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身体の黒魔術、言語の白魔術 メルロ=ポンティにおける言語と実存 みんなのレビュー
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2022/08/28 09:52
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哲学者は真理を見るだけでは満足せず、真理について語る。
仮に沈黙こそが真理に対する最も誠実な態度であるとすれば、真の哲学者は人々の前に決して姿を表すことはない
他人の前に名乗り出ることのない哲学者は、果たして真理や哲学者の名に値するのだろうか
哲学者は真理に対してのみ誠実であればよいのだろうか。むしろ哲学者とは真理と他者の両方に誠実であるという義務を己にかした存在
制度化されたアカデミックな哲学研究の中で忘却されてしまっている「生き方」としての哲学の在り方を取り戻し、哲学をある特殊なタイプの行動として再定義しよう
書くことは、それ自体が生きること、特殊な発話行為(パロール)の実践を通して世界と自分自身をよりよきものへと作り替えようとするこころみ
哲学とは、根本的で徹底的な反省。根本的で徹底的な反省は、反省不可能なものの存在の自覚とその引き受けを含んでいる
本来は、具体的世界から出発して抽象的な客観的世界を構築することが科学的探究の実際の在り方であったはず
現象学が批判するのは客観的、世界を絶対視、根源視することによって生じる具体的な直接経験の世界の忘却
客観的科学に対する判断中止を遂行し、客観世界から身を退くことによってわれわれは科学的先入観により忘却されていた直接経験の世界という探求領域を獲得する。この直接経験の世界をフッサールは、生活世界と呼んだ
生活世界とは、われわれがわれわれの学以前ないし学以外の生において経験するようなそして経験されたものを超えて経験可能なものとして知っているような、空間的時間的事物の世界
★事物とは、科学的抽象によってその具体的諸特性をはぎ取られる以前の、われわれがありのままに経験している事物のこと
→☆けっきょくは、ここがやりたいんだろうな。この「事物」の現前。
★★世界と言うものは、世界とは別の個別的対象と関わる中で付随的に経験されるだけで、それ自体を顕在的な意識の対象として認識することはできないのである
→現象学が生活世界を学問的探求の俎上に載せるなら、生活世界を単に経験するだけではなく、探求の対象として主題化し、認識することができなければならない。
世界と言う地平は、存在する対象にとっての地平としてのみ意識されており、個別に意識された対象なしには顕在的に存在しえない。
つまり世界と言うものは、世界とは別の個別的対象と関わる中で付随的に経験されるだけで、それ自体を顕在的な意識の対象として認識することはできない。
生活世界は地平であり、それ自体を対象として経験することはできない。にもかかわらず生活世界を探究対象として主題化することはいかにして可能なのか。
日常生活の中では、われわれは世界の中に端的に入り込み、その中で与えられるさまざまな対象にまっすぐに
向かっている。このとき、世界の存在や世界の中で与えられている対象の存在は、われわれにとって自明の前提となっている。こうしたもはや自分がそのような��提に依拠しているということにすら気づいていないという態度を、「自然的態度」と呼ぶ
すべての反省は、生きられた世界の記述に立ち戻ることから始めなければならない
現象学者は世界から離脱する、自然的態度の中で通用している常識や各真意もはや参加しないことで、自分が属する世界、共同体の中で、異質な存在となる。
★★言語そのものとは独立に存在する実体を単に指し示したり写取ったりするものと考えてはならない。むしろ、これらの対象そのものが、言語によって表現されることで、はじめて構成されるのであり、言語抜きでは存在しない。
言語が表現している対象が、言語を離れてそれ自体として存在していると思い込んでしまう。
表現以前にそれ自体として存在する思考があると信じ込ませているのは、われわれが沈黙したまま想起することができるようなすでに構成され表現された思考なのである。
われわれは言葉によって制度化された世界に生きている。すでに形成された意義を所有していしまっている。
われわれがその中に囚われている客観的世界を「言葉によって制度化された世界」として捉え、もはやわれわれを「驚かせる」ことのないような世界を離れて「原初的沈黙」の世界へと遡行していく必要性を説いている
通常の反省により到達することのできる私の思考は、実際には「語られたコギト」である。それは実はすでに言語によって表現され構成されてしまった「観念上の私」すなわち私は私自身について反省しているつもりでも、実は特定の誰でもない私を考えている
★私がほかならぬ私自身についての反省を真になしとげるためには、一切の言葉以前にある「私自身の生および私自身の思考」との私の接触を取り戻さなければならない。これをメルロポンティは、無限のコギトと名付ける
→別棟はこれだな。この世界との無限の「接触」をするための場所
無限のコギトは世界とそこに属する存在者を対象として眼前に展開する構成する主観ではない。無限のコギトは、あらゆる「経験的知覚」が絶えず想定している「一つの全体的な世界投企ないし世界論理」、私の世界への内属という事実そのもの。
★★無限のコギトは、それ自体が世界とのわりであり、世界とは独立に存在する実体ではないということを示唆している。主観性の内奥に見出されるのは、世界から切り離された純粋自我ではなく、私-世界の関係。
世界とは私にとって一つの対象ではなく、それ自体は決して対象化されることのない「地平」あるいは「領野」。
