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わたしの様ないろいろなことをごった煮で考えている周縁的な人間にとっては勇気を与えてくれる一冊。理解・共感・原点回帰に囚われている人には一読をすすめる。
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内田先生、ミシマ社からの久々の書き下ろしは、〈習合〉をキーワードに、日本社会の様々な諸相を論じたものである。
加藤周一が唱えた、日本文化は雑種文化であるというテーゼの代表的な顕現として「神仏習合」があるのではないかと捉え、それではなぜ千年近く続いたにもかかわらず、維新政府の政策によりほとんど抵抗なく神仏分離が進んだのか、との問いを発する。
それを中心的な問いとして、共同体、農業、宗教、仕事と働き方等々について、興味深い話が続く。社会的共通資本の公共性、ショートレンジで利潤最大化を目指すグローバル資本主義の限界、働くことの意義、これは自分の使命だと思って行動する人間がどのくらいいるかが、その社会の強靭性、健全性を示していること等々について、いつもの内田節で、具体事例を紹介しながら、目から鱗の面白い話題が続く。
純化主義、原理主義は純粋で、浄化、原点帰還は巨大なエネルギーを発出するが、それで本当に世の中はよくなるのだろうか、折り合いをつけて習合することで日本は創造性を発揮してきたのではないのか。
日本の閉塞状況に対する著者の考察が詰まっており、いろいろなことを考えさせられる、良き参考書である。
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中国もかつてのソ連と同じように、一度傾き出すと、復元力が働かず、政治的カオスが訪れるリスクが高い(p37)
京都から仏教色が一掃された時代がつい百五十年前にあった(p97)
「上書き」するか「併存」するか、世界の宗教はだいたいこのどちらかを選択するわけですけれど、日本人はそのどちらも採用しなかった。「混ぜた」んです(p111)
農業は社会的共通資本(p143)
自己利益の最大化よりも、定常的な共同体に帰属して、そこで社会的承認を得ることのほうが好ましいと思う人間もいる(p174)
相互扶助的な共同体は資本主義市場経済とは相性が悪い(p176)
贈与と反対給付によって回る「コモンの経済」(p178)
この激しい行をを行う組織が上意下達ではなく、会員ひとりひとりの自主性に委ねる仕方で運営できるのは、根本に強烈なエリート意識があるからだと思います。他人に命令されないと何をしてよいかわからない人間はここにはいないということが前提になっている(p233)
明治末年から大正にかけて、青年たちにdecrntなるふるまいを選ばせる有効な倫理的規範として日本人の手元には武士道しかなかった(p236)
習合というのは破壊しないこと、排除しないこと、両立し難いものを無理やり両立させることだから(p277)
外来のものと固有のものが出会って、そこにアマルガムが生じ、ある種の化学変化を起こすときに、日本文化は多産で豊穣なものになる(p282)
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いやあ、5章、6章がおもしろすぎて、後半は今日一気に読んだ。まあでも、だいたいおもしろいと感じられるのは、自分がふだん考えていることに近い考えが書かれているから。というか、いつ自分がそういう考えを持つようになったのか。内田先生の以前の著作からか、養老先生か、梅棹先生か、最近だったら「ブルシット・ジョブ」とか「人新世の「資本論」」とか、ツイッターからか。だいたい、ツイッターでフォローするのも自分の考えに近い人ばかりになるから、みんながそんなふうに考えていると思ったら大間違いで、そこがあぶない。原発事故のときにそれを強烈に感じた。まあ、とりあえずはいろんな人の考えも聞き、そんな考えもあるわな、でも自分はこうかなあ、などとぐちゃぐちゃ考え、そのうち折り合いをつけていくのがいいのだろう。以前、一緒に仕事をしていた人(まあ一般的には部下)が、部長面談か何かで、上司が指示をあまりしてくれないので困る、と言っているというのを聞いたことがある。何にも言われんでもやってくれる人が理想なんやけれど、気付いた人がするという具合にしていると、いつも一部の人だけが動くことになるんやな。そこがつらいけど、まあ、言われてする仕事は自分がしたくないから仕方ないなあ。ということで、旧制高等学校のような組織がまたできるといいなあ。そして新しいコモン。凱風館、魅力的だなあ。でも、合気道かあ。昔、舞踏のワークショップにはしばらく通ったけれど。稽古のあとには焼酎お湯割りとか、国立ワインをたらふく飲まされた。そのころは、もっとスリムだったけど、いまは腹が出てしまったしなあ。なんとかせねば。
