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村上作品としては珍しく纏まったのではないか。元鞘に収まった、と——(夫婦愛の再生,そして新たな命の誕生)。私としては絶対"まりえ"と性交すると思ったんだけど…。最後はとってつけたように、東日本大震災を入れた意味とは?
ワクワク度的には第1部の方が上で、後半にかけて若干失速したかなという印象。でもまあ私は好きですね。
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異様で割と過酷な試練を乗り越えたのに、そのあとがさらっと終わりすぎていて、もう少し重みがあってもよかった。
自分も仕事で絵を描くので、絵に関する描写はすごくよかった。
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今まで読んだ村上春樹小説の中で一番すっきり読み終えた。彼の描く独特の世界観、好きだなぁ。
この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない。でも少なくとも何かを信じることはできる。
私は何を信じて生きていこうかなぁ。
免色さんみたいな生活、絶対真似できないけど憧れる。
騎士団長の「~あらない。」の言い回しが途中からすごくツボだった。そしてなぜかしわがれ声で脳内再生。
二重メタファーとか、ちょっと理解できないとこも多々あったけど、面白すぎて一気読み。
5年後に読んだら、また違った解釈ができるようになるかな。
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◇帯
顔のない男の肖像
つば広の黒い帽子をかぶり直し、男は去った。白い川霧と暗い森をくぐり抜け、いったい「私」はどこにたどり着いたのか……
……
メモあり。
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作者のファンではないので。。。文章は巧なのは理解できるが、この小説は何を言いたいのであろうかと思ってしまった。難解ではないので、意外とすらすらと読み終えたが、最後まで疑問が残ったままだった。哲学的であるからだろうか。「この世界に確かなことは何ひとつないかもしれない。でも少なくとも何かを信じることはできる」、最後のこの言葉は心に残った。
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前回で大きく動き出した物語、それを解決するべく主人公が行動します。いろいろな登場人物が、そのしかるべき役割を果たしていきます。そこから新しい突破点が現れ、主人公はそこに飛び込むことになります。
解決のために、危険なことに身を置くことになってしまったのですが、果たしてそれで良かったのか。物語は無事に終えることができたのですが、腑に落ちない読後感もあります。何もしなくても、結局は時間が解決しただけではないのか。いや、主人公の行動はそれで意味があったのだ。そうかね、と。そして、この物語の一番最初に出てきた未解決が解決されていないことに未消化感が残りました。うーん、後日談がありそうな終わり方でした。
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1、2部分まとめて。
私の「村上春樹が書く小説の好きなところ」が変わらずあって、それは主人公の事象に対する受け入れ方であったり、人に対する接し方である。
主人公は絵描きで、ある時から友人の父の雨田具彦(高名な画家)の家に住むことになる。屋根裏部屋には美しいみみずくがいて、そこで「騎士団長殺し」というタイトルの絵を発見したところから物語が展開していく。
パーフェクトな隣人の免色、妻のユズ、胸の小さな秋川まりえなど、登場人物も魅力的。
一見完成されている免色と、未完成な秋川まりえ(免色の娘かもしれない)の対比。
自分を導いてくれるものは何かあるだろうか。
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全4巻からなる「騎士団長殺し」全館読了しました。
村上春樹独特のファンタジーというかワールドというか、後半はどっぷり、それなんだけど、辻褄が合ってるようでもあり、合ってないようでもありますが、そこらへんはスルーしないと村上春樹は読めません。
イデアやメタファーなどの概念、哲学的な説明など私には無理です。(^^;)
ただ、この人の世界観は読み終わってみると、独自なものがあり、それは楽しむことができます。
絵画や音楽やクルマの知識が無いと楽しめないかもしれませんが、知らない部分は後から調べれるのも楽しいものです。
今では、インターネットですぐに調べられますし、音楽もYOUTUBEでほとんど聞けますからね。
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この作家の長編の作品は途中で読み進めるのが辛くなる事がよくあると思う。
これも同様だったがそこを抜けると面白さが増してくる。
最後は収まるところに収まったという感じだ。
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続きが気になったので、間に他の本は挟まずに4巻目。
雨田具彦との対面、謎の旅、まりえの独白。
第2部のサブタイトルになっているメタファーの登場。
色んな事が起こるけど、でも、なんだか、結局そういうオチ?っていう結末。回収しきれていない伏線もあるような気がするけど。
読後感は、なんだかどこかで読んだことのあるような、ザ・ハルキ節満載だったなということ。まぁ、読むほうもそれを期待しているんだろうけど。