普遍性と世界は、個別性と主観の核心に見出される。このことは世界を一つの対象にしてしまう限り、決して了解できないだろう。世界とは、われわれの経験領野であり、われわれとは世界のひとつの眺め以外の何物でもない
★言語による経験の記述とは、経験の端的な把握に後から付け加えられる二次的な作用にすぎないのだろうか。
★★つまり現象学者はまず経験をだまってみ、そのあとで自分が観た光景について語るのだろうか。そのような見方は素朴ではないだろうか。現象学者は、経験を観るためにこそまずは経験について語ることを必要としているのではないだろうか。経験を観ることに対して、経験を見えるようにすることが常に先行しており、この見えるようにすることこそが、他ならぬ語ることなのではないだろうか
→つまり、記述以前は「それが見えていない」ということかな。それを本当に見ることは、記述を通して出来上がってくることなのかもしれない。
★現象学が学問である限り、現象学的探求は、自分の頭の中だけで終わらせるわけにはいかず、現象学者は自分が超越論的態度に身をおくことによって獲得したさまざまな超越論的真理を言葉によって他人に伝えなければならない。
表現の動作の只中で、われわれの眼前にある意識の光景、すなわち世界に到来する精神の光景を見えるようにするためであった
意識は存在ではなく、生成であり、意識が高次の段階へと生成するのは行動を通して実現される
思考の唯一の現実化であるような生きた言葉とは、「語る言葉」という名で探求される現象。この言葉は、単に新しい意味を生み出す言葉ではない。ここでは意味とは精神のこと。語る言葉とは精神としてのわれわれ自身の存在を作り上げる言葉。
哲学とは、単なる認識の営みではなく、行動、とりわけ言語活動を通してわれわれ自身をある独特な存在へと作り替える主体化ないし自己制作の営み
このような経験的知覚においては、われわれは対象そのものと関わっているつもりで、実際にはすでに構成された「意義」としか関わっていない。それに対して、「対象が存在するさまや、対象が己の豊かさを私の目の前で展開するさまを見ようというただそれだけの関心で、私が対象を眺める場合、対象は一般的類型への暗示であることをやめる」。はじめて発見した光景の知覚だけでなく、どんな知覚であっても、自分のために知性を誕生を再開しているのであり、天才的発明にも似た何かを有している
★★★メルロポンティにとって最初の課題は、すでに構成されてしまった諸々の意義から成る客観的世界を離れ、固有の意味での知覚世界へと帰還すること。客観的世界の手間にあるこの原初的世界のことを、「生きられた世界」とメルロポンティは読んだ。最初の哲学的行為は、客観的世界の手前にある生きられた世界へと立ち還ることである。
客観的世界から生きられた世界へのこのような遡行こそが、現象学的還元
既存の意義により浸透されていないこの生きられた知覚世界は、自分の根拠を創造しつつある以上、まだ自分の根拠を認識することはできない。それは知性の誕生であっても、まだ知性ではない。このことを、知覚世界は、沈黙の世界であるという言い方で表現している。
★★知覚におけるゲシュタルトの「意味」は、「近くがわれわれに語り掛ける無言の言語」ないし「自然的テキスト」であり、「言葉なき論理」である。沈黙の知覚世界を認識するためには、還元により、そこに帰還するだけでは十分でなく、知覚世界は言語により表現され、開示されなければならない。
現象学的課題
1-客観的世界のうちに囚われていた経験的近くに抗して、生きられた知覚世界を発見すること
2-それ自体としては沈黙にすぎない生きられた知覚世界を万人��見えるように表現すること
→★ぼくはこの2をやっていない。沈黙のままにしてしまっている。体験しているだけはそれを「見た」ことにはならない。
★身を置いている状況を超えるような可能的なものと関わり、それにより規制の状況を変容させて新しい状況を創り出すことができる。身体のこの機能を「脱出」と呼ぶ、ここでは状況は身体にとって制約であると同時に、手段でもある。身体の機能の本質は、この居住と脱出という二つの機能を同時に果たすこと。言い換えれば、状況に居住することにより、状況から離脱することを可能にするということ。
週間の獲得は、一定の状況形態に一定の解決型により応答する能力の獲得
すでに構成された状況に主体が囚われていることと、新しい状況を構築することによって主体がそこから脱出していく可能性は、主体が身体をもって世界の中に存在するというただひとつの事態によって、そして究極的には、主体が身体をもってこの世に生まれてきたというただひとつの出来事によって同時に基礎づけられている。
→臨書で「飽きない」ために必要な要素と、人生に退屈しないために必要な要素は同じなんだろうな
語られた言葉とは、すでに構成され獲得された規制の言語。語る言葉とは、既成の言語を乗り越えていく創造的発話をここでは指している。
時間は、諸々のモノに対する私の関係から生まれる。
時間に翻弄されるがままになることも、時間を抜けだして永遠のうちに居を構えることとも異なるような、時間を本来的に引き受けるような反省の可能性
★★時間の「炸裂」や「裂開」の運動は、過去を保存しつつ、未来への跳躍を成し遂げるような、状況への居住からの脱出を同時に実現するような両義的運動
メルロポンティが過去を保存し、未来へと凋落する時間の「裂開」の運動を、内面性、自己性の、つまり反省や意識の萌芽とみなしていた
未来へ向かっての現在の爆発ないし裂開は、自己の自己への関係の原型であり、内面性、自己性を素描するもの。ここに一条の光が発する。ここでわれわれが関わっているのは、もはや自分に安らった存在ではなく、その全本質が、光の本質と同じように、見えるようにすることであるような存在
時間の「裂開」は、自分が踏破してきた過去を反省的に眺めることを可能にするような最小限の距離を主体に提供する。むしろこの距離こそが、萌芽的な主体性そのもの。しかしこの萌芽的主体性はそれ自体としてはまだわれわれが日常的にそれであるような主体でない。この萌芽的な主体をどのような方向へと発展させていくかに応じて、われわれはさまざまな種類の主体へと生成しうる。
