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介入をしていないわけではなく、ことばにせざるをえない状況が生成されていくという介入をしているかな。ナラティブセラピーが一番というわけではなく、自分にとっての「介入」はどのような形式が適当かを知りたいし、ちゃんと構築したい。
問題の外在化というのは、ある問題が起きている原因を個人の性質に起因させてその性質を改善することを目指す(=内在化)のではなく、その問題が起きていることを、複数のネットワークが織りなす結果とみなしたうえで、そのネットワークが生じている「ナラティブ(物語)」の書き換え(既成のディスクールの放棄)、その上でのネットワークの緒り直しなどを通して、結果として、その「問題」が生じない環境形成を目指していくという志向性なのだろうな。
以下引用
発言がそのまま大事にされている。
ことばをようやくしようとするのは、ある種の力の行使
ディスコース。
学校にいくのが普通というディスコースが強いと、それ以外にある出来事や考えはわきに追いやられてしまう、学校にいけていないが、友達はつくりたいと思っているとか、
多くは苦境を語るが、その語りには苦境を形作るディスコースの影響が大なり小なり反映されている。もしカウンセらーが、それは確かに問題だねとその問題を形成するディスクールと同じ視点で会話に臨んでしまったら、その会話は、その人が苦難を感じていのと同じ文脈を再生産してしまう
相手がいまどのようなディコースの影響を受けながら話をしているのか、省みる
どんなディスコースでも、それが唯一正ということはない
ナラティブセラピーは、問題解決という方向性が、会話を実り豊かなものにするわけではないとういう立場
困難を前にした時に、それを取り除けばうまくいくと考えるが、しかし問題を同定し、それを解決することより大切なことがある
問題解決のためのテーブルからは語られない別の物語の可能性へ向けて探索しようとする
クライエントの話を聞いて、できることなら解決したいと思うことはある、しかしそんなときは、解決しようとするな、探索するのよ
セラピーを受けている人は、事件記者のような立場。問題の性質、作戦、活動など、冷めた目で、関与を示す
学校に行くことを拒んでいるものなにか、それはどんな手段を用いて邪魔をするか、そもそも、、、
絶対的な正しさの圧力に追いやられている、他の声に耳を向ける
冷めた関与は、そこで起きている事態を、その問題をクライエントの外部にある何かとして、クライエントとともに明らかにしていくこと、
熱い関与はひとを問題とみなす視点、
問題のしみ込んだ物語にそぐわない出来事や別のストーリへの裂け目が見られたら、そこを分厚くする
人を問題とみなさないナラティブセラピーの姿勢。
解決のためにわたしがすべきこと、それができていないのは自分たちに問題があるという世界観=問題の内在化���
お互いが対等であるために何が必要か、それが今は与えられていない、という言葉は、両者を非難の対象にすることをしない。今は必要なものが与えられていないという理解をつくる。何をしなければならないかから、であるためには何が必要かという軸へ
解決のために〇〇をしなければという態度→運用しているディスククール、ナラティブをそのままにしたうえで、「性質」や「態度」を改めることで、その「問題」が発生しないように、処理しようとする構え方。これは、言い換えると、対処療法ともいえるかな。問題解決型というのか。ある問題が発生したとして、その発生を部分的にとらえているような印象をうける。破綻や違和があったとして、その原因をそれぞれの個人の性質に依拠させるやり方。
他方で、「お互いが対等でいるためにはどうすればいいか、お互いに何が必要か」というベクトルは、個人の性質を改めるということよりも、問題が生じないネットワーク、そういう問題自体があらわれてこなうような関係性の在り方、取り方を探索するというニュアンスがある気がする。つまり、そもそも、問題というのが、ネットワークから編み出されているものであり、ネットワークを結びなおすこと、刷新することで、「問題」が起きないような対策をしたり、その解決にむけて部分的な調整をするといったことが、そもそも必要なくなってしまうというイメージ。パラダイムが変わるというのかな。それ(問題)を防ぐための部分的な解決策を模索するのではなく(このベクトルは、末端の性質とかに原因を依拠しがち)、その問題自体が発生しないようになってしまう、その問題がおきないネットワークが身の回りにはりめぐらされるというイメージかな。これは当事者研究との類似点がすごく多い。
これを書いていると、たとえば自分の「エネルギーの出し方」とか「劣等感」みたいなものが、場所とか、所属する物語、ディスクールが変わるだけで、おそろしく変わってしまうということを思い出す。制度に入ろうとしたり、アカデミックなところに入ろうとすると、そういうナラティブの中で生きようとすると、すさまじく何も力がわいてこない、そういう時は確かに自分を痛めつけて、鼓舞させてみたいな感じのことをしていた。でも、そもそもネットワークの編み方とか、そのネットワークを編み出す根本であるところの自分自身のナラティブ自体を書き換えたときに、おそろしく力が湧いてくるし、力が注ぎ込める場所を見つけた。本をつくるときの校正作業もそうで、あの変質的なこだわりを「おもしろい」といわれるか、「社会性がない」と言われるかは、ネットワークの問題だなと思う。それを「社会性がない」と言われ、衝突が起きてしまう状況をつくっているのは、その性質ではなく、あくまで関係性ということ。またそういうネットワーク自体を周りにはりめぐらせている、現状のナラティブだということ。そのディスクールを書き換えていく、ないしは、そのネットワークを書き換える、また環境自体もその背景を理解する、そういう双方向性の理解の中でそれが問題として浮き上がってこない、新たなネットワークが出来上がる。