紙の本
『ワタシゴト』
2020/09/10 20:34
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:百書繚乱 - この投稿者のレビュー一覧を見る
重荷を抱える中学生が広島の原爆資料館で展示資料に出会ったら……
母との折り合いが悪く弁当箱を投げつけた俊介
焼けた中学生のからだの下にあった真っ黒なお弁当箱に引きつけられる
──「弁当箱」
心配性の母の束縛から逃れたいみさき
背中の大きく裂けたワンピースを見たくて車椅子で無理して参加する
──「ワンピース」
優等生の殻を破りたくてど派手なハイカットを履いた雪人
布製で、焦げて、ゴムが溶けた小さな運動靴にくぎ付けになる
──「くつ」
など、広島在住の作家と広島を訪れる横浜の中学生との二十年以上にわたる交流を通じて生み出された五つの物語
《1985〜2019年までに、
広島の原爆資料館(広島平和記念資料館)を
見学した修学旅行生は、およそ1,352万人です。》
書名は「記憶を手渡すこと=渡し事」と「他人のことではない、私のこと=私事」の意味をあわせた著者の造語
本書を読んだ中学生は、過去から渡された記憶に出会い、未来の自分をつくっていくにちがいない
投稿元:
レビューを見る
ヒロシマを訪れる一人一人にワタシゴトがある。
ヒロシマにやってきた修学旅行生の遺物にまつわる連作短編。
自分に引き寄せる・結びつけることで、ワタシゴトになる。
「弁当箱」
…自分勝手な母親が珍しく作った弁当を、俊介は払い落とす。帰宅するとひっくり返った弁当の中身には黒く蟻がたかっていた。
「ワンピース」
…ヒロシマが修学旅行先なことをよく思っていなかった母が、小学生のころ作ってくれたワンピースを思い出す。
「くつ」
…口うるさい母親のような妹は、兄ちゃんの靴をよく見ていた。半世紀以上前も、今も。
「いし」
…焼かれた瓦の悲鳴。
「ごめんなさい」
…88歳の私と14歳の私の、「ごめんなさい」の行方。
投稿元:
レビューを見る
75年前。
子供たちにとっては途方もない昔の出来事。
それを自分ごとだと考えるなんて、簡単なことじゃない。
でも、別世界の出来事では無くて、いろんなところで繋がっている。
今も昔も、親からお弁当作ってもらい、洋服を用意してもらい。そして友達と過ごす。
ただ違うのは、彼らの命は75年前に断たれてしまったということ。
自分との共通点を見つけた時、初めてその意味に思いが巡る。
投稿元:
レビューを見る
広島へ修学旅行に行く中学生5人の物語
それぞれが今悩みを抱えてる中
広島の原爆資料館を見学し思うことが書かれて
自分と同い年くらいの子が経験したことなどを知っていく
それぞれの章で
お弁当
ワンピース
靴
石
ごめんなさい
について、書かれてる
児童書で読みやすいが大人も読んでいいと思う。
投稿元:
レビューを見る
広島平和記念資料館に展示されている様々な物。その1つ1つに焦点をあてた短編集の作りになっている。中学生の事前学習で調べたことと自分の体験やこだわりの物がオーバーラップして自分ごとと捉え、被災者を想う物語。次巻の「あなたがいたところ」は、場所に焦点をあて、同じように自分ごととして捉える物語となっている。
投稿元:
レビューを見る
ズシッと何か重たい物が心に残りました。
今を生きる10代が、修学旅行で遭遇した過去の現実をどう受け止めるか。被曝で亡くなった人の出来なかった日常を想像すると・・・。
読んだ若い世代に何か伝わる事を願いたい。
投稿元:
レビューを見る
1985年から2019年までに、原爆資料館(広島平和記念資料館)を見学した、修学旅行生は、およそ1352万人だそうです。
その1352万人という、莫大な数の、かつての中学生たちは、その時、どのような思いを抱いたのでしょうか?