時間の「裂開」の運動を、実存の統合と解体という二つの相反する可能性を同時に基礎づける現象とみなしている。
抑圧とは、ある企てに身を投じた患者が途中で障害にぶつかり、その障害を乗り越えることをもはや放棄すること。あるひとつの現在のうちにとどまり続けようとするという現象。
★抑圧された経験と同じように、過去になり始めようとしない古い現在。
病理的事例においては、現在は真に過ぎ去って過去になることはなく、現在にとって真に異質な未来は到来することがない。
現在にとって異質な未来が到来し、その未来と新しい関係を結んでいくことによって実存の変容をもたらすような新しい次元が創設される
時間の「裂開」が可能にする状況からの脱出は新しい状況への参加を常に伴う。離脱と参加という二つの契機の両方に支えられた行為を自由の本来的な実現とみなしている。
★ある事柄を中断することは、別の事柄を開始することである。これは言い換えれば、別の事柄の開始へと至らないような中断は、既成の状況から真の意味で脱出することはできないということ
★精神分析が患者を癒すのは、患者に自分の過去を認識させることによってではなく、分析家が患者と信頼関係を結び、患者に新しい共存の次元を生きさせることによってであると述べている、いわゆる転移のような強力な感情を主成った分析家との交流という新しい状況への参加によりはじめて、患者はこれまでの状況と距離をとり、自己を変容させることができるのだ。
★根本的反省は、私の存在の可能性として現れさせる。われわれは意識であるのではなく、自己の存在を統合する努力をして意識になるのだ。
コギトは、既存の所与を乗り越えていく超越の運動である
★超越は、既存の所存を乗り越えさせるという点では否定の作用だが、その一方で、既存の所与に支えられつつ、既存の所与から演繹的に導き出すことのできないものまで肯定するという点では暴力的な肯定の作用でもある。「約束していた以上の事柄を履行する作業」。超越の運動の眼目は、単にそれが文字通り所与を超えていくという点だけに存するのではない。それは、「事実的状況の捉えなおし」と呼んでいた。「実存が自分なりに
事実的状況を捉えなおし、変形していくこの運動を、われわれは超越と呼ぶ」。だとすれば、超越の運動にとって本質的なもう一つの点は、所与を超えていく運動が既存の所与の捉えなおしにより、自分自身の状況のうちに暗黙の地平として組み入れられていることによって成し遂げられるということ。
自分が抱いている愛が真の愛なのか偽の愛なのかは、ある瞬間に私が抱いている感情を内省することによっては、明瞭に判別されうるわけではない。
感情と言うものの本質は、われわれがそれに巻き込まれている最中はそれを明瞭に認識することができない。私がその感情の正体を認識するのは、幻滅や破滅や言葉による自覚といった何らかのきっかけによって、私がその感情を距離を置いて、眺めることができるようになったとき。
★★★はじめのうちは「生きられている」だけの感情が、時間的経過に伴う経験の構造転換により、次第に「認識される」ようになっていく過程、すなわち「生成しつつあったひとつの総合」のはずなのだが、存在と非存在ないし意識と無意識という二者択一に支配しされた思考は、このような生成の途上にある曖昧な存在や意識を認めることができず、生成の終局で得た認識をその端緒や中途に適用するという「回顧的錯覚」を冒すことで、曖昧な存在や意識を抹消してしまう
★★認識も証明もされていないこの次元の存在は、曖昧で不確実な存在様式をそな���ており、常に錯覚や誤酬の可能性に開かれている。しかしこの曖昧さは、われわれが明証を得ることを望むなら、必然的に引き受けなければならない曖昧さである。次元の曖昧さを受け入れることを拒んだ場合、つまり次元を生きる代わりに次元から身を退けてその存在を証明したり認識しようとした場合、その試みは次元そのものを破壊し、われわれをとめどなき不安と懐疑に陥らせる。
→リミナリティや「非言語状態」のホールドの話かな
私の意欲、私の意志、私の願望、私の冒険が本当に私のものなのかどうかと、私は際限なく自問するだろうし、それらがいつも非現実的で出来損ないのまがい物のように思えてくるだろう。しかしこのような懐疑自体が実際の懐疑ではないので、それはもはや疑ていることの確実性に到達することさえでっきにあ
主知主義的反省が行為を拒否することで、領野から離脱し、領野を対象化しようとする企てであるのに対し、根本的反省は、行為を遂行することを通して、あるいはむしろ「行為」として反省を実現しようとする企て。したがって、ここでもまた統合としての反省と言う観念が、すなわち「意識になる」=「自分を意識へと作り上げる」営みとしての反省という観念が浮上してくる。
ピアジェ:対象の名を知ることは、対象の本質そのものを知ることに等しい
言葉は語るものにとって、すでに出来上がっている思考を翻訳するものではなく、それを実現するもの
自分の経験を言葉にすることで、はじめて明瞭に認識することができる
★われわれはだまったまま、自分の考えを内面的に反芻することができる、そのような場合、自分の考えは言葉にされなくとも明晰に与えられており、思考は言葉になる以前にそれ自体として存在しているのだと考えたくなってくる。だが、そのように思い込むのは、すでにさまざまな経験を言語化し、それを志向の既得の次元として保持しているから
→これ自分もやってるなぁ、、、
思考は内面的なものではなく、世界や語の外に存在するものでもない。この点について、表現以前にそれ自体とで存在しているような思考があるとわれわれに信じさせるのは、われわれが沈黙のうちに想起できるようなすでに構成され、表現されてしまった思考である