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・村上春樹「騎士団長殺し」(新潮文庫)読了、最初に思つたのはこんなハッピ-エンドで良いのかといふことであつた。主人公と妻ユズは別れてもまたよりを戻す。よりを戻してから妊娠していた妻は出産する。生まれた女の子にはむろといふ名前をつける。常識的には自分の子ではないかもしれないのに、「生まれてきた子供が女の子であつたことを私は嬉しく思った。」(第2部下361頁)といふのである。これは村上春樹にとつて新しいことだといふ。これまでの作品で子供ができることはなかつたらしい。それ以前に、別れた女とよりを戻すことはあり得ないらしい。正に新趣向である。時代は東北大震災の数年前であつた。その時テレビで、別れた直後に走り回つた「岩手県から宮城県にかけての海岸沿いの町が次々に壊滅していく様子を目にしていた。」(同358頁)が、保育園に通ふ娘には「津波の押し寄せてくる光景を彼女にできるだけ見せないようにした。」(同362頁)といふ。「何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなのだ。」(同前)直接的には幼児に対する言葉であらうが、この一文はこの作品を貫いてゐるのではないかと思ふ。
・この作品では何かを見ることが重要なのである。主人公がイデアを見ること、免色が己が肖像画を見ること、まりえが、笙子が、そして主人公が免色の屋敷を見ること、それ以上に、主人公とまりえが雨田具彦の「騎士団長殺し」や裏の洞穴(?)を見ること、このやうないくつもの見ることによつて作品はできてゐる。それがきつかけになつて物語は進む。その結果のハッピーエンドである。散々見ておいて「何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことな のだ。」とはいかにも切ないではないか。主人公を初めとする登場人物はそこに何を見たのか。特に4枚の絵から何を見たのか。「騎士団長殺し」からは風雲急を告げる時代に生きた青年の思ひであらうか。それは隠し通さねばならぬものなのか。免色やまりえは己が肖像に何を見たのか。描いた主人公はその人物に何を見たのか。そして正しく理解できたのか。かういふのは分からない。読み手が勝手に想像するだけである。正に見ること=読むことと理解することは別物なので ある。そして、それが分からないのに「環は閉じるの?」(同333頁)といふまりえの疑問が解けるとは思へない。主人公も「わからない」と言ふ。私にも分からない。登場人物に分からないことが読者に分かるわけがない。主人公は「たぶんまだ環は閉じきっていない。」(同前)と言ふ。たぶんさうなのだらう。閉ぢたのは、もしかすると、「東北の地震の二ヶ月後に、私がかつて住んでいた小田原の家が火事で焼け落ち」(同363頁)てからであらう。雨田具彦の家とと もに「騎士団長殺し」も主人公のスバル・フォレスターの男の絵も焼失=消失した。その時、既に主人公はプロの肖像画家に戻つてゐた。さうして物語は完結する。物語も閉ぢるのである。まりえや免色と笙子もそれぞれの道を歩き出してゐた。皆が皆新しくなつたのかもしれない。これもまたハッピーエンドではないか。といふより、この長い物語は再生の物語であつたのではないかとさへ思へるのである。主人公に関して言へば、そしてまりえにとつても、これは死と再生の 物語である。最後の節は「恩寵のひとつのかたちとして」と題されてゐる。恩寵である。神や君主の愛や恵み、あるいは単に神の恵みをいふ。かういふ言葉で片づけて良いものかと思ふ。あるいは、かういふのは村上春樹らしいのであらうか。私には分からない。毀誉褒貶あれど、おもしろいといへばおもしろい物語であ つた。
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ー 「ここにあるものは、すべてが“みたいなもの”なのです」とドンナ・アンナは背後を振り返ることもなく、前方の暗闇に向かって語りかけるように言った。
「本物ではないということ?」
「本物がいかなるものかは誰にもわかりません」と彼女はきっぱりと言った。「目に見えるすべては結局のところ関連性の産物です。ここにある光は影の比喩であり、ここにある影は光の比喩です。ご存じのことと思いますが」
その意味を正確に理解できたとは思えなかったが、私はそれ以上の質問は控えた。すべては象徴的な哲学論議になってしまう。 ー
思わせ振りで中身なんて本当は何も無いのかもしれない彼の長編小説を読み終えた。まるで〈古い祠〉のように空っぽで、確かにいたであろうイデアの存在感と鈴の余韻を残して、確かに読み終わった。ある意味ではそう言えるのかもしれない、村上春樹の作品で、ハルキストはそれに興奮する。イデアとメタファーの殺される/覗くあの絵画のように、見ていて(つまり読んでいて)興奮が止まらないのだろう。
私はハルキストではないので、それを楽しまないが、楽しむポイントは以下の4つを深く考察することかもしれないが、そうではないかもしれない。
①ペンギンのストラップが秋川まりえ→免色渉→私→顔のない渡し守、の手に渡り、そしてプロローグに繋がる彼らと彼らを取り巻く人間関係の遷移。プロローグの夢はいつ見た夢なのだろう?
②雨田具彦(画家の兄)と継彦(ピアニスト目指すその弟)、と私(画家)と免色渉(ピアノ趣味)の擬似的兄弟の連環。
③免色渉にとっての秋川まりえと私にとっての室の位置付け、あるいは親子関係の因果関係。
④白いスバル・フォレスターの男=二重メタファー=私?に対する考察、あるいは単なるトリックスターか?
まぁ、今回も面白いとも言えないし、かと言ってつまらないとも言えない作品。
少なくとも今回は主人公にある点において激しく共感できず…
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1Q84の時のような厭世観や絶望感ではなくて、希望が見えるラストだった。賛否は分かれるだろうけれど、わたしはとても好もしく思った。それでも世界はうつくしい、から。
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イデアやメタファーなどの概念の理解が今一歩。自身の哲学的知識の欠如に反省させられました。終盤にきて怒涛のような展開でしたが、静かに輪が閉じた感があります。村上作品は再読するたびに、作品の色に深みが出てくる感じがします。1度目よりも、2度目、3度目...読み終わったばかりなのに、もう再読のリスト入りです。
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主人公とゆずは想像通りの展開。
まりえと笙子さん・免色さんのその後を書いたら面白そうだとおもった。
雨田息子の父親への想いは、村上春樹の父親への想いがあるような気が。
なんとなくだがわかるな。
こういう心理的な想いを語る描写は嫌いじゃない。