紙の本
カッコつけるのをやめてみては?
2021/12/31 22:22
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投稿者:昏倒遊民 - この投稿者のレビュー一覧を見る
まずは「何がカッコいいのかなんて、人それぞれの主観に過ぎないよ」で片付けられてしまいそうなテーマに、敢えて挑んだ著者に敬意を表したい。ボリュームも新書版とはいえ500ページ近くと、かなりの力作である。
だが文章の構成に難があり、非常に読みづらい。また言いたいことが多過ぎるのか、衒学趣味が強過ぎるのか、色々詰め込み過ぎて骨子が何なのかよくわからない。個別には興味深いことも書かれているが、評論としてしっかりまとまっているとは思えなかった。
むしろ興味深いのは、内容がシモがかる第9章で、卑猥な表現のある文献を「引用するのが憚られる」と断りつつしっかり引用するあたり(p.395)など、平野先生のムッツリ性が遺憾なく発揮されており、断然文章に力がある。これぞ著者の真骨頂なのではないだろうか。
あまりカッコつけずに素の自分をさらしてくれたほうが、読者としては面白く読めそうだし、著者としても新境地を開けるし、良いことづくめなのではないだろうか。余計なお世話だろうが。
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平野先生のカッコよさについての思考をひたすら追っていく本。かなり長めで読み応えがあります。最終章に議論のまとめがあり、正直大変助かりました。
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「カッコいい」という言葉は所謂流行語といってよいのだろう。本書でも起源としている説でもせいぜい戦時中の軍隊起源説が一番古く20世紀第2クォーターまで遡るのがせいぜいのようである。しかし、流行語であるがゆえに最近ではちょっと前のように頻繁に使わなくなったように思う。「カッコいい」と言う言葉に少しくダサさ感が漂い始めているように思えるのである。最近ではcoolなんて言う英語がそのまま、使われている様である。まあ、だからこそ『「カッコいいとは何か?」がわからないまま、20世紀後半の文化現象を論ずることは不可能である。』という話になるのであろう。本書は「カッコいい」を通しての戦後日本の文化論となっている。
カッコいいは単なる外観のカッコいいだけではないというのが著者の主張である。生き方がカッコいい、見た目は平凡、滑稽に見えて本質は優れていてその差がカッコいいという見た目だけではなく本質的なもの。すなわち 、「カッコいい」を考えることは、いかに生きるべきかを考える事になるのである。
そういう意味もあってか、本書ではナチスの制服をカッコいいとする事に批判的であるのだが、例えばプラモデルやウォーゲームの世界でのドイツ軍どうだろうか。ニッチな趣味の世界であるためにマスコミに晒されることがあまりないためか、タイガー戦車がカッコいいといってもナチズムと結びつけと批判されることはあまりないように思う。ゼロ戦にや大和にしてもしかりである。私らの世代(50年60年代)の理科系少年はこういった機械るいに痺れるようなかっこよさを感じていたように思うし、それは少しく大人になっても同様である。
本書では、音楽やファンションのなかでの「カッコいい」がかなりのボリュームで論じられているが、違った側面からの考察も面白いかもしれない。
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不発。著者とテーマの組み合わせが「カッコいい」と思い、期待しましたが、なんか惜しい感じ。確かに著者が「小説以外では、この十年来、私が最も書きたかった本」というだけあって、古今東西の文献から「カッコいい」の成立を見出して行こうという意欲はビンビンに溢れていて、新書にしてはめちゃ分厚い本になっています。「カッコいい」まわりのあらゆる論点も網羅されている感じで、また組み立ている論旨を明確なのですが、それでもなんか「入り口」辺でぐるぐるしている印象でした。これは本書でも言及される「真=善=美」が概念なのに対して、「カッコいい」が「しびれるような」「体感」であるという推論が、「カッコいい」について語ることを難しくしているのかな、と思いました。と、いうことで極めて冷静になろうとしている平野啓一郎が、実は自分は「何をカッコいいと思ってきたか?」という部分が一番イキイキしているような気がしました。でも、AIが進行し、人間の存在は「体感」で価値づけられる時代が来たら、「カッコいい」はとても重要なテーマとして、さらに語られなくては、とも思っています。
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かっこいい存在に「真・善・美」を期待。
「しびれる」という体感。
今日のテクノロジー「面倒くささ」を駆逐。
eコマース、ネット配信。
ファッション「着やすさ」。
かっこいいものが変わっていく。
カッコ良いものにはお金がかかる。
スポーツカーがかっこいいと思わない人は
面倒くささを感じる。
ファストファッションでもいいと感じる。
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人によって時代によって、対象も価値観も変わる「カッコいい」という概念を網羅的に説明しています。「カッコいい」は広く使われている言葉ですが、どの対象に使うにしても共通している契機があり、その一つが「しびれる」という体感。