われわれが日常的に暮らしている世界は、言語活動を通して形成された無数の言語的沈殿物によって覆いつくされている。たいていの場合、事物そのものについて語っているつもりで、実はすでに構成され獲得された言語の意義に即して語っており、語られた言葉を単に再生産しているにすぎない。それゆえ、「語る言葉」の存在を思い出すためには、まずはこの「言葉によって制度化された世界」から身を退き、あらゆる言葉がそこから絶えず意味を汲み取っている「原初的沈黙」の領域へと遡行しなければならない
→これは「臨書」はまさにそうだな。「みえていない
」ものを都度発見しながらでないと。世界の更新の契機としての臨書
われわれが反省を行っているのは、すでに語り語られた世界の内部においてなのだ。にもかかわらず、日常生活の中で働いているような構成された言葉というものが、表現の決定的な一歩がすでに完了してしま��ていることを前提としているのは明らかである。
現象的沈黙という言葉で名指そうとしているのは、言語を絶した何かの神秘的実在ではなく、「領野」の経験、つまり固有身体とそれをとりまく知覚世界の経験のこと。
→つまり「概念」でないところでの、ものやこととの関りということだろうな。ここに生きられた世界がある。
★原初的沈黙の領域へと遡行するということは、一切の言葉を放棄して、沈黙の深みに沈潜していくことではない。原初的沈黙の経験は、「無限のコギト」といかえられ、「死の不安や私に対する他人のまなざしの不安」といった極限状況において漠然と意識されうる
だけの「純粋な自己感情」ないし「世界についての包括的で分節化されていない把握」として記述している。
身体が運動を、魔術的に、つまり明瞭に意識しえないような仕方で実現するのと同じように、言語も表現を魔術的に実現する
言語の明晰さは、くらい地の上に打ち立てられている。
明晰さの獲得が意識にとって暗い操作を通してしかなされないこと、ここに表現の行為は宿命的に課せられている
★★われわれが表現を遂行するのは、言語によって制度化された世界の内部でわれわれが享受している安定した日常的経験が、原初的沈黙に直面することによりかき乱され、沈黙を表現して経験の不調和を解消しなければならないという「切迫」を我々が感じるからである
→ここでいう「沈黙」をフォーカシングして、言語に立ち上げる
★★しかし原初的沈黙というものは、それが言語によって表現されるまでは、確固とした存在を有しているわけではなく、それゆえ、ある意味で我々がこの沈黙に対して表現を遂行するためにその存在を前提し、その力を宛にするという仕方でしか関わることはできない
★言語と沈黙の関係は、まず沈黙を認識し、次にそれを言語へと翻訳するという単純な直進的関係ではない。表現されるものは、表現が成功したあとで、表現以前に存在していないかったはずのものとして表現の手前に事後的に措定される。
★★★言語は沈黙から生まれてくるが、沈黙もまた言語によって形成されるのである。「言葉なき経験などというものはない。単に生きられているだけのものなど、人間の語る生の中には存在しない、しかいそれにもかかわらず、言葉の最初の意味は、それが語ろうとしているあの経験のテキストの中にある」
→原初的体験における「沈黙」は、それを体験しているのみではこの「世界」には実現されていない。あくまで「言葉」にされ、客体化され分有されることでしか、その「沈黙」は、「世界」に存在しない。
★沈黙に値する経験のみでは、それは未だ沈黙でない。あくまでそれが「形象化」された時に、それは「沈黙」として、この世界に場所を占めることができる。
★根本的反省とは、主知主義的反省のように、言葉によって制度化された世界のうちに安らうことを拒否し、表現と伝達の自明性が失われる原初的沈黙の領域に遡行するが、そうすることで、ベルクソン的直観のように沈黙と合致しようとするのではなく、★★むしろ表現を通してこの沈黙そのものを言葉によって制度化された世界の只中に現出させようとする企て。
★★要するに、根本的反省とは語る言葉の遂行のことである。このようなものとしての根本的反省は、沈黙に包まれた「根源的知覚」から出発し、表現の循環的で逆説的な操作を通してこの知覚を「かつて一度も現在であったことのない過去」として構成する逆説的運動
創造的発話を遂行しようとする人間は、すでに構成された意義に覆いつくされた日常的世界を離れて、原初的沈黙に包まれた知覚世界のうちに身を置く。既存の語義により、表現することのできないこの知覚世界を表現しようとする言葉は必然的に、構成された言葉の意義を超える独自の意味的偏差を帯び、既存の語義との単純な照合によっては理解しえないものとなる。
★聞き手が語そのもののうちに近くすることのできる意味とは、語の「概念的意味」つまり語の意味ということでふつうは想定されるような、語と結びついた特定の観念んのことではなく、語の「所作的意味」であると主張する。「言葉は一つの真の所作であり、所作が自分の意味を自分のうちに含んでいるように言葉も自分の意味を自分のうつに含んでいる」。
→★般若新居の臨書とかもそうだよな。本来は、あの臨書をすることで、その概念ではなく、あそこに通底する身振りやそのエネルギーのようなものを取り込みつつ、それが結果、自分の新たなことばの萌芽になる
身体のゲシュタルト的性質。音楽や絵画において、作品を構成する個々の音や色が不可分に結びついて、一つの全体的意味を生み出しており、われわれはその全体的意味を、作品そのものの外部にある何らかの英知的存在との突き合わせによってではなく、作品そのものを知覚することによって了解する。芸術作品についてのどのような説明も、芸術作品を実際に鑑賞する体験にとって代わることができないのはそのため
★★音楽や絵画が、もし本当に何事かを語っているとしたら、最後には自分で自分の聴衆や観衆を創造し、自分で自分の意義を分泌するようになる。身体的所作や言語的所作も、それが表現として成功した場合には、「自分で自分自身を教え示す」のである。
