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乾禄郎さんの時代物はパラレルワールド物の「機巧のイヴ」しか読んでいないので、正統派の時代物は初めてだったが、面白かった。
500ページ超、文字も小さめで「途中で挫折するかも」と思いながら読んだのだが、読み始めてみれば一気に行けた。
朋輩を助けるために上役を斬ってしまった柘植定十郎。
その上役が藩主のお気に入りだったために、藩主から上役の弟に仇討ちが命じられ、定十郎は逃亡の旅に出る。
上役の弟を返り討ちにし、更には逃亡中に出会った座頭・杉山和一を殺して入れ替わったところから、定十郎の人生は予想も付かない方向へ転がって行く…。
人の人生はちょっとした行き違い、ほんの少しの時間差でこれ程変わるのか。
定十郎の人生は、本来なら無足人として貧しく誰からも気にもされない、そんなささやかなものに終わっていた筈。だがその代わりにこれ程の重石を抱えることもなかった筈。
定十郎は人を殺したが、一方で鍼医として沢山の人も救い、更には自身が得た技術を惜しみ無く多くの弟子に伝え医学を広めていく。
定十郎の為に不幸になった者もいるが、幸せを掴んだ者もいる。
定十郎の弟子になる兵庫介もその一人だ。
何を以て人の善悪を判断するのか、幸不幸とは何か。
ここまで極端ではなくとも、意識的にしろ無意識にしろ人を傷付けない人はいないし、一方で人に救われることもある。
犯罪を犯せば悪人で善行を行えば善人と決めつけられるほど人間は割りきれた存在ではないだろう。
人とは、或いは人の世とはこのように複雑に絡み合ったものかも知れない。
そしてそもそも定十郎をこんな数奇な運命へ送り込んだ津藩の西嶋八兵衛はともかく、生駒藩主の高俊の何と的外れなこと。もしかしたら現実逃避していたのかも知れないが、藩主がこれでは救われない。
仇討ちの連鎖、父から子へ、更にはその子へ、その連綿と続く憎しみや執念、しがらみを断ち切ることは出来ないのか。
冒頭、巻中、そして最後に出てくる八丈島送りの男の物語が誰のものだったのか、それが分かった時は何とも切ないような虚しいような、でもやっと終わりが来て良かったような。
定十郎と島送りの男、二人の人生を通してこうまでしても人は生きていかねばならない、その重さを感じた物語でもあった。
恥ずかしながら読み終えて初めて、杉山検校が実在の人物だと知った(勿論入れ替わりはフィクション)。生駒藩の生駒騒動も実際の事件らしいが、更に生類憐れみの令と絡め、こんな風に物語を膨らませる乾さんのお手並みに感心した。