紙の本
17世紀のオランダの哲学者スピノザの代表的著書です!
2020/05/04 08:12
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、17世紀のオランダの哲学者、スピノザの代表的な著書で、ユークリッド幾何学の形式に基づき神、人間の精神について定義と公理から定理を導き演繹的に論証しようと試みた書です。岩波文庫からは上下2巻で刊行されており、同書はその下巻です。実は、著者であるスピノザはユダヤ教を破門され、スコラ哲学と近代哲学を研究した人物で、『エチカ』の全体構成は、「第1部 神について」、「第2部 精神の本性と起源について」、「第3部 感情の起源と本性について」、「第4部 人間の屈従あるいは感情の力について」、「第5部 知性の力あるいは人間の自由について」となっています。同書下巻は、上巻に引き続き、第4部から始まっています。
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ユダヤ教を破門された流浪の哲学者スピノザによる、幾何学的秩序に従って論証された倫理学。下巻は第四部「人間の隷属あるいは感情の力について」、第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」を収める。
結果的には明らかに失敗しているのだが、真の哲学に到達するためのその試みは後世に語り継がれるべき教訓・示唆を豊富に含んでいる。ここまで刺激的な本は世界に十冊もないのでは。必読。
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オランダの哲学者、神学者スピノザ(1632-1677)の著。1677年刊。この世の事物事象はすべて唯一絶対の存在必然的な神に全く依存している、換言すれば、すべては神の表れ(神即自然)であるという全く一元論的な汎神論と、それに伴う人間の神への完全依存による自由意志の否定という決定論が展開されるスピノザ晩年の著。デカルトの研究者でもあった彼のこの著書は演繹的論述法により展開される。ただしスピノザは「世間一般の哲学は被造物から始め、デカルトは精神から始めた。しかし私は神から始める。」と述べ、デカルトを含むそれ以前の思弁法を排撃した。
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哲学思想の展開とその諸定理の証明。
・人間の隷属あるいは感情の力について
・知性の能力あるいは人間に自由について
公理や諸定理及びその証明が明確に述べられており、読みやすい。
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蠱惑的に在りて在る情動的な世界と、そこに生ける我々の理性を、幾何学的秩序によって論証-その宗教性を生々しく受肉させた-する破壊的に美しい書物。
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下巻読了。汎神論・決定論からの感情のあり方に関する上巻の議論を受け継いで、下巻では倫理がどう立ち現れるかが考察される。理性の力によって受動的な感情を抑制できる人が、自由人として生きることができる、と。
やはり難解でよくわからない部分も多い(というより大半はわからない)が、スピノザ以前以後の議論との繋がりがよく見えたのはとても面白かった。例えば、デカルトを強く意識した議論が展開されているので、相互の対比で両者を理解することができる。
こういう繋がりをもっと勉強したらさらに面白くなるんだろうが、ぜんぜん知識が足らん。
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原書名:ETHICA
人間の隷属あるいは感情の力について
知性の能力あるいは人間の自由について
著者:ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Spinoza, Benedictus de, 1632-1677、オランダ・アムステルダム、哲学者)
訳者:畠中尚志(1899-1980、哲学者)
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せっかく読み返してたのに、バイクの二人乗りからひったくられた!(^^ゞ古い版だけど買いなおした。まっいいか!
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難解な本であった。理解不足を置いといて、すべては神の中にあり、良い、悪いは物事の組み合わせであり、その真理にたどり着こうとするならば、人は経験しか実感できないものである。ということなのか…?ということがおぼろげにわかった。
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(上巻より)
「神と人間」についての観念的な議論が中心だった上巻に比べ、下巻では「倫理」や「永遠の愛」といった実践的なテーマが中心。しかし当然これらは上巻の議論を下敷きにしているので、下巻を読みながらも何度も上巻に立ち戻り確認しながら読み進めることとなる。
第四部の冒頭でスピノザは、人間がなぜ善より悪に従うのか、そもそも何が善で何が悪なのかを明らかにする、という。上巻で触れた本書の構造の独特さの次に印象深かった点として、この「善/悪」の定義に見られる「構成的」な視点を挙げたい。第三部定理9備考にあるように、「善/悪」はそれ自体善/悪だからでなく我々が欲するものが善/悪なのだという転倒なのだが、これ以外にそもそも本書の公理系の中心に位置する「神」からして構成的である。「神」が神なのは、そのような神がどこかにいるからではなく、他に依るべき処なく自立し、原因もないままに存在するそのような実体を後から我々が想定し「神」と名付けたからだ。スピノザはこの構成のみを抽出して「神」として本書に頻出させているのだが、この神に人格的な色彩が殆ど感じられないのも当然だろう。
また、定理37備考1にあるように、人間が生まれながらにもつ「自然権」が感情に支配されてしまいホッブス的な競争状態を生むため、「国家状態」による法・刑罰で規制すべし、としているのも興味深い。善悪の構成が生じない自然状態というのは例外的であり、構成員の同意に基づく善悪の構成を伴う国家状態こそが常態なのだというリアリズム。これが第五部末尾に現れる「すべて高貴なものは稀であり困難である」というややペシミスティックな認識につながっているのではないだろうか。
第五部の議論は、その感情に受動的に突き動かされ善より悪を志向してしまう人間をどのように導くかというもの。神の観念に伴う必然性に事物の永遠を読み取り、その永遠の相のもとに事物を観念するという実践知が展開されるが、ここの深い理解にはスピノザの他の著述も参照する必要があると思われた。
上下巻通じての読後の印象は、とにかく本書は一度や二度読んだだけで済ませられるような代物ではなく、今後も何度も読み返す機会が生じ、その読み返しの過程もかなり楽しいものになるだろうという予感。それにしてもよくもこのような著作が世の中に生まれたものだと思う。
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主知主義的な哲学の世界では「神」はたいてい究極的原因として引き合いに出される。スピノザも神を根本原因とするのだが、汎神論の特異な点は、神を超越的原因ではなく内在的原因として規定するところにある。これは循環とも思えるが、それは我々が差異の世界に生きているからだろう。神は一にして全なのだから、スピノザの言い分はむしろ合理的である。スピノザの方法に従って把握された神は世界の製作者ではなく世界そのものであり、自由意志さえ持たない。神の様態にすぎない我々にも、当然自由意志は与えられていない。
神は自己原因に従い様々な変状を呈する。これが世界の動きにほかならない。人間が自由意志に基づき行動しているなどと考えるのは、投げ飛ばされた石ころが自分の意志で飛んでいると思うようなものだ。しかし、理性はこの不自由性を認識することができる。そこに初めて倫理性と自由の萌芽が可能となるのだ。スピノザ哲学は、ヒュームやルソー以上にカント的問題を考える手がかりを我々に与えてくれるかもしれない。
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メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1666277420247429120?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
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開始:2023/9/27
終了:2023/10/2
感想
自由とは何か。自分の徳から発生する行動を遂行することができる人は自由であり幸福である。我慢と苦労が待ち受けていても必ず幸福は訪れる。