★★表現の伝達の成功を説明する究極的な要因は、表現者と受容者との間における前もっての意味や表現規則の共有ではなく、表現それ自体がゲシュタルト的統一体としての意味を有しているという事実のうちに求められる
→【かたち】になっているかどうかということ。
★★(承前)われわれが前もってその意味や表現規則を所有していない未知の所作や表現の意味を理解することができるのはこのためである。しかしこの見解は、いかなる観点から言っても、ある特定の表現が何らかの意味を受容者に伝達することに成功するということを、伝達が実際に成功する以前にわれわれに保証してくれるものではない。あらゆる表現は、それが需要者に意味を伝達することに成功したならば、実際に意味を有してる表現が、受容者に意味を伝達する以前に、この表現は意味を有している(のだから間違いなく意味を伝達してくれるはずだ)と断言することはできない
★伝達の可能性は表現が意味を有しているという事実によって開かれるが、表現が意味を有しているという事実は���伝達が実際に成功したという事実によって事後的に確立されるにすぎな。ここにが言葉と沈黙の関係にも似た遡行的構成の関係が見出される
★★★他者による表現の需要という出来事が、表現のゲシュタルト的統一性が完成するための最後のピースになる
→これ、例えば大原治夫の写真とか、聞き書きの話者の人生とかについても同様だな。彼ら彼女らの人生が「なんであったか」そこに「どんな意味があったか」は、結局客体としてのその「人生」には内在していなくて(潜在はしている)、それをかたちとして実際に受け取った人、聞いた人との接合の中に、その意味や価値が見出され、発見されるという構図がある。つまり、彼ら彼女らの人生の意味はその形象や受け手とのコミュニケーションがあってこそ私に見出された。その形象がなければ、ひとつの側面として私が発見したその体験や人生の意味は、世界からなかったことになる。だから、自分の人生に充足感とか一致感があること、原初的世界との接触それのみで満足していてはダメなのかもしれない。それだけでは、「表現」にならない。沈黙の経験に陶酔しているのみでは「自閉」であり、その経験を形象化した時にこそ、自分が暴露されていくのではないか。またそこにこそ、自分や自分の人生が「なんであるのか」をひらいていく回路があるのではないか。自分の生や体験していることの意味は、自分によっては価値づけることが出来ない。
語る言葉を遂行することによって、発話者の実存は、いかなる自然的対象によっても定義されないようなある一つの意味の中で分極化する。すなわち、語る言葉とは、発話者の実存を構成するさまざまな部分的生がそこに向けて集約されるような新しいゲシュタルトの創出であり、そのようなゲシュタルトによる発話者の実存の再統合。
語る言葉とは、統合する言葉。このゲシュタルトの創出は、発話者単独で成し遂げられるものではなく、本質的に他者たちを巻き込むような類のもの。語る言葉、さらには語る言葉の遂行としての根本的反省が有する社会的実践
音楽や絵画は、それを構成する一つ一つの音や色と言った生の素材をいくら見つめたところで、作品全体が与えてくれる美的意味はそこから引き出すことはできない。それゆえ、絵画や音楽は、素材に依存しながらも、素材の総和には決して還元されないようなゲシュタルトの出現、意味への超越という現象が存在することを自覚させてくれる。それに対して、言語の場合には、われわれはひとつの語の意味を、語という基体を離れた観念として自分自身のうちに所有していると感じている。、、、
記号と意味が、一対一の不変の対応関係によって結ばれており、それゆえ記号が使用されていく過程でその意味が変化してしまうこともないし、記号の意味が伝達される際に話してと利き手の間で理解にずれが生じることもない。これが客観的思考が理想とする言語のイメ―ジ
→良い対話は、ここがずれてくるんだろうな。そして、そこで起こるのは、個々の生が展開する
個別具体性は、言葉によって制度化された世界、われわれを緊縛している概念の世界から身を引きはがす特殊な努力を通して開示されなければならない
20世紀の文学と哲��は、言語的に構築された概念によって覆い隠されたわれわれの個別具体的生、言い換えれば「世界についての一切の思考に先行する世界との接触」を明示化することをともに自らの使命とすることで、互いに分かちがたいものになりつつある
個別具体的生というものが、物語の中で指で指し示すようにしてしか表現できないようなものであるがゆえに
★経験を対象化する代わりに、物語の中で、指で指し示すようにして表現する言語(→【もの】として差し出すというイメージかな)
★表現されるものを、主題化するかわりに、モノのようにわれわれの前に現前させる言葉
→主観性とは一体どういうことかはスタンダールは何も語っていない。にも拘わらず、それが表現されている。
(それが何であるのかを感じ取れるように、形象化するということかな。それがなんなのかをあらかじめ記号的に整理したち、伝達するために言語記号を使用するのではなく、それが何なのかを、それぞれが解釈できる「かたち」にまでまずは言語的に構築するというイメージ。)
行為とは、欺瞞的でない仕方でこれらの葛藤を乗り越える手段であると同時に、葛藤の乗り越えに失敗し、さらなる矛盾の中へと転落する危険をもたらすもの。それゆえ、われわれは絶えず「行為」へと駆り立てられていると同時に、行為を実際に遂行することを恐れてもいる。
行為とは一種の冒険。それは決して容易なことではない。成功を保証されてもいない、だが我々が生に翻弄される代わりに生を引き受けることを望むなら、われわれは価値を実現しようと望むならば、我々は行為へと一歩を踏み出さなければならない
★★作家は、通常の意味での伝達を放棄するが、それにより伝達全般を放棄するわけではなく、ある独特な仕方での伝達を試みる。作家は離脱することにもかかわらず、あるいはむしろ離脱することによって参加する
散文が、言葉を意味や観念を伝達するための道具として用いるのに対し、詩は、言葉を審美的効果を生むための素材として一種の「物」のように取り扱う
