の世界と、人間を崇める人間至上主義との間で、その構造は大きくは違っていないのでないかと指摘する。それはとりもなおさず、現代のわれわれが宗教を眺めるのと同じような形で将来の人類はわれわれが今信じている人間至上主義を眺めているのかもしれない、ということである。
「近代と現代の歴史は、科学とある特定の宗教、すなわち人間至上主義との間の取り決めを形にするプロセスとして眺めた方が、はるかに正確だろう。現代社会は人間至上主義の教義を信じており、その教義に疑問を呈するためにではなく、それを実行に移すために科学を利用する。二十一世紀には人間至上主義の教義が純粋な科学理論に取って代わられることはなさそうだ。とはいえ、科学と人間至上主義を結びつける契約が崩れ去り、まったく異なる種類の取り決め、すなわち、科学と何らかのポスト人間至上主義の宗教との取り決めに場所を譲る可能性が十分ある」
著者は、『サピエンス全史』で詳しく述べた人類史の三番目の革命である科学革命によって、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意したのだという。放棄したその意味の不在に耐えるために、人間至上主義を発明し、新しい「意味」をわれわれに与えさせた。それは一見とてもうまくいったが、よくよく考えると「意味」がそこにあるべき根拠はない。その一種の根拠のないものへの根拠なさを意識することなき依拠というものは、人間至上主義を含めた広義の「宗教」というものに共通に当てはまるものなのかもしれない。
「意味も神や自然の法もない生活への対応策は、人間至上主義が提供してくれた。人間至上主義は、過去数世紀の間に世界を征服した新しい革命的な教義だ。人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える。伝統的には宇宙の構想が人間の人生に意味を与えていたが、人間至上主義は役割を逆転させ、人間の経験が宇宙に意味を与えるのが当然だと考える。...意味のない世界のために意味を生み出せ ─ これこそ人間至上主義が私たちに与えた最も重要な戒律なのだ」
著者は、二十一世紀には世界はデータ至上主義となり、「アルゴリズム」によって支配されるという。もちろん、ここで「支配」というものを主人と奴隷の関係のようなものと解すべきではない。その「支配」はおそらく外部よりも内部からやってくる。結局のところ人間の情動は進化上の自然選択の結果として獲得された「アルゴリズム」であり、その「アルゴリズム」を深く「理解」することで、人間をよりよく理解することができるという。「アルゴリズム」は、人間が自分自身について知っているよりも、よりよく自分のことを知ることができうるのである。
「人々が完全に新しい価値を首尾よく思いつくことなどめったにない。それが最後に起こったのは十八世紀で、人間至上主義の革命が勃発し、人間の自由、平等、友愛という胸踊る理想が唱えられ始めた。1789年以降、おびただしい数の戦争や革命や大変動があったにもかかわらず、人間は新しい価値を何一つ思いつくことができなかった。その後の紛争や闘争はすべて、人間至上主義者のこの三つの価値を掲げて、あるいは、神への服従や国家への忠誠といったさらに古い価値を掲げて行われてきた。1789年以降、まぎれもなく新しい価値を生み出した動きはデータ至上主義が初めてであり、その新しい価値とは情報の自由だ」
データ至上主義のよいところは、それが論理的であるからであり、何となれば人間至上主義を突き詰めた先にあるように思われるところだ。人間がすべての生物と同じようにアルゴリズムである以上、「たいていの人は自分のことをあまりよく知らないのだから、本人よりもシステムのほうがその人のことをよく知るのは、見かけほど難しくはない」ため、「私のことを私以上に知っていて、私よりも犯すミスの数が少ないアルゴリズムがあれば十分」である。そして、「そういうアルゴリズムがあれば、そちらを信頼して、自分の決定や人生の選択のしだいに多くを委ねるのも理にかなって」おり、「アルゴリズムが反乱を起こして人間を奴隷にすることはない。むしろ、アルゴリズムは人間のために決定を下すのがとてもうまくなるので、その助言に従わないのは愚の骨頂だろう」という結論にたどり着く。
最後に、「生命という本当に壮大な視点で見ると、他のあらゆる問題や展開も、次の三つの相互に関連した動きの前に影が薄くなる」として、読者にまとめて提示する。
