投稿元:
レビューを見る
佐世保の小学生の女の子が殺された事件の
被害者家族、兄弟の手記。
兄のほうは、ちょっと稚拙だけど飾り気のない感じ
弟のほうは、複雑な思いがあるのだろうと思います。
文書としても、割とできていてちょっと対照的。
ある程度生な声が表現されているような気がします。
彼らと父親の平穏な今後を願ってしまいます。
投稿元:
レビューを見る
小学生女児が同級生の女児を殺すという佐世保の事件。
この本は、被害者女児の兄たちが「僕とぼく」という一人称で語る形式で書かれた、事件より前の暮らしと、事件からあとのその後について書かれている。
毎日新聞社に勤めていた被害者の父の部下である記者が書いた「謝るなら、いつでもおいで」を読んだ時の違和感が、またよみがえる。この本を書いたのも同じ方だ。
まず、本人が書いていないのに、まるで物語のような整合性のある語り口調で語られる「僕とぼく」に違和感がある。
大変痛ましい出来事だし、家族もダメージを受けていることは間違いない。
そして僕は報道に怒りを感じている。
書き手の著者はそれに対してどう答えるのだろう。あるいはどうして答えないのだろう。この本を書こうとしている立場は、兄弟にとって負担でもあったろうし、その葛藤はないのだろうか。
父親の影がとても薄いことも気になる。書かれたくないと、父が言ったのか、あるいは書かないほうが本としてのまとまりが良いと判断したのか。
書き手の色がこれだけ見えないのに、「僕とぼく」の一人称で、兄弟が自らの言葉で語ったような形に見えてしまうことが恐ろしい。(いや、インタビュー等で話は聞いていると思うのだが)
こんなにトーンが整えられた感情なのだろうか。もっと不整合でなまなましい気持ちがあるのではなかろうか。
整えられてしまうこと、そしてそれが真実の姿であるかのように見えることに違和感。
この題材で書くことを誰が望んだのだろうか。会社?
投稿元:
レビューを見る
佐世保市で起きた小学生殺害事件の被害者遺族である2人の兄の話。
『僕』は被害者の9歳上の長兄。
『ぼく』は被害者の3歳上の次兄。
著者は、事件当時に被害者の父の部下だった方。
語られることのなかった2人の遺族のその時。
それ以前の家族の話、そして、あの日からのその後。
部外者で、報道を見ていただけの私が想像することのなかった日々が描かれていました。
簡単には割り切ることが出来なかったであろう事件を、10年以上経った今、彼らは自分の人生のひとつの出来事として乗り越えようとしているようで、おこがましいですが、幸せになって欲しいと願ってやみません。
加害者は、2人からのメッセージを受け、しっかり逃げずに生きていく義務があると感じました。
投稿元:
レビューを見る
佐世保小6女児同級生殺害事件の被害者兄2人の手記。
本当に重くて読むのが辛かった。
被害者家族も加害者も加害者家族にもその後の人生があるということを改めて考えるきっかけになった。
私も子供を持って思う。大人だって弱くてダメで全てを投げ出したくなる。誰かのために大人の役割をしているだけ。
投稿元:
レビューを見る
今から15年ほど前、長崎・佐世保で1つの事件が起きた。小学6年生の女の子が同級生の少女にカッターナイフで首を切られ、死亡したのである。被害者・加害者がともに小学生であったこと、学校内で給食時に犯行が行われたこと、動機にはインターネットトラブルが関与していると見られたことなどから、事件は大きな注目を集めた。被害児童の父が、事件当日に実名で会見を行ったことも驚きをもって受け止められた。それまで例を見ないことだったが、新聞記者でありマスコミ業界をよく知る父は、自らが会見を開くことで家族を守る盾となったのだ。
被害児童には2人の兄がいた。未成年であった2人は、マスコミの矢面に立つことはなかったが、もちろん、事件は2人の人生を大きく揺さぶった。
本書は長兄(「僕」)と次兄(「ぼく」)の「あの日」、そしてそれ以降を、代わる代わる一人称形式で綴るノンフィクションである。
筆者は、被害者父の部下であり、新聞記者である。5年前には、この家族を10年取材したものをまとめた、『謝るなら、いつでもおいで』を上梓している。