本書で描かれるのは、修学旅行を通して、多感な中学生それぞれが感じた、「ひろしま」についての物語。
『ワタシゴト』は作者の造語なのですが、これには二つの意味があり、一つは、「渡し事=記憶を手渡すこと」で、もう一つは、「私事=他人のことではない、私のこと」で、今回、この造語が、「ひろしま」について、とても言い得ているように思われ、心に留まりました。
例えば、渡し事については、
焼けて骨になった、中学生の体の下にあった、まっ黒な弁当箱。
右肩の下あたりに染みがあり、背中が裂けて、千切れて、変色しているが、繊細なレースがとても綺麗なワンピース。
約75年前、公園には、いくつもの町があったこと。
『この公園の下には、町が眠っとる。ひとも眠っとる。ここを歩くときは、そおっと歩くんよ。すみません、すみません、言うてね』
「ひろしま」の記憶を手渡すというのは、たくさんの人の命が失われた悲劇を繰り返さないことも、そうですが、その一人一人の生きた証を想像して、志半ばに人生を終えなければいけなかった瞬間、どんな思いで、どんな事をしていたのかを、考えなければいけないことも大切だと痛感するとともに、そこにあるのは、ささやかな幸せに満ちた日常生活だったことも、決して忘れてはいけないと思いました。
また、私事については、
「そこに着いたら、事前学習のことは、いったん忘れて、まっ白になれ。そのうえで、そこから聞こえてくるもの、見えてくるものを、全身で感じろ」
「いままでのぼくなら、もしかして。でもいまは、もう少し自分のなかに沈めておきたい」
「見えないものは信じない、と思ってきたけれど、ほんとうにそうなのか」
「ひと月に一回、ここに来て、みんなのこと考えるんよ。それがわたしの、この世でのつとめじゃねえ、きっと」
中学生の感じ方は、人それぞれだけれど、何か忘れたくないものがあるのは、共通しているようで、また、それは簡単に答えが出るようなものではなく、しばらく自分自身のなかに留めておきたいと感じる、それこそが、『他人のことではない、私のこと』にしているということなんだと、思いました。
また、元中学校教員「赤田圭亮」さんの、『私のひろしま修学旅行』での、語り部の松田さんと、それを聞いていた、当時中学生のH君のエピソードも印象に残り、そこには赤田さんの書かれた通り、「学校の日常生活では、けっして掬いあげることのできないものが、『ひろしま』にはある」事を、強く実感し、私の、過去の修学旅行は広島ではなかったのですが、実際に、見て聞いて感じることの意義は、何ものにも替えがたいものがある事を、本書を読んで痛感いたしました。
物語の内容は、児童書ということで、大人が読むと軽い感じに思われるかもしれませんが、最初に書いたように、1352万人の方がこれを読んで、「ああ、そういえば、こんな似たような思いを抱いたな」とか、「この時、自分の人生に擬えて、考え方を改めたんだよな」とか、そうしたところから、その人なりの『ワタシゴト』のきっかけになれば、いいのではないかと、私は感じました。
それから、私の場合、「戦争中でも楽しいことはあった」という、ごく当たり前な事を気付かせてくれました。恥ずかしながらですが、気付くことができて、涙が出そうなくらい嬉しかったのです。
『ええねえ、手つないで歩くの。うれしいねえ、こんなに若いあなたと、手つなげて。むかしはね、友だちと、こうして毎日うたいながら川岸を歩いたんよ。いろんなうた、うたって。戦争中じゃったけど、楽しいことは、いろいろあったんよ。写真館で仲良しが集まって、写真とってもろうたり。こうしていると、あのころみたいじゃね』
投稿元:
レビューを見る
「修学旅行で広島平和記念資料館を訪れた5人。それぞれに悩みを抱え、戦争とは遠い世界で暮らす14歳の胸の内は……。登場人物に共感を覚えながら、物語に登場する被爆資料などを通して平和について深く考えていく作品です。」