1.科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
2.知能は意識から分離しつつある。
3.意識をもたないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになるかもしれない。
著者は、これらが本当にそうなのか、またそれが起きたときにどうなるのかについて考え続けることが必要だということで結んでいる。そこに著者の自らが得た結論に対する躊躇いを見ることも可能だろうか。
人間至上主義が、はかなく破られることとなる希望だとすれば、われわれは、まだ絶望が不足しているのかもしれない。
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著者は本書の中でこのように注意深く人間至上主義の相対性や無根拠性について語ってきた。しかし、現代社会における人間至上主義の根深さは、この本の翻訳者があとがきの中で次のように語ることで、翻訳者自身の意図と離れて図らずとも明らかになった。
「サピエンスの未来に希望はないのか? 断じて違う。著者は楽観はしていないが、絶望もしていない。絶望していたら、この作品を書いただろうか?」
この本を書かれている通りに読めばわかると思うのだが、著者は人間至上主義からデータ至上主義への移行を悪いこととも間違ったこととも考えていない。それは、歴史の上で、神から人間にその権威が移行したことを、現代から振り返って悪いこととも間違ったこととも考えないのと同様だ。むしろその移行が正しく必然なことであった程度と同じ程度に人間至上主義からデータ至上主義への移行を正しいものであると捉えているのではないだろうか。おそらく著者の考えによれば、それは歴史の流れの上でのある種の必然でしかない。
翻訳者が希望と感じた著者の記載は、単に著者が自分の予測が細部では間違っているかもしれないという当然の可能性について触れただけのことと考えるべきなのではないか。翻訳者の人間至上主義に捉われた心がそこにないものを読み取らせた幻と言えるのではないか。
「ダーウィンが『種の起源』を刊行した日にキリスト教が消えはしなかったのとちょうど同じで、自由な個人など存在しないという結論に科学者が達したからというだけで自由主義が消え失せることはない。
それどころか、リチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーら、新しい科学的世界観の擁護者たちでさえ、自由主義を放棄することを拒んでいる。彼らは自己と意志の自由の解体のために学識に満ちた文章を何百ページ文も捧げた後で、息を呑むような百八十度方向転換の知的宙返りを見せ、奇跡のように十八世紀に逆戻りして着地する。まるで進化生物学と脳科学の驚くべき発見のすべてが、ロックとルソーとジェファーソンの倫理的概念や政治的概念にはいっさい無関係であるかのようだ」という著者の文は翻訳者にはどのように受け止められたのだろうか。
朝日新聞の書評はこの翻訳者あとがきよりもまだマシだが、人間至上主義に対する余計なためらい傷でいっぱいの文章になっている。
(https://digital.asahi.com/articles/DA3S13731574.html)
著者が「振り返ってみれば、人類など広大無辺なデータフローの中の小波にすぎなかったということになるだろう」と書くとき、かのミシェル・フーコーの次の預言的な言葉が意識されていたに違いない。
「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ・・・賭けても���い、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと」 (『言葉と物』第10章末)
フーコーが、過去の歴史から人間至上主義が絶対のものではなく、歴史上の産物でしかないことを示したのに対して、著者は現在の技術がおそらく見せるであろう姿から遡及的に人間至上主義が維持できない将来を捉えたのである。
本書で著者が言いたかったことは、人間至上主義というものが当たり前の価値の源泉であるということがすでに根拠を失いつつあるということだろう。人間至上主義を絶対のものとせず、ひとつのイデオロギーとして理解をし、新しい可能性について検討をするべきだというものである。決して人間至上主義の危機を煽ってその擁護について議論を盛り上げたいわけでもないし、その危機の解決が必要であるとも主張していない。