哲学的に思考や経験だけで論じることがメインではなく、歴史的、言語的にどのように「カッコいい」が使われるようになったのか、外国語との比較など事実に基づいた考察も多く書かれています。
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立ち読みした。
「カッコいい」をプロパガンダに活用して「ライブ」で人々を熱狂する仕組みを発明したのがナチスだとか。「カッコいい」をトップダウンの洗脳装置にしてしまえるのは恐ろしいことだ。現代でもプーチンや習近平、オバマさん(日本に住んでいるとオバマだけ「さん」を付けたくなる心理もそうだ)にもその国の人々に対してそういうプロパガンダが働いている。
ほかにも「カッコいい」を際立たせるのは、その対局にある「ダサい」を避けたい層の広がりがあるから、という指摘が扇動的に感じた。「カッコよくなりたい」より「ダサいと言われたくない」方が圧倒的多数だからだ。日本人の多くは「同調圧力」に息が詰まる思いをしているが、この空気の正体がこの「フツーでなきゃいけない(ダサいと言われたくない)」だと僕は考えている。
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今を生きてて、これを読まないなんて勿体ない。
カッコいいが生む「しびれ/体感価値」による凄まじい魅力とその危険性について。
音楽、ファッション、マーケティング、政治、美術史、欧米史…etc.議論は縦横無尽にジャンルを駆け巡る。「暇と退屈の倫理学」に並ぶ、現代社会を解剖する新しい視座をくれる大作。
ビジネスパーソンとして、一人の日本人として、本書をキッカケに、「カッコいい論」もとい「カッコいい学」が深まることを期待。
というか、経営戦略・マーケ戦略視点で、「カッコいい」を深堀りしたい。
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ナチスのデザイナー ヒューゴーボス
ドイツがファッションの中心になれなかったのは?
歴史的に小国に分裂してきた期間が長い
倹約的な北部とリッチな南部といった差異がある
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もっと今の日本の「かっこ悪さ」をこき下ろす内容かと思えばさにあらず,極めてまっとうに「かっこよさ」をその起源,歴史から現在までを分析した内容だった.「かっこよく」あることは難しいなあ.
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本屋で見かけて即購入を決めた本。タイトルの通り「カッコいい」という言葉やそれが表す概念について丁寧に考察した本です。語源についても「格好いい」と「カッコいい」との意味の違いというところから、他の似た概念を表す言葉を日本語、他の言語も含めて考察「重ねています。言葉の使われ方や表すものを理解する上では当然文化や社会の歴史についても考えることが必要ですが、なかなか自分でそこまで調べることはできないので、なるほど!と感動しながら読み進めました。非常に面白かった。
私自身、「カッコいい」生き方をしたい、というのが職業選択やキャリアにも通じている発想なので、自分のことを内省しながら読むことができたのも楽しかったです。
いくつか考えを深めたいと感じた点も。
◆若者の新たな「カッコいい」は成り立ち得るか、という指摘
「カッコいい」という言葉は、20世紀後半の高度経済成長の消費経済の中で一気に普及してきた言葉であり、その言葉や文化の担い手は古い文化に対抗する新しい世代だった。人口構成がピラミッド型であった時代はそれで良いが、釣鐘型となった今、若者の新たな「カッコいい」は古い世代に取って代わることができないのではないか。もしそうだとしたらそれは社会的に何を意味するのか、という話。
◆社会貢献や社会課題解決への参加が「カッコいい」という考え方について
個人的にこの点について考えたくて読んだという部分も大きいのですが、「ノブレスオブリージュ」の視点からの考察しか触れられていなかったのは少し残念だった。
ミレニアル世代以降の世代の社会貢献意欲、社会課題解決志向の強さはよく指摘されますが、この世代的な志向特性の背景にあるのは「ノブレスオブリージュ」的な発想とは少しずれるところもあると感じる。むしろ上述の上の世代との対決、という文脈で捉えて得るものではないか。
「カッコいい」には「マネしたい」と思わせる同化・模倣願望を引き立てる力があり、だからこそしばしば政治利用される可能性が常に存在する。この点に私たちは自覚的であらねばならない。
だとした時に、NPOやソーシャルビジネスの担い手がその活動への参加や寄付の呼びかけを行う時に「カッコいい」を活用することにどういう意味があるのか。
本文では「倫理性を問い続けること」と軽く触れられていたが、この点について担い手自身が自覚的であり続ける必要がある。
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「かっこいい」とは何かを書いた本である。500ページ近い論文と思った方が良いであろう。内容は多彩で芸術、音楽、文学、言葉の語源の追求、服装などなど、ありとあらゆる「カッコイイ」に言及し、その奥を探っていく。その博学さ、その議論の面白さ。夢中になって読みました。これは平野さんの代表作と言っても過言ではないと思う。「かっこいい」の影響力の解説と政治利用。「かっこいい」には力がある。イメージとしてはメディアに似ていると思った。だから、それをナチスは取り込んで支持者を増やしたという話しがおもしろかった。