詩とは何事も意味することはなく、それゆえ物としての自分の存在を消し去ることのない言語である。散文が言葉を使って説明や命令や侮辱といった行為をなすのに対し、詩はどんな行為も遂行しない
★★★そこでは作家は言葉によって制度化された世界から撤退し、自分の個別具体的生を表現しようとする、そこでは作家は自分と読者の間ですでに構成され共有されている概念に頼ることはできない。通常のコミュニケーションとは異なり、作家は自分の表現が伝達されることを絶対的に保障してくれるような読者との紐帯をもたない。しかし、そのような孤独のうちに身を置くからといって、作家は伝達を諦めてしまっているわけではない
詩人は時として自分でも理解しえない仕方でこの問題を解く。→錯総体
身体は意識による計算や制御を離れた魔術的な仕方で行為を実現するが錯綜体の働きは、状況から偶然的に引き出されているという性格をもつ
★適切というのが、錯総体の頭の良いところ。その状況そのものによって引き出され、読みだされるようなもの
眼球は意識による計算や制御によらずとも、状況に合わせて自発的に調節をする。錯総体もまた、じょうきょうからの促しに応じて自発的にさまざまな行為を実現する
錯総体は、知的反省とは別の仕方で理解すべき
行為と反省を両立することができないからといってわれわれは苦しむ必要はない。錯総体の働きに従って行為を遂行することが、ある意味でそのままそれを反省することなのである。反省の要求を保持したまま詩を制作するためには、制作に必要な条件を計算しなければならないという強迫観念からわれわれは解放される
大部分の人の思考は、永久に発生状態にとどまる。彼らは自分の策総体を飼いならすことを知らない。あるいはできないのです。
錯綜体を飼いならすという試みが、われわれが日常生活の中で日々遂行している月並みな行為の範疇に収まるものではないということを示唆している。この試みは、われわれをある異常な時間の中へと投げ入れる。この時間が異常であるのは、それがあらかじめ措定された目的へとまっすぐに向かう通常の行動の流れとは異なる行動の流れに属しているから
ある精神的労働、精神の自由の状態、通常の対処状態とは離れているけれど、同時に漫然と考え散らす、、、、その対象の中に精神は自分が欲望していたものを認める。
★★★そのような行動においては、行為の目的を達成するための道筋を意識的に表象してはいないが、代わりに身体が自分は何をすればいいのか知っているかのようにすべては進行する。それに対して、いまだ習得されていない行動を遂行しようとする試みにおいては、身体そのものが目的を達成するために指向錯誤する。そのような試みこそが創造的行動。
雲土は、時間と空間を身にこうむるだけでは満足せず、それらを能動的に引き受け、既成の状況の平凡さの中では消え失せているそれらの根源的意義を取り上げ直す
習慣の獲得や、語る言葉は、いずれも我々自身の存在を作り変える試みの一契機。われわれの実存の構造の変化としての根本的反省の一契機。
★錯総体を飼いならすという試みをもっぱら詩の制作の試みと同一視している
→ある種、アワイもここをしているとも言える。生命が何をどこにどうしたがっているのかを、その回路を開く感じ
しかじかの偶発時から出発し、隠れた変形をこうむるように見える。彼は一般的な対処能力の通常のじょうたいから離れるので、私は彼のうちの行為者、詩句を生み出す体系が構築されるのを見る。
★★錯綜体の発展は、詩人の内部に詩人とは別の行為者を構築する
詩人は、ある意味で事物を見てなどいないのだ。むしろ、詩人は「原初的沈黙」の領域において、訳もわからぬまま、事物の生の存在に圧倒され、引き裂かれ、この不調和を何らかの表現によって克服しなければならないという切迫の状態に置かれる。この切迫が創造の動機とされる限りにおいて、詩における声は人の声ではなく、森の声や水の声である。言い換えれば、事物の声
原初的沈黙の領域における事物の声を言葉へともたらすことは、事物そのものを言葉へともたらすことであると同時に、���れを知覚している主体自身を言葉へともたらすこと。
われわれの意識の及ばぬところで事物を知覚しているこの主体こそが、錯綜体であり、ポンティにおける身体
★★★作家が自分自身を読むことが出来ないのと同じように、画家は自分の絵をみることはできない。表現が起伏をもち、真に意味作用となるのは、他者たちのうちにおいてである。
画家は労働し、自分の軌跡を残す。そして自分の昔の作品の中に今の自分がそうなっているものを再発見して、面白がるような場合を除いて、自分の航跡を観ることを好まない。
★★★作家は自分の作品を読むことはできない。つまり作者としての自分の存在を作品を通して認識することはできない。
誠実な作家とは、自己を掘り下げる作家
作家は決して作家ではない人間と同じようには政治に参加しない。しかしそれは、作家が政治から完全に背を向けているということを必ずしも意味しない。作家は書くという行為を通して現に存在する世界に対する「批判機能」を果たしているのであり、それは離脱による参加
自尊心-他人と共通するところにない自分の特異性を際立たせ保持すること、しかし、これは他人には理解しがたい
虚栄心ー他人に理解され気に入られること。しかし他人に理解されるためには自分の特異性を壇根氏、同調し、同類としてふるまわなければならない
★ありのままの状態では感動に囚われて行動することができない。自分が味わっている感動を率直に即興的に語るという課題は、自分がこれまでもっていなかったような新しい能力を開発することを、つまり自分を変えることを要求している
ありのままの自分などという疑わしい構成物に回帰することではなく、新たな状況に適応した新たな自分になること、すでに存在する自然さに回帰することではなく、新たな自然さを創造すること