本書では、加害児童の心情や動機にはほとんど触れられない。犯罪心理、あるいは児童とインターネットの関わりなどに関心があるのであれば、本書はそれを満たすものではないだろう。
だが、2人の少年が大人になっていく過程を丁寧に追うことで、被害者家族になるとはどういうことか、大きな事件に巻き込まれるとはどういうことかを考えさせ、ぐっと迫ってくる力がある。
大きな事件に遭遇したとはいえ、家族にとっては、事件以前にも人生はあり、事件以後にも人生は続く。
一家の母は、事件の数年前に乳癌で世を去っている。
父は仕事柄、不在がちだった。
家のことは、母方の祖母に頼ることになったが、おのずと兄弟にも家事負担はのしかかった。年の離れた長兄はそれに反発し、早くに家を出る。残った次兄は妹と親しく、加害児童を含め、女児の友達とも顔見知りだった。
一口に被害者家族とは言っても、性格も違えば受け止め方も違う。とはいえ、自分にも事件の責任があるのではないか、こうすれば事件は起きなかったのではないかと考えがちな点は共通する。
早くに家を出た長兄は、自分がもしも家を出なかったならば事件は起こらなかったのではないかと考える。
ずっと被害女児の身近にいて、加害者も知っていた次兄は、動機に直結していたかもしれない2人の間のトラブルを知っていた。それを周囲に告げなかったことを悔いる。
いずれも彼らに真の「非」はない。けれども確かに違う道を選んでいたなら、別の結果はあったのかもしれない。だが、いずれにしてももうそれを確かめるすべはない。そしてやり直すすべもない。
これはとてもつらいことだろうと思う。
やんちゃで外向的な長兄は、事件後も親元に戻る選択はしない。車で大事故を起こしたり、詐欺にあって金をとられたりといささか危なっかしい。けれども信頼できる伴侶を得て、生活も基盤に乗る。
内向きで物静かな次兄は、事件後、憔悴しきった父を心配し、慣れ親しんだ佐世保での進学をあきらめ、父の赴任先に同行し、その地で高校に進学する。だが、事件を抑え込んできた反動で、保健室登校となり、やがて中退する。それでも別の定時制高校に通ううち、自分の人生を生き始める。
長兄は言う。
少女Aに償いをしてもらいたいとも、更生して立派なオトナになってほしいとも思わない。だって、それはもう僕の人生とは切り離された話だから。
あの日を境に僕は決めたんだ。
さっちゃん(注:被害児童)やお袋が生きられなかった分まで人生を謳歌しよう。
と。
次兄は言う。
(加害者が)謝罪にくるなら拒まないし、「普通に生きてほしい」と思ってる・・・(中略)「普通に生きてほしい」っていうのは、許しの言葉とは違う。普通に生きる、っていうのは、「しっかり生きろ」、「そこから逃げ出すな」っていうぼくのメッセージだ。
今、ぼくは自分のことで手一杯になっている。いろんなことが解決したわけではないのだけれど、少しずつ解き放たれて、自分のこれからのことに気持ちが向かっている。
と。
向き合い方はそれぞれだが、いずれにも共感するところはある。そして、若い2人が、事件だけではない、自分の人生を生きることを、陰ながら応援したいと思う。
自分の足で先へ進もうとするのはやはり若さの力であるのだろうと思いながら。
人は時に理不尽な不幸に襲われる。その時にどうなるのか。どうするのか。
さまざま考えさせられる1冊である。
投稿元:
レビューを見る
被害者の2人の兄、僕とぼくの日記風エッセイから、深く考えさせられた。
○そのときキミはどうしていたの?厚底ブーツの彼女に聞かれて、ぼくはぼくのことを話していいんだと、ようやく気がついたんだ。
◾️受け止めることは自分と向き合って、言葉にすること。
○殺害した少女には普通に生きてほしい。でもこれは許しの言葉と違う。しっかり生きろ、そこから逃げ出すなだ。あの子のためというより、ぼくが平穏に暮らしていくために。
◾️自分と向き合ってでた言葉だろう。正直でかっこいい。
投稿元:
レビューを見る
報道されない被害者家族の苦しみを知ることができる。きっとこの本には書かれていない様々な大変なことがあっただろうと想像できるが、終盤の「僕」と「ぼく」の力強いことばで、こちらまで励まされる。