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読み切れなかった…!モッズの辺りで時間切れ。書いている間本当に楽しかっただろうなとほっこりした気持ちに。
主観的と思われる概念をデータや取材でこれ程までに言語化する力よ。文章を書けるようになりたい。
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今日でも私たちは、ルーヴル美術館でドラクロワの≪サルダナパールの死≫の前に立ったり、ブルーノ・マーズがコンサートで≪Just the Way You Are≫を歌い出したり、ワールドカップでメッシがスーパーゴールを決めた瞬間などには、激しく「戦慄」し、「しびれる」ような生理的興奮を味わう。何かスゴいものを目にした時には、「うわっ、鳥肌が立った!」と、その証拠に服の袖を捲って、わざわざ見せてくれる人までいる。
ドラクロワは、美を端的に、「戦慄」をもたらす感動の対象と捉えていた。「戦慄」があれば、つまり、それは美なのだという彼の確信は、それだけ、芸術家としての自らの感受性に自負を抱いていたからだろう。この時代、美に対して崇高という概念は、このような「戦慄」的な体験を指していたが、ドラクロワは飽くまで、美に接した時の輝かしい喜びの根底にある「戦慄」について語っている。
生理的興奮自体は、私たちの身体に基本的条件として備わっている。その上で、その反応と状況を関連づけながら、私たちは何を感じ取ったのかを自覚する。
イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、それを「経験する自己」と「物語る自己」と二分して呼んでいる。
鳥肌が立ったのは、なぜだったのか? 美しいという感動だったのか、スゴいという衝撃だったのか、気持ち悪いという嫌悪感だったのか? その意味づけには、ジェームズ=ランゲ説のような一対一の対応関係があるわけではなく、常に環境の解釈次第で、しばしば誤解とも言うべき混乱が生じる。
しかし、美の場合と同様に、個々の「経験する自己」の生理的興奮は、実は、「カッコいい」という言葉に一元管理されるべきものではなく、「物語る自己」は、もっと違った情動と解釈すべきだったのかもしれない。
イギリスのHR/HMの一源流であるブラック・サバスというバンドは、当初は別の名前だったが、デビュー前にホラー映画『ブラック・サバス』(一九六四年、マリオ・バーヴァ監督)を見て、人に恐怖感を与えるロックという斬新なコンセプトを思いついた、という有名な逸話がある。
実際、≪ブラック・サバス≫(一九七〇年)という、バンド名と同名の曲は、暗く虚ろな不協和音と重低音のリフ、サタンに追われる恐怖を綴った歌詞が一体となって、何とも言えない、ゾッとするような雰囲気を醸し出している。
ブラック・サバスは大ブレイクしたが、しかし、なぜ恐い音楽が、「カッコいい」と熱烈に支持されるのかは、合理的には理解し辛いところがある。
この時、「経験する自己」の生理的反応は、一種の不安や恐怖だったのかもしれない。つまり、「吊り橋効果」で、観客を緊張させ、ドキドキさせていたのである。しかし、当の観客は、ライヴが終わったあと、他のキャッチ―な曲やライヴハウスという環境、そもそもロックを聴いているという前提、メンバーのルックス、周囲の熱狂などから、その生理的興奮を「カッコいい」音楽を聴いたからだと解釈し、あるいは彼らのファンになったからだと理解したのかもしれない。
「カッコいい」存在は、これまで見てきた通り、「しびれる」ような興奮をもたらしてく���るが、その生理的反応自体に倫理性はない。「経験する自己」を反省的に、批評的に言語化するのは「物語る自己」だが、その際に、例えばファッションとしてナチスの制服を「カッコいい」と感じた鳥肌を、ナチスそのものを「カッコいい」と感じていると錯誤する可能性は常にある。
ミルトンのサタンは、この後に生まれた“美しき反逆者”像の最も洗練されたものであり、今日でも、小説であれ、漫画であれ、映画であれ、魅力的なアンチヒーローを描きたい人は、『失楽園』を丹念に読むことによって、圧倒的なキャラクターを造形することが可能だろう。
その特徴は、絶対的な権力への反抗、強い自尊心、出自の高貴さ、敗残・淪落の孤独と影、情熱、、要望の美しさ・立派さ、決してあきらめることなく挑戦し続ける不屈の意志、人望、リーダーシップ、比類ない言葉、クールさ、聡明さ、……と、今日的な「カッコいい」の内容としても、その多くが同意されるものである。
「カッコいい」人とは、社会全体で共有されるべき理想像が失われた時代に、個人がそれぞれに見出した模範的存在である。
言い換えるならば、「カッコいい」人を探すというのは、「自分探し」である。誰を「カッコいい」と思うかこそが私たち一人一人の個性となる。
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いやあ、平野啓一郎の洞察は深いなあ。そして難しいテーマも簡潔に整理されていて、それでいて何度でも読み直したい。まさにクール。この新書自体が「カッコいい」な。印象に残ったのは、カッコいい人は、カッコいい名言を残しているということ。しびれるような経験を言語化することができて初めて物語に内包されて体感されるということ。カッコいいを語るにも知性が必要なんだなあ。