★自己についての真実とは、それを開示しようとする行為によって破壊されてしまうようなあらかじめ存在する実在ではなく、行為を通して実現される構築物
即興とは、行為と行為者がそこで同時的に構成されるような行為の生成相に身を置こうとする態度
★新たな自分を創造するという企ては、スタンダール個人の内部で完結するわけではない。新たな自分を創造することは、ここでは必然的に、じぶんと他者との新たな関係を創造すること、すなわち「自己と他人を再創造する」ことでもある。
自分を率直に語るという企てを通して、スタンダールは、新たな自分を創造するだけでなく、新たな自分にふさわしい他者たちをも同時に創造しようとする
→これが足りてないのかもな、、、
世界や事物かや他者からの自分が受け取っている新鮮な感動-それを経験している間はいかなる身動きもとれなくなってしまうような夢想ーを言葉で表現し、他者に伝達するという課題。夢想とは、反省的距離が無になってしまうような純粋な没我体験。このような体験は経験している最中にその内容を認識することも、経験を終えた後にその内容を明瞭に想起することもできない。したがって、このような体験をわれわれはどうやって言葉にすればいいのかわからない��、仮に無理やり言葉にしようとしたとしても、他人にそれを生き生きと伝達しうるような正確な表現に仕上げることは往々にしてできない
人が夢想を夢想のままに表現することができるのは、それが表現の対象ではなく、表現の動機になる限りにおいてなのだ。
間接的言語は、伝達しようとしている当の事柄を語らないがゆえに、了解されず、読者に届かない危険を冒すような言語。そのような言語は断固として行使するために、人はある意味で他人に理解されることを断念しなければならない、そのような態度をへの移行は、「もはや自分を愛することではないようなことを受け入れる」ことを含んでいる
間接的言語を断固として行使するためには、作家は自分がこの世では読まれないであろうという予測を受け入れなければならない。そのとき、作家は自らの行為の準則の中心を自己ー現世で成功という報酬を受け取ることになる自己ーではなく、真理のうちに置くことになる。なぜなら、作家が間接的言語を行使するのは、それ以外の手段では語りえない事柄を表現するためだから。
★★作家は事象そのものを語ることを望んでいるのだが、事象そのものは事象そのものについて語るのを諦めることでしか、断固として語ることができないものなのだ。この断念は、他者に承認されることをひたすら希求する態度とは一線を画しているが、しかし他方で、自分が語っているものは真理なんだから他者の承認など一切得られなくてもかまわないという開き直りの態度とも異なっている
★自分がこの世で読まれないことは受け入れるが、しかし読まれることはのぞむ
作家が真理を語るのは、孤独の只中でひとり真理を認識するためではない。作家が真理を語るのは、自分が愛する人々を世界に到来させ、世界を愛すべきものに変えるため、
人間を固有の本性をそなえた完成された存在としてみなすのではなく、不断に自己を作り上げつつある存在、つまり絶えざる統合の企てを通して、ときに自分がさしあたりその中に囚われている世界を超越し、それによって世界や自己を認識すると同時に実践的に作り替える可能性を手に入れ、ときにそのよう、、、
根本的反省とは、主体は反省を遂行している際に決しえて反省しえないものがあることを認める。しかも、その事実を反省の企てにとってのスキャンダルとみなすのではなく、非反省的なものこそが、反省を可能にしていることを受け入れ、非反省的なものの力を発動させるという仕方で反省を遂行すること
要するに、徹底的な反省は、非反省的なものを観ようとすることによってではなく、非反省的なものを使いこなうことによってなされる。自分自身を意識することによってではなく、自分自身が意識になることによってなされる
矛盾に引き裂かれ、時間に流されるがままになるような存在の仕方があり、他方、矛盾を了解し、時間を断固として引き受けるような存在の仕方がある。
主知主義的反省は、主体が非反省的なものを対象化することで、自分から切り離してしまう、根本的反省は、行為の只中で非反省的なものを使用し、それによって世界の中で自己を実現しようとする
★原初的沈黙へと遡行するためには、主体は自分がその秘密を握っていないような諸能力を展開することを、とりわけ自分が語る主体になることを要請されている。
→結局、それを語るという過程に、原初的沈黙において付与された潜在的主体が、暴露されていくということなのかな。それを暴露していく過程で(つまり原初的沈黙を観る過程で)、それまで使っていなかった能力や部位が顕現するということがおそらくは起きる。
われわれが本を読むときにインクの形態などをほとんど気にせず本の内容に没入していくのと同じように、言語による表現行為は、それが成功している場合には、われわれをひょうげんされているものへとまっすぐn送り届け、それにより言語そのものの存在を我々に忘れさせてしまう
→井筒俊彦はまさに。
詩人は、ときとして、それらの課題を目隠ししたまま、つまり意識による計算や制御によらない仕方で解決してしまう
★★発話行為においては、話し手は自分が表現しようとしている事柄の明確な表象をまだもっていないがゆえに、それがどのように表現したらいいのか知らないし、語り手と利き手の間で表現されるべき事柄が共有されているわけでもないので、それが伝達されるという客観的保証もない。にもかかわらず、われわれは往々にしてそのようなパロールを成功させる。
創造的な発話行為は、一連の発話行為の遂行と受容を通して、発話者自身を作り変えることで、発話者がより高次の統合を表現することを可能にする。自己形成の過程。
作家が自分自身の存在から遊離した「作者」という幻想を読者に演出するために利用されることもあるが、作家が誠実に「自己を掘り下げる」場合には、作家の対自存在と対他存在の分裂を再統合するための方途となる。