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『日本習合論』
これまでの日本文化を語る上で、明治政府の神仏分離令以前では、仏教と神道がまさしく習合していたという事例を挙げ、日本文化の基底にある習合というキーワードについて論じられている。習合論の範疇は広く、現代的には大瀧詠一がロックに日本語の歌詞をのせることで一つの音楽性を確立することにまで含まれる。
習合のキーワードは同化でもなく、差別でもないことである。かつて内田老師はフランスのユダヤ人政策について『私家版・ユダヤ文化論』で述べていたが、フランスのユダヤ人政策は同化であった。日本における習合とは、理解と共感を絶した関係性の「他者」と共生していくことである。理解と共感に基礎づけられずに、人間との関係性を結ぶことができるのかというポイントはエマニュエル・レヴィナスの主要テーマでもあるが、レヴィナスに師事した内田老師らしい日本文化の捉え方である。
習合について美しい文章で説明があったので、引用する。
“氷炭相容れざる二原理が、その違和にもかかわらず無理やり相容れてしまったときに、淡水と塩水が混ざった「汽水域」のような文化的領域が生成する。そこは植物相も動物相も足油で魚が良く獲れる。たどしたら、原理が純正であることよりも、とりあえずは「魚がたくさん獲れて、飢餓に苦しまない」ということの方が人間にとっては優先するんじゃないか”
この双方相容れないものが同居するという矛盾によって、文化的な豊饒は担保される。そして、この現象が一人の人間の中で起こったとき、その葛藤の中で人間は成長するのである。
内田老師は、現代の人々の中で、このような葛藤する能力の欠如を憂う。メディアや政治的言説がクリアーカットで明快な言葉を使うことにより、人々は矛盾や複雑さに耐えうる胆力を失ったのかもしれない。ここからは私見であるが、人々は決して精神が弱くなったわけではないと考える。おそらく昔の人にとっても矛盾や複雑さを耐えることは苦痛であったであろう。しかしながら、昔の人にあり、今の人にないので、自分自身が地理的に、歴史的に、どの部分にいるのかというある種の世界観の大きさではないかと思う。歴史を知らなければ、現代的に受け入れられない意見を述べる事や、考えることを耐えられず、広い世界を知らなければ、自分自身の集団の異常性には気づかずに、その集団の中で潰れてしまう。
歴史的にも地理的にも人々の認識が狭まっていると考える。この認識の狭まりは、一種の防衛本能であるとも感じる。情報の洪水の中で、人々は無意識的に、防衛本能として一定以上の情報をシャットダウンする。その結果として、情報に触れる機会と反比例して、情報の吸収力が低下する。そんな中で、その様な葛藤を自分自身の中で内包することや、社会の中で内包する事(=習合)の重要性は非常に大きいと考える。
自分の意見が少数派でも、少数派が存在することが組織のリスクヘッジになるというくらいの開き直りと客観的な視座があれば、胸を張って生きる事ができる。
フランスでは、ナチスに占領された傀儡政権・ヴィシー政府の時代に、少数派ながらもイギリスで亡命政府を立ち上げたド・ゴールがフランスの戦前と戦後を接ぎ木する歴史の主役となった。そして、彼の存在こそがフランスの戦前と戦後をつなぐ、人々のよりどころになったのである。日本の近現代史において、戦前と戦後をつなぐ人々はいない。八紘一宇のもとにすべてが誰かに追い込まれ、騙されて戦争の道をたどった。ふたを開けてみると全員が戦争の被害者であり、加害者であったのである。この責任の所在の欠如は、昨今の戦前回帰の傾向に尾を引いていると認識する。
すべてを習合的に内包する社会のレジリエンスは強いが、独裁的な社会は一度なってしまうと不可逆的に破壊される。誰がこんな日本にしたんだと口々に言い、誰も自分の責任を自覚しない社会に未来はない。
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本のたたずまい(装幀)にひかれて購入。基本的には今の日本(だけではないかな)の社会に対する批判かな。著者も書いている「話を簡単にすべき」という風潮、意見を異にする人を排斥する傾向等々。そういうものに対し、もっとゆるく対応しようということだと思う。確かに内田樹さんは「本来の保守」的なようだ。
なお、本文中で出されている疑義、「なぜ廃仏毀釈にたいする組織的抵抗がほとんどなかったか」については、日本人が神仏に対し宗教という感覚をあまり持っていなかったのではという仮説はどうなんだろう。伊勢参りなどはほとんど物見遊山だったようだし、有名な神社仏閣のそばには遊廓がつきものだし。まあ、坊主自体があまりちゃんとした信仰を持っていなさそうということもある(一部はちゃんとしていたとは思うが)。その辺現在もあまり変わっていないのが日本的特質なのかも。
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本の中にも記載されていたと思いますが