同じ兄弟でありながら、年齢とその時の環境で考えていること感じていることが異なっている様子を、リアルに書き分けられておりぐいぐい引き込まれた。
報道されている事件のかげには、被害者家族や加害者家族また事件関係者の暮らしがあり、それは事件の後も続いていく。当たり前のことに気付かされた。
投稿元:
レビューを見る
この事件のレポとしての視点に加えて、大事なことを受け取れた気がするいい本だった。ちゃんと残る、伝えたいことがあって、伝わる本だった。読んで良かった。
投稿元:
レビューを見る
僕(兄)とぼく(弟)の物語が交互に描かれている。悲しい過去を経験してもそこから歩き出して今を生きている、強いなと思った。人は誰しも弱い生き物だ。作中で弟さんも自分は弱いと語っている。しかし、自分の弱さを自覚できる人は強い人なんじゃないかと私は思う。そして傷ついた人がかけて欲しい言葉は必ずしも優しい言葉だけではなく、誠実な厳しさのある言葉かもしれない。それを見極めるためには知ることが大切だ。最後にオトナになることは子供時代に別れを告げることとイコールではないということ
投稿元:
レビューを見る
こんなに読書に没頭したの久しぶり。一気に読んでしまった。
被害者の2人のお兄さんが、加害者を責めるのでなく、それぞれに自責の念に苛まれているのがつらい。
懲罰感情ではなく、許しとも違ったかたちで、加害少女の更正を願う想いに胸を打たれた。
でも人間て、どんなことがあっても生きていくんだな…。
投稿元:
レビューを見る
p204
「そのとき、キミはどうしてたの?」って。
p214
自分が傷ついているー。
不思議なことに、それを知って、僕は少しだけ生きやすくなった。つらい記憶は、やはりつらいものとして受け止めていいのだし、逃げられるのであれば、逃げたいだけ逃げてもいいんだって。
p224
彼女はたやすい共感も、僕を憐れむリアクションもしなかった。その話をしたあとも、普段と変わらなかった。
p240
被害者が人並みに暮らすことが、どれだけ大変なことなのか。当事者となって、それがよくわかる。
p244
誰かを好きになることは、誰かに迷惑をかけることでもある。それでも、そういう負荷をかけなければ、人生って前に進まないのかもしれない。そのときに、彼女の誠実な厳しさは、ぼくを助ける糸口になる気がする。
p251
でも、今こうして「親」になってみて感じるのは、オトナっていうのは子ども時代に別れを告げるんじゃなくて、だれかのために、オトナの役割も引き受けるってことなんだろうな。
だれかのために、オトナになる。大変だけど、悪くない。
投稿元:
レビューを見る
「自分は傷ついている」と認識し受け止めてようやく「ぼく」の人生はリスタートした。ふとした友達の言葉で。周りの大人が誰も言ってくれなかったこと。
若くして母を亡くし、ある日突然妹を同級生に殺される、そんな彼ら兄弟の喪失のその先を希望の光が見える終わりで知ることができて、ほっと胸を撫で下ろしている自分がいた。大人になりどこかで生きているのだろう「あの子」は果たしてこの本を読んでいるのだろうか。読んでいて欲しいと心から願う。
投稿元:
レビューを見る
佐世保事件被害児童の兄は当時中学生。学校の先生はヤフーニュースのコピーを手渡し読みなさいと言って、そこで初めて妹の死を知る。もっとやり方ないのか。
投稿元:
レビューを見る
小説よりもインパクトあり。事実は小説より奇なり。と言っては、被害者の方々にとても失礼と思いますが、ミステリーや小説だとしたら、面白く読めたのに現実に起きた事だと知っていて読むと、やりきれなさや何故、このご家族ばかり…と非条理に思う。被害者ご家族の悲しみを改めて目の当たりにし、加害者になってはイケナイ。悲しみの被害者家族を作ってはいけない。と、強く思う。
投稿元:
レビューを見る
被害者の家族である二人を「ぼく」と「僕」という主語を使うことで、事件に対して二つの視点で描かれています。
想像を絶するような理不尽に対し、どのように考えて生きていったのか。
読み終わった後、もし自分がこの立場になったらどうなるのだろう…、と考えさせられる内容でした。