作家は原初的沈黙の孤独の中で作家を表現へと駆り立てている事物と身体の相互貫入の経験を、作品の中に「到来する声」として現前させることで、それを万人にとって見えるようにし、それによって、自己におけるもっとも特異なもののうちで他者たちと合致することを可能にする
★★しかし他者たちとの合致は、作家自身のうちで実際に体験されることはない、作家は自分が本当に理解されたかどうかについて、不可疑の明証を得ることはできない。作家は読者の反応などを通して、自分がどうやら作品を書く以前の自分とは違う何者かになったらしいということをただ推定することができるだけである
★★その点では、作家はどれほど遠くまで進んだとしても、自分がなしたことについての不安と懐疑から完全に抜け出すことはない。しかし「自己を掘り下げる」作家には、作者への変身とは別のもう一つの返信が恵として与えられる。それは。これまでの作家の創造行為を縮約し、作家にさらなる創造行為を促すような新しい能力の獲得である。仮に作家がこの能力についての完全な明証を獲得することができるとすれば、それがおそらく作家の究極の境地。そのような境地にいけば、もはや他人に理解されることではなく、書くこと、つまり「能力」を行使することそれ自体が自己の存在の確認となる。
→生成が目的になるということだろうな
間接的言語は、表現と伝達の成���の保証をもはや得ようとせず、了解されず、読者に届かない危険をおかすという断固たる決意によってはじめて可能になる技法であり、態度である。しかしこれは読者に理解されるこを断念し、内面に引きこもることではない。
★書くことは、他者による承認や死後の救済をもたらすから悦びなのではなく、それ自体がよろこびなのだ。能力を行使することそれ自体を悦びとしつつ、来るべき読者の到来を待ち望むこと、それは完成された能力の明証のうちにひとりで安らうファウストの態度とは異なる。
→そうなんだよな。この順序なんだよな、、、。この「到来を待ち受ける」というところ。時間差。
スタンダールは、自分がまさしく作家になるためには読者が必要であることを知っている。しかし逆説的にも、作家が読者を獲得するのは、この世で読者をえることを断念し、真理を表現することに専心したとき、つまりもはや自分を愛することではないようなことを受け入れるときなのだ
原初的沈黙がわれわれに開示されるのは、沈黙の奥底においてではなく、表現の頂点において
現象学者と他者たちとの間には、日常生活においてコミュニケーションの成功を保証している共通の概念や対象といったものがなし。その意味で通常のコミュニケーションを離脱し、、、、
★★意識の内部に超越論的主観性とよびうる何らかの事象を所有しているわけではない、それは超越論的なものを表現する特殊な発話行為の効果であり、そのような発話行為の持続的な実践を通して作られる言語的構築物
→ここだなぁ、、、。「すごいものを見た」とか言っていても仕方がなくて、その体験における感動やふれあいが「実際にここにある」と感じさせる「もの」になってないと、現前されていないと、その立証はできないし、世界や他者にとっては「ない」も同然。僕は案外、これをせずにやめてしまっていることが多いなぁ、、、。「そういうことがあった」というだけで、しっかりと「表現」しきれていない。
作家が作家になるために、パロールを遂行し、読者を獲得しなければならないのと同じく、、、
★★★真理とは、哲学者が自分の内面のうちに保持しておくことのできる所有物ではなく、哲学者が他者たちと結ぶ関係そのもののことである
→ぼくは、真理とは内面に保持しておくものだと思っていた節がある。原初的沈黙についても同様。
他者たち抜きでは真理は存在しないのでだが、真なるものに到達するには、他者たちとともにいるだけでも足りない
★哲学者は、自己と真なるものの対面から出発し、言い換えれば原初的沈黙における主観性の孤独から汲み取ってきた心理についての独自の予感を携えて、他者たちのコミュニケーションに臨む。しかしそのような姿勢でコミュニケーションに臨むことは、自分は他者たちが握っていない真理をにぎっており、それゆえ、真理の名のもとに他者たちを教え導く資格があるのだという、うぬぼれとは異なる。
★★★哲学者が孤独の中で得るのは、真理そのものではなく、真理の予感なのであり、それは表現され、他者たちとの具体的関係として受肉しない限りは、ほとんど無に等しい
→つ��り個的な原初的沈黙は、あくまでも他者との関係をにおいて発露する真理を実現するための「萌芽」にすぎない。その萌芽に向き合い、実際の他者とのコミュニケーションにまで立ち上げる努力を僕はしていない。つまり自分の捉えた原初的沈黙を他者と分有する機会を僕は育てていない。それはソクラテスから見れば、他者とのコミュニケーションにおいてしか生起しない「真理の場」を放棄しているに等しい。
★★★哲学が、真理と自己との間だけで成立するものだったなら、ソクラテスにとって逃亡はできた。しかしソクラテスにとって哲学とは、自分がその守護者となって安全な場所に安置しなければならない偶像のようなものではない。それは生きた関係の中に、その不在の現前の中に、ある。
ソクラテスは真理と自己と、他者のもとに同時に居合わせようとした
ソクラテスは、自分自身の行動以外に自分を哲学者として印づけるいかなる手段も指標も持っていなかった。彼は哲学者という存在になるために、真理と自己と他者すべてに居合わせる企てに妥協するわけにはいかなかった。
哲学と生き方の分離
自分自身が語っている事柄と自分自身との生き方との間に連関や緊張を見出し、それ自体を哲学的問題として埋めとめる機会をほとんどもたない
哲学者は、一つの身分である以前い、一つの生き方だった
距離をとって理解することだけが哲学者の氏名ではない、哲学者は、真理と自己だけではなく、他者をもまた気にかけなければならない。
行動人と哲学者は別種ではない。
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