「本書では、その制約(※イデオロギーや社会制度)を緩め、私たちが行動を変え、人類の未来についてはるかに想像力に富んだ考え方ができるようになるために、今日私たちが受けている条件付けの源泉をたどってきた。単一の明確な筋書きを予測して私たちの視野を狭めるのではなく、地平を拡げ、ずっと幅広い、さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ」
人間至上主義は、歴史の中では比較的新しい発明であることは間違いない。かつて人々を支えていた神がその座を降りたように、人間至上主義もその座を降りるかもしれないということについては、個人的には素直に首肯できる。それはかつてフーコーが何百ページもの文章を捧げた上で端的な言葉で伝えたことと同じだ。その流れは個人の選択というものを超えたものであるということについても承知している。かつて神がその座を降りようとするときに人間の側に強い抵抗があり、現在においてもいまだに抵抗があるように、人間至上主義がその座を降りるときも同じように抵抗があることは容易に想像できる。著者が前著でも述べているように、人類は何度かの大きな「革命」を経て今の状況になっている。「革命」の前には強烈な抵抗があるにも関わらず、「革命」の後ではそれがなかったときのことが不思議に感じられるくらいに「革命」は実際的で必然的でもある。歴史の歩みが速くなった今、それらの「革命」が起きる時間の間隔が短くなっていたとしてもそれは当然のことだろう。二十一世紀において、大きな認識の変化があるとすると、それが「データ」と「アルゴリズム」であると考えるのはおそらく正しい。それは人間の知能がその崇高で絶対的な価値の座から引き下ろされるのと同義であり、意識の問題が新しい側面を見せることを意味しており、人間至上主義が繕いきれない綻びを見せるということである。
もちろん著者は「AIとバイオテクノロジーの台頭は世界を確実に変容させるだろうが、単一の決定論的な結果が待ち受けているわけではない。本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるのなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で行動してほしい」と書いているが、それは人間至上主義者を喜ばせるものでは決してなく、人間至上主義からくる行動とは違う形でもって行動すべきだと言っているのである。
「ホモ・デウス」などといっているので、バイオやAIによる人類の拡張の話になるのかと想定をしていたら、想像以上に深いテーマを扱っていたのでうれしい驚きがあった。特に『サピエンス全史』を読んだ方や意識・自由意志についてどちらかというと批判的な見方をしている方はとても興味深く読めるはずである。とても長いが、先入観、特に人間至上主義が絶対的に歴史を超えて正しいものだという思い込み、を外してからじっくりと読んでほしい。お勧め。
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『サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/430922671X
『サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309226728
『ホモ・デウス 下: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227376
『神々の沈黙』のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009780
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大著「サピエンス全史」で、認知革命・農業革命・科学革命という3つの革命から、人類の歴史を斬新な観点からアップデートしたユヴァル・ノア・ハラリの新著。本書では、主にAIとバイオサイエンスを中心とした新たなテクノロジーがどのように人間を変えていくのかという予言的な洞察が語られる。
