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【全体の構成】
前期ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は読んだが、後期ウィトゲンシュタインの『哲学探究』や『青本』はこれまで手を付けていなかった(『論理哲学論考』(叢書・ウニベルシタス)に第1部の抄訳は付いているのですが)。約20年前にかの有名な「語りえぬものについては沈黙せねばならない」に辿り着いたときは少し感動したし、その手前で「世界がいかにあるかが神秘なのではない。世界があるという、その事実が神秘なのだ」という命題にああ正しくそのその通りだと膝を打った。正しいとか正しくないとか、という問いをしてもそれ自体が意味がない問いというものがあり、それについて哲学や論理学はそのためにあるのではないと理解をした。そして同時に、ウィトゲンシュタインはそこから転回して、後期ウィトゲンシュタインと呼ばれる思索に進んだのだということを知った。そこではおそらく形式化の限界が異なる形で示されていて、違う形で哲学を問うているのだと思っていた。ただ、それが何なのかはよくわかっていなかった。
本書は、後期ウィトゲンシュタインについて、著者の論理に引き寄せながら丁寧に説明する。各章の最後に「要点のおさらい」を置いてくれるやさしい構成で、後で見返すとこにはこの「要点のおさらい」に目を通せば思い出せるようになっている。読書案内にもそれなりのページを割いていて、手取り足取りという感じで、若干生徒の受けを気にする今どきの大学教授のような感じである。
【明確化の哲学】
本書は、ウィトゲンシュタインの哲学を「明確化の哲学」と定義する。
著者によると「明確化」は「当たり前」を疑うことことだ。「哲学とは世界観の点検である」から、「哲学者は論証により当たり前をチェックする」のだ。そして、「論証とは、大雑把に言うと、理由を吟味すること」である。「すなわち、我々が当たり前のこととして受け入れていることを単に「当たり前だ」と言ってすますのではなく、その理由を徹底的に吟味し、問い直すこと」だと結論づける。
それに続けて、「「理由の吟味」といっても色々なやり方がある」といって、そのやり方こそがウィトゲンシュタインの哲学を特徴づけるものだとする。通常の哲学においては「一般的な理論的説明を与えるというやり方」を採ることが多いのだが、「ウィトゲンシュタインは安易な一般化はむしろ有害であると考え、理論的な説明を拒否する」のである。
曖昧(不明確)なまま成立している世界(言語)の不思議について自己の世界観を明確にする。著者は、それが必要な事例として育休を取得しようとした大学の准教授である著者に対して、「教師は親と同じであり、休むことなどできない」と告げた上司である教授の言葉を挙げ、その議論に含まれる曖昧さの明確化の必要性を論じている。
「我々は不明瞭な考えを不明瞭なままに自身のコミットメントとして引き受け、そこから知らず知らずのうちにある種の感情を持つに至ったり、何らかの結論を引き出したりするということがある。ところが、そのような感情や結論は、問題の不明瞭な考えを明確化していれば、受け入れる理由のないものだったのである」
【ウィトゲンシュタインの哲学】
ウィトゲンシュタインは、ブラームスやマーラーが出入りしていたというウィーンの資産家に生まれ、最初は工学を学び、数学、数学の基礎にある哲学的問題へと関心を移したという。特に、かのバートランド・ラッセルに師事した上、第一次世界大戦に志願兵として従軍し、二十九歳にして、イタリアの捕虜収容所で『論理哲学論考』を書き上げた。ここまでですでになかなかの人生である。ウィトゲンシュタインが、大学での地位などに拘らずに自らの思考を磨き上げることに集中できたのは、この超上流階級の出自も影響があったのではないかと想像してしまう。著者はウィトゲンシュタインの哲学的態度について「正直さ」と「誠実さ」を見るというが、その点にも影響があったのではないか。貴族階級などの階級格差を是とするものではないが、いわゆる上級階層の中でしか生まれえなかったことがあることもまた否定しがたいのである。
ウィトゲンシュタインが『哲学探求』を『論考』とは異なる形式で書き上げたのは、それがその形式を要求していたからである。すなわち、思想の体系化よりも、対話などの日常的言語使用こそが哲学の対象となるのである。過去の学問的資産、しかもそれなりに高く評価されたものを捨て去ることができたのも先に述べたようにその出自によるものではなかったかと思う。『論考』では「語りえぬものについては沈黙せねばならない」と告げたが、その語る言語そのものがいかにして成立するのかをここでは手を替え品を替えて探求していく。
本書では、『哲学探求』の中の議論から、有名な数列の規則の問題、私的言語の問題、痛みの問題を取り上げる。他の有名な家族的類似やアスペクトの問題を扱っていないため、網羅的な解説にはなっていないが、その問題ではなくこの問題を取り上げたところから、著者が何を重要だと考えていて、何をウィトゲンシュタインから引き出して読者に伝えたかったのかが見えてくるように思われる。