日本辺境論に続いての日本文化社会論
あとがきに記載されていることが非常に面白く
思えました。たしかに、『話を簡単にするのをやめましょう』
というのはなかなk思いつきません。
でも、確かに異物を除去する考え方や、純血を
薦めていく考え方は怖いと思います。
頭をスマートにするのではなく、逐次的な賢さを
求めるのではなく。頭の容量を大きくし選択と集中の
逆を考える
というのも大事だなと思いました。
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「習合」という言葉と、本書で取り上げている「明治維新の際の廃仏毀釈」に興味があり読了。「習合」の方は、古くは宗教や文字、最近は生活様式など、日本人は固有のものと外来のものを混ぜ合わせ、うまく調合して馴染んでしまう特徴があるという指摘。ただし、最近は外来が強かった時代の揺り戻しを感じるという。田舎暗いしや自然に変える運動などがこれ。もう一つは、著者がふと疑問を感じた「それまで1000年に渡って多くの人々の信仰や生活の中心だった仏教を、明治政府はあっさり否定し神道に統一するよう国民に求めたのだが、さしたる混乱もなく移行した。なぜ抵抗運動が起こらなかったのか」という疑問。他の宗教では考えられない政府による「改宗」を国民、さらには当事者も淡々と受け入れている。この二つの行動様式から、民主主義、資本主義、公共とは何か、会社のありようとは、などを検討する一冊。内田氏らしい(話が脇道に逸れる部分も多いが)一定方向からの指摘はとても参考になる。
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書き下ろしなのだが、普段から内田先生のお書きになったり、お話になったものに接しすぎて、初めて感みたいなものはほとんどなかった。
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悪くないけど、長い。。。
筆者が考える日本的なものを「習合」という観点から論じている。あと、まとまりが感じられない。以上を纏めると、、、、年とったなぁ。。
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本を開くとまず「なにこの引用書体?」という想定外のワクワク感。色々分からないまま、ふんわり「おもしろいなぁ」と読み終えてしまった。あたりまえがあたりまえの不思議、みたいな感じで話が大きすぎて迷子になる。クラフトボスのCMの、新しい風に当たった気分。
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今知りたかったことが全部書いてあった。今知りたいことを事前にすべてリストアップすることは不可能だと思うが、読み終えてそう感じた。
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「判断の留保」「渾沌を嫌がらない」という、内田先生のいつものお話。「ぬっぽんをとりもろす」とのたまっていたあの方への強い嫌悪感を今回もビシバシ感じた。そして今回はハラリさんの『サピエンス全史』を読んだ後だったので、ふむふむと頷きながら読む箇所多し(ハラリさんは同書において善と悪の二分法は不毛だと指摘されている。イスラエルで育ちながらその結論に達したこと自体、すごいことだと私は思う。ユダヤの人々がそのように根源的な考察を行えることの秘訣をユダヤの教典の在り方に見ているのは内田先生)。「純化」は歴史上繰り返し登場してきたたくさんの単細胞ちゃんたちの見果てぬ夢。単細胞ちゃんたちは、自分に理解できないモノ即悪、と断定して知的負荷を極小化し、気持ちよく暮らそうとする。そして余った時間は「生産性」を上げることに使えって言う。あー、そう言えば今の職場にもいるなぁ……。その人は小説は読む価値なし、ノンフィクションこそ読むべき唯一の本って言ってたっけな。私ゃ、空いた口が塞がらんかったけど、まぁ、そうなのかもと思ってノンフィクションもしばらく読んでみたんだった。おかげで、ブレイディみかこさんの著作や『エンド・オブ・ライフ』という良書にも出会えたので、異物との出会いという意味では、私にはプラスの衝撃になった。結果的に、だけど。うん、「判断の留保」、大事だね。喧嘩しないと吸収できるものが増えるんだナ。でも、私、彼女に噛みつきそびれちゃったから、彼女にとっては得るもの無しなのかも。ちと、申し訳なくはある。
読めば読むほど、知的世界の賢人たちは根源的なところを共有しているのだと感じてしまう。これ、感覚でしかなくて論理的に証明しろって言われると非常につらいのだけれど、少なくとも、内田先生、鷲田先生、ハラリさん、については言っていいんじゃないのかなぁ?もっと広く深くたくさん本を読んでいる方、誰か教えてください。
さて、次は内田先生の何読もう?ユダヤ論かな?武道的思考にしようかな?