前作の「サピエンス全史」と比較すると、本書は確実に異論を巻き起こすことは間違いないように思われる。というのも、本書で描かれるテクノロジー、特にAI技術に関する記述はいわゆる「シンギュラリティ論者」が語るような、万能の存在として描かれている節があるからである。ここ数年、「シンギュラリティ論者」に対するAI研究者の側からの反駁として、AIは決して万能な存在ではなく、人間の生存を脅かす存在にまでなるというのは妄想に過ぎない、という意見が提起されている。そうした議論を踏まえてみると、著者のAIに関する理解というのが本当に正当なものなのか、という疑義を呈さずにはいられない。
ただし、そうした点を除けば、生物学・遺伝子学・科学哲学・脳科学・経済学等の様々な学問領域をすべて歴史という軸で徹底的に見つめ直し、そこからテクノロジーが発展したときの社会の姿を予測する、という著者のアプローチは極めて真摯な歴史学者のそれであり、我々が次の社会を考える上での重要な補助線になるのは間違いがない。
余談だが、この手の本にしてはユヴァル・ノア・ハラリの本はリーダビリティが高く、読みやすいと思う。面白い本だし、あっという間に読んでしまった。
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ホモ・デウス 上」今までは神頼みだったことを科学の力で実現できた今は人間至上主義とも言える世界だが、信じられているほどには人間と他の動物に大きな違いがないこと、科学と宗教の役割がとても近いことを指摘し、人間至上主義の次世代の常識が現れる可能性を提案する本です
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これからの時代はテクノロジー、データ至上主義、人工知能、アルゴリズムが占めるようになるというテクノロジー主体になるという話だ。人間は神性を獲得するという恐ろしい世の中になる。やはり未来を見通す目は必要だ。知識=経験*感性、バイオテクノロジー、不死と至福と神性の獲得、遺伝子工学、ブレインコンピュータインターフェース、科学とテクノロジーの進歩を中心に考えて行かなくてはいけないと感じた。これからの未来は凄い世界が待っているはずだから。
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1年弱積ん読だったけどやっと読んだ
スゲーな
サピエンス全史の余韻なんだけど薄まってないんだよね
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「サピエンス全史」同様、この人は本当に語り口がうまい。人類が繁栄した原因など、自説の証明は省かれていたりするのだけれど、それも計算の内だろう。頭が良い人の文章は読みやすい。
霊性という言葉はピンとこなかった。訳注が欲しい。
宗教の定義は既にこの本で書かれているものが一般的なのだろうか。そうでなかったら、強いミームを持っていることを祈りたい。
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第4章
ホモ・サピエンスは、動物と違い、三重の現実の中で暮らしている。主観的事実、客観的事実、共同主観的事実の三つだ。
共同主観とは、組織に属する者全員が、ある虚構を真実だと認識することである。国家や宗教、企業、成績がそれに該当する。これらのものは実は実体のないものであるが、現実にあると思い込むことで、人々は同一の目的を共有することができ、他者と協力関係を結ぶことが可能になる。
共同主観的事実を文書によって共有することが可能になったとき、厖大な数のホモ・サピエンスが協力関係を結べるようになり、地球の支配者に至る道を歩み始めた。
しかし、共同主観的事実はあくまでも虚構であるために、権力者はこれを自らの都合の良いように書き換えることができる。虚構を現実だと思い込んでいる人々を、虚構(=国家、宗教)のために自らの人生を捧げるように仕向けることができる。
虚構は団結のための道具であり、真実だと思い込んではならない。
第2、3章
かつて人類はアニミズム的思考のもと、動物と平等に暮らしていた。しかし農業革命以後、家畜という存在が生まれた。人類が動物を家畜として支配して良い根拠として宗教が誕生した。宗教の中では人類だけが永久不滅の魂を持つ者として存在し、動物にはそれが無いとされたため、人類は家畜の所有を神に認められた。
その宗教も科学の進歩により無力化した。魂などというものは存在しないし、動物にも感情があるとしたら人類が動物よりも優位に立つ権利などあるのだろうか?何故人類は動物を支配し続けられたのだろうか?