中でも心の問題についてウィトゲンシュタインがどのように「明確化」を行おうとしていたのかが、大きなテーマとなる。「ウィトゲンシュタインは心身二元論を否定することで、物的一元論を支持するわけではない。むしろ、心身二元論と物的二元論をもたらすような「心」についての我々の物の見方自体に問題を見ているのである」という。これは、
ウィトゲンシュタインの哲学的態度が、「ウィトゲンシュタインの出発点は物質世界ではなく、意味に溢れた世界である・我々は意味に溢れた世界を生きてている」というところから始まっていることを示すものである。一方で、脳神経科学の知見が蓄積してきた中で、「ウィトゲンシュタインの心に関する議論が現代的な機能主義とどう関係しているのかは、はっきり言ってよくわからないところもある」という。
ここで、著者はウィトゲンシュタインの言葉を引く。
「私がここで言いたいのは、何かを何かに還元すること、何かを説明することは、我々の仕事ではないということである。哲学は本当に「純粋に記述的」なのである」『青色本』
その上で次のように続けるのだ。
「『探求』の議論から見えてくるのは、ウィトゲンシュタインが物的一元論と心��二元論の対立という図式を拒否し、心とは何かという問題は、我々の実践を習得することにより答えられるものだとすることである。すなわち、ウィトゲンシュタイン的観点からすると、物質の世界を出発点として、心がその世界のどこに位置づくのかという問いを立てるべきではない。我々は意味に溢れた世界を生きており、心についての実践を習得するとは、そのような意味の世界を認識できるようになることなのである」
心身二元論と物的一元論の議論は、意識の科学でもいまだ多くの人がそれぞれの持論を持つところだが、物的一元論からの心の解明は完全ではなくとも徐々に進んでいることに異論をはさむ人はいないだろうし、その進展はさらに加速していくであろうこともおそらくは共通認識となっているところである。いくら哲学的態度が、それらの議論の外に立つこと(語りえぬもの、とも言えるだろうか)ように考えられたとしても、不満ではある。
「ウィトゲンシュタインは形而上学的実在論や科学主義を否定する。しかし、その否定のポイントは「なんでもあり」の相対主義を支持することにあるのではない。そうではなく、ウィトゲンシュタインがそれらを否定するのは、これらが多様な実践を「よく見る」ことを妨げるからである」と書くが、必ずしも科学主義がよく見ることを妨げるわけではないし、軽々にはそのように言うべきものではないだろう。
「我々は不可解なものを不可解であると認めた上で、その人々に応答し、理解しようと努めるべきなのである。この意味で、「よく見る」ことこそが世界を適切に捉える道なのである」ということには異論はない。
【哲学の意味】
一般向けの書籍であることから、著者は哲学の意義を自分の世界観の点検であるとして、なぜそんなことをしなくてはならないのかという問いに対して二つの理由を挙げる。
第一の理由は、「哲学がおもしろいから」である。自分はそれをまったく否定しないのだが、なぜおもしろいのかという問いに対しては次のような答えを著者は準備する。「自分が当たり前だと思っていたことが、哲学をすることで謎めいてくる。そして、それについて更に考え続けていると、あるとき「あぁ、こう考えればいいんだ」と筋を通して考えられるようになる瞬間が訪れる。このプロセスは本当におもしろく、そこから得られる知的興奮は何ものにも代えがたい」と。それは、まったくその通りだと思う。そして、それは哲学に限らず、社会学にも宇宙物理学にも当てはまる。
そして、第二の理由は、「「よく生きる」ことにつながるから」であるという。「ウィトゲンシュタイン哲学によってもたらされる「よき生」とはどのようなものだろうか。これがこの本をガイドする問いである」という。
そして、最後に結論めいたこととしてなぜウィトゲンシュタインの哲学がよく生きることにつながるのかをまとめる。いくつか挙げているのだが、例えば、「「当たり前」の圧力にさらされたときに、単に「色々な考えがある」というような仕方で状況を理解するのではなく、自分の方が正しいと理解していること、あるいは、少なくとも相手の考えが不明瞭な像でしかなくその結論は根拠を欠く、と知っていること。これは生きてい���うえでの力となる。この意味でウィトゲンシュタインはよく生きることの助けとなるのである」とされる。
個人的には、哲学は何かのためではなくて、「よく生きる」ことになどつながっていなくてもよいのだけれど。
【最後に】
自分がウィトゲンシュタインの名前を知ったのは、柄谷行人の中期の主著『探求I』を読んだときである。その中で、柄谷が自身の自他を巡る思考を遠くの場所まで届けるための補助線のように取り上げられていた。言語が「教えるー学ぶ」の関係の中でコミュニケーションが成立するものであることを独我論を批判するための文脈で自家薬籠中の物として縦横無尽に使っていたのが印象的であった。