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単純化への抗い。
としての習合。
レジリエンス。
多様性とは、
頭が大きいこと。
受け手の問題。
多様性という言葉の無責任さ。
自分は「ふつう」だという前提で語られること。
「多様」な側の人は「多様性」なんてわざわざ言わないのでは?
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本書腰巻きには次のようにある。
「外来のものと土着のものが共生するとき,私たちの創造性はもっとも発揮される。」
まさに,そういう本だ。日本人の以下のような生活は,いかにも豊かな生活習慣だと思うがどうだろうか。
年末には,クリスマスを祝って,除夜の鐘を聞いて年越しそばを食べ,神社で初詣をして書き初めし,左義長に参加して,節分では鬼を払ったつもりになり,恵方巻きを食べ…というような生活。結婚式と葬式とはまったく違う宗教で行ったり…。
こんな生活は,他の国の人から見ると,いかにも節操がないように思えるが,それが日本人なのだから仕方がない。日本人は古来から,新しい文化と交わる度に,それを排除するというよりもいいとこ取りをしたり,複合させたりして,日本独自(に見える)文化を創ってきたのだろう。
世界には(あるいは最近は日本にも)「純粋になること」を主張する人たちもいるけれども,その純粋を人に求めるようになるところから悲劇は生まれるのではないか。トランプのアメリカ・ファーストが失敗したのは,米国が建国以来持っていた「混ざっているからこそのよさ」「混ざっているからこそのエネルギー」を活かすことをやめてしまったことによるのだと思う。
「まえがき」によると,日本文化は「雑種である」ということを指摘したのは加藤周一さんらしいが(『雑種文化 日本の小さな希望』1956年),内田さんは,さらに,次のようなことを本書で述べていきたいと言っている。
僕が書こうと思うのは,どうして日本人は雑種をおのれの本態として選択したのか? それはどのような現象に端的に表れているのか? そのもっとも成功したものは何か? 雑種ゆえの弱みや欠点があるとしたら,それはどういうかたちで表れるのか? そういった一連の問いです。…中略…雑種文化の原理論としては『雑種文化』一冊があれば足りると思います。でも,それを踏まえた「各論」をいろいろな人が書くことにも意味はあると思います。(本書 p.7)
そして,内田さんは,「神仏習合」を典型的な事例として話し始めるのだ。
内田さんの形口は大好きなので,今まで何冊も読んできた。これもまた,また読んでみたい本である。
一カ所だけ引用を。すごい文章です。力づけられます。いいじゃないですか,今のあり方で。
ミスマッチを「悪いこと」だと考えるから傷つくんです。人生はミスマッチだらけです。僕たちは間違った家庭に生まれ,間違った学校に入り,間違った人と友だちになり,間違った相手と結婚して,間違った仕事を選んで,間違った人生を送る。そういうものなんですよ。それでいいじゃないですか。それだってけっこう楽しいし,そこそこの「よきもの」を創り出して,この世界に遺していけるし,周りの人からは「楽しそうな人生を送りましたね」と言ってもらえたりっするんですから。(本書,p.60)