二足歩行や道具制作能力に秀でていたからだけではない。人類だけが持つ特殊な能力とは、全くの他者と協力関係を結ぶことができる力だ。人類は協力によって国家や経済の仕組みを作り上げた。
共同主観(架空のものへの信仰を共有する能力)によって国家、惑星規模での団結が可能であるからこそ、現在まで人類はこの地球の支配者でいることができている。
第1章
人類は飢饉、疫病、戦争を克服することができた。
次に人類は不死、幸福、神性(身体を自由に作りかえる能力)を欲するようになるだろう。
この予測は、これまでの人類の歴史から立てられた。
しかし、過去の事象を基に一つの未来を予測することは、別の未来の可能性が存在することに気付くきっかけにもなる。(これが歴史学の醍醐味でもある)
そこで筆者は人間至上主義の破綻を予測する。
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サピエンス全史に続き、こちらも最高に面白い。おそらく内容的には「想像の共同体」を明確にして焼き直しているだけなのだが、圧倒的に理解しやすく、歴史、科学的な事例が豊富で読み物として面白い。文章構成能力、語り部としての能力が非常に高いと思う
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戦争、飢饉、疾病が、統計を基に減少している事を説明され、納得。でも、異常気象の頻発等考えると、将来は、予測不可能かも。ベルリンの壁が無くなる事やソビエトの崩壊等、想像を超えた現実が起こったから。
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筆者の知識レベルが高く理解に時間がかかることがしばしば。その分、視点が新鮮かつ考察が濃い。人類の歴史踏まえ、今後の人類の歩みについて、事実と筆者の考えを述べるのが主な内容で、個人的にはとても面白いと思った。内容や単語は難しいが例えが多く、書き方が巧みで文章として読みやすい。得られる知識も多いのでがんばって読んでみるのをオススメしたい。
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<目次>
第1章 人類が新たに取り組むべきこと
第1部 ホモ・サピエンスが世界を征服する
第2章 人新世
第3章 人間の輝き
第2部 ホモ・サピエンスが世界に意味を与える
第4章 物語の語り手
第5章 科学と宗教というおかしな夫婦
<内容>
『サピエンス全史』の著者が、人類の未来を語る本。その視点が新しく、一つ一つが目を見開かれる感じである。彼に言わせると、人類の脅威であった、飢饉と疫病、戦争もその問題は解決されつつあるいう。今後の問題は、不死と幸福、神性の獲得が目標だそうだ。こうした巨視的な視点はなかなか持てないので、肯定的であろうと否定的であろうと読んでみる価値はある。
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サピエンス全史を読んでいないので、全体的に「なるほどなぁ」と思いながら読めた。他の書評を見ると、前半はサピエンス全史と重複するらしいので、すでに読んだ人は飛ばすか、流し読みでいいのかも。
歴史は同じ過ちを繰り返さないように学ぶもの、と思っていたが、新しい見方を手にするために学ぶもの、という考え方は新鮮だった。
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2018.10.14読売書評
サピエンスよりも強く賢い存在が生まれたら、人間の存在意義は?
地球で好き勝手に振る舞っていいのが、地上最高の知性ある生命というヒューマニズムのよりどころが、今度は人類を追い詰めていく。
動物が人間に屈したように、人間も超人に屈したのか。
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人類のこれまでの歩みの現実と虚構のひずみをあぶり出す、実にショッキングな内容。読みながら何度か絶望感を覚えた。未来について思いを馳せて語るより前にまず一度、向き合うべき一冊。下巻は果たして希望を抱ける内容なのだろうか。汗
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サピエンス全史の著者による続編のような内容です。前作ではホモ・サピエンス(人類)の誕生から現代までの歩みを、希に見える慧眼によって斬新な視点から我々に提示してくれまたが、今作では副題にあるように21世紀のテクノロジーと人類の未来がどうなっていくのかの可能性について、現時点での最先端の研究成果を俯瞰しつつ、提示しようという内容です。上巻では、未来を見るために歴史・過去の歩みを振り返ろう、ということでかなりの紙幅がサピエンス全史と同様の内容になっています。サピエンス全史を読んでいれば大部分は飛ばし読みできるかもしれないし、理解が深まるでしょう。逆にサピエンス全史を読んでなくて本書を読み始めても問題ない。あと、本書の特徴は「人間の意識・心」とは何なのかについての考察にかなりのページが割かれている点です。現代の研究は人間の心についてどこまで迫っているのか、についても知ることが出来るという意味で非常に興味深い。人工知能・AIの登場が人類の未来に重要な変革をもたらすだろうという意味で、人間の「意識」「心」が何なのか、ということと人類の未来と大きくかかわるのかもしれない。