著者は、「正直なところ、日本におけるウィトゲンシュタイン哲学像を一新するような議論ができたという自負もある。読者の皆様の判断を請うところである」と最後に語る。自分にとっては、あまりにも柄谷ウィトゲンシュタインの像が強烈であるため、その哲学像が一新されたかというと、そこまでではなかろうと思う。また、「よき生」を持ち出すのも、「よき生」を語るのであれば、それこそその明確化のために一冊以上の本が必要であろう。
ただ、ウィトゲンシュタインの哲学する姿勢がそのコアであるという言葉とともに、『探求I』をもう一度読み返してみようと思えたのが自分にとっては大きな成果である。とにかくウィトゲンシュタインの哲学を理解してもらおうという熱意と工夫は伝わってくる本。興味があれば読まれたし。
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『哲学探究』を中心とするウィトゲンシュタインの後期思想においてなにがめざされていたのかということを検討し、その中心的な意義をわかりやすく解説している入門書です。
本書では、規則のパラドクスや私的言語論など、後期ウィトゲンシュタインのよく知られた議論について再検討がなされています。著者は、それらの議論においてウィトゲンシュタインがめざしたのは、新たな「理論」を提出することではなく、哲学的な「像」の「明確化」であると主張しています。「像」は「考え」ほど洗練されたものではなく、たとえば言語にかんしてわれわれの多くは「言語における語は対象を名指す。―文とはそのような名前の結合である」という「像」をいだいています。そしてこうした「像」が、「すべての語は意味をもつ。意味は語に割り当てられている。意味とは語が表す対象である」といった「考え」の根であるとされています。ウィトゲンシュタインによれば、「像」にあわせて哲学的理論を構築することでわれわれはしばしば困難に陥っていると考えており、それゆえこの「像」を「明確化」することでそうした困難から脱することがめざされていました。
本書では、後期ウィトゲンシュタインの議論がこうした意味での「明確化」をめざしていることがていねいに解説され、そのうえで日常のなかで出会われる具体的な問題に対して改めて吟味をおこなうことで、「よく生きる」ことが可能になるという見通しが語られています。
後期ウィトゲンシュタイン哲学の議論が、「明確化」というキーワードのもとでわかりやすく解説されており、ウィトゲンシュタイン哲学の入門書としても優れた本であると同時に、「哲学」とはなにかという問題についても魅力的な考えかたが提示されていて、おもしろく読むことができました。
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ある朝の会話。
A「パン、どうやって焼く?」
B「トースターでお願いします」
A「そうじゃなくて、パンを先に焼くか、具材を載せた後に焼くかってこと」
B「ああ、じゃあ、先焼きで」
他愛もない会話であるが、ここには重要な問題が隠されている。
Aさんの最初の発言「パン、どうやって焼く?」。この文章の意味は誰にでも理解できる。だからBさんは「トースターで」と答えた。
でも、Aさんは「そうじゃなくて...」と、その後でBさんの発言を否定している。文章の意味はBさんにも伝達されているはずなのに、である。(文章の意味が伝わっていなければ、Bさんは何も答えられないはずである)
つまり、私たちの発話(言葉)には、文章的(言語的)意味と、その文章で言われていること(言明の意味内容)とにギャップがある。「パン、どうやって焼く?」という言明で、Aさんにとって言われていたことは、具材とパンの料理の仕方であり、Bさんにとって言われていたことは、パンをどのような機器を用いて焼くか、ということであった。
このようなギャップは日常のいたるところにある。パンをどのように焼くかくらいであれば、大きな問題にならない。けれど、重大な意思決定場面(たとえば、家を買うかどうか)で、あるいは、生死に関わるような状況で、このようなギャップに気づかなければ取り返しのつかないことになるかもしれない。
このギャップに注意を促したのが、ウィトゲンシュタインである(と大谷は言う)。そこで話されている(書かれている)ことと、言われていることは違うことがある。これに気づかなければ、本来まったく問題とならなかったことを、問題と感じてしまうことが起こる(その最たる例が哲学であるとウィトゲンシュタインは言う)。あるいは、問題であると感じていることを、無化する(問題にしないようにする)ことも可能であろう。
だから私たちは「相手が何を言わんとしているのか」をゆっくり、じっくり聞かねばならないし、そうしない限りは、相手の言わんとしていることを理解できない。
「ことば」は曖昧である。しかし、その曖昧さに気づかないまま、その「ことば」を自分のものとしてしまったとき、そこに「無責任」が生じる。「言われていること」を自分なりに明確にし、それを引き受けた時に、「自分自身を取り戻せる」のである。
『ウィトゲンシュタイン 明確化の哲学』、すごくおすすめです。タイトルで難しく感じるかもしれないけれど、まったく難しくなく(頭は使います)、「地に足をつけて立ち」、「誠実に生きる」ことに関心のある方々に、ぜひ手にとっていただきたく思いました。