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覚醒剤と言えば、ダメ、ゼッタイ。のイメージが強すぎて、それ以上の事は深く知ろうとは思わなかったけれど、今回この本を読んですごく勉強になった。ぜひおすすめしたい。
覚醒剤依存の本質は快楽ではなく、苦痛。
依存症になる位薬に頼ってしまう人は何かしらの心の苦痛を取り除きたいから。
だから私達は法規制をむやみに増やすよりも痛みを抱えた人の支援が必要との事。
依存症の子の言葉
「人は裏切る、クスリは裏切らない。」
すごい言葉だね。
でも私だって人に頼るのが難しい場合がある、その場合はモノに頼ってしまう事だってきっとあるし、何か心に大きい傷が出来たら依存症に転ばないとも限らない。どんな人だって依存症になるリスクはある。
そう言う人が少しでも減る様な社会を目指す為、少しでも著者の考えが広まると良いと思う。
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もう目から鱗がバラバラ落ちた。「蒙を啓かれる」とはこういうことかも。誰だったか、優れた知見は、読むとまるで以前から知っていた当然のことのような気がすると言っていたが、まさにそれ。非常に読みやすい文章で、すいすい読み終え、もう一度付箋を貼りながら読み返したら、付箋だらけになった。
みすずの本なので、ちょっと構えて読み出したのだけど(裏表紙の紹介もガチガチだし)、自分の来し方を交えながら綴られていて、思っていたよりずっとソフトな読み心地だった。いやもちろん、著者は依存症を主に診る精神科医なので、ハードな話もたくさん出てくる。それでも、陰惨な雰囲気にはならないのは、著者が、依存症を含めた精神疾患の患者に対して、とてもオープンな気持ちで向かい合っているからだと思う。薬物依存など「市民社会」とは切り離された闇の世界の話だと思っていたが、それは刷り込まれた思いこみだったのだと教えられた。
薬物(主に覚醒剤など)への自分の知識は、まさに著者が批判する「人間やめますか」とか「ダメ。ゼッタイ」とかの言葉を掲げて行われてきたキャンペーンによるものだ。薬物に関わると人間ではなくなる、薬物を一度でも摂取したら一生幻覚やフラッシュバックから逃れられない、だからダメ、ゼッタイ。そうした知識は誤っているし、薬物への対策として効果がないうえに、薬物に依存することでしか生きられない人をより孤立に追いやるものだ。臨床経験と依存症自助グループとの関わりから、著者はそうした考えにたどりつく。変わるべきは社会の側。耐えられないほどの苦痛を持つ人が、薬物にではなく、「人」に頼れる社会が必要だという、その提言は鋭く、重い。
以下は覚え書き。
・同じ依存症でも、アルコールと薬物では様々な違いがあり、特に違うのが発症年齢。アルコールは中高年(ほとんど男性)。薬物の多くは10代半ばで社会不適応行動(非行)の一つとして乱用が始まる。
「忘れてはならないのは、人生早期より『気分を変える』物質を必要とする背景には、しばしば過酷な生育歴が存在するということだ」「誰もがそうなる(違法薬物に耽溺する)わけではない。なるのは決まって心の痛みを抱えている者だ」
・「『依存症は、道徳心の欠如や意志の弱さのせいではない。病気なのだ』ということを最初に唱えたのは、医者ではなく、自助グループを立ち上げた当事者だった」「要するに、依存症という病気は、まずは当事者によって発見され、医学は長いことそれを疑った後にようやく追認し、その後、今日まで当事者の経験と知恵を学んで(もしくは、盗んで)きたわけだ」
・ある女性患者の死に衝撃を受けた著者は、時間をかけて二つの視点を持つに至る。一つは、トラウマ体験が引き起こす深刻な影響。もう一つは薬物依存症の本質は「快感」ではなく「苦痛」であるという認識。患者は「快感」が忘れられないから薬物を手放せない(世間の認識)のではなく、薬物が、ずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるから手放せないのだ。
・同様のことが自傷行為や過食・嘔吐にも言える���トラウマ記憶という自分ではコントロールできない痛みから、ほんの一瞬でもいいから気を逸らすために、コントロールできる痛みを用いる。
「世の中には、生きるためには不健康さや痛みを必要とする人がいる-」
・「虐待行為と自傷行為は密接な関係があるが、虐待を受けている家のなかで自傷行為をくりかえす子どもはきわめてまれである」「要するに、安心できない場所では自傷行為さえできない、ということなのだ」
・「少年矯正の世界から学んだことが二つある。一つは、『困った人は困っている人かもしれない』ということ、そしてもう一つは、『暴力は自然発生するものではなく、他者から学ぶものである』ということだ」「なぜ一部の人はコミュニティの規範を軽視し、それを逸脱するのか。その答えはあまりにも明瞭ではないか。それは、その人がコミュニティに対する信頼感を抱けていないからなのだ。コミュニティとは、結局、それまで出会った人たちの集合体、集団である。そして、人は信頼する集団の規範、自分にとって大切な集団の規範だけを尊重し、遵守するものである」
・著者は若い頃、古いアルファロメオをせっせと改造して乗っていたそうだ。
「いまある自分(の車)との折り合いをつける方法という点で、身体改造(タトゥーやピアス)と車の改造は共通している気がした。いいかえれば、いまの自分は認められないが、だからといって自分を完全否定するつもりはないということだ」
・「四半世紀におよぶ依存症臨床の経験を経て確信しているのは、あらゆる薬物のなかでもっとも心身の健康被害が深刻なのは、まちがいなくアルコールであるということだ」「断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力犯罪、児童虐待やドメスティックバイオレンス、交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚醒剤とは比較にならない」
権威ある医学雑誌に掲載された研究においても「害の総合得点がもっとも高い薬物はアルコールであり、アルコールの場合、特に社会への害が他の薬物から突出していたのだ」「要するに、アルコールは、自他に対する衝動性・攻撃性を刺激し、解き放つのだ」
・「最近つくづく思うことがある。それは、この世には『よい薬物』も『悪い薬物』もなく、あるのは薬物の『よい使い方』と『悪い使い方』だけである、ということだ。これが、『なぜアルコールはよくて、覚せい剤がダメなのか』というあの患者の問いかけに対する、私なりの答えだ」「そして、この答えには続きがある。『悪い使い方』をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ」
・「薬害というものの大半は、医師の悪意ではなく、善意によって作り出される。つまり、人は自分の痛みに弱いだけでなく、目の前にいる他人の痛みにも弱い生き物なのだ」
・最近四半世紀の「薬物乱用栄枯盛衰」。90年代には、80年代一世を風靡したシンナーが急速に人気を失い、覚醒剤が一気に台頭。2000年代に入ると、未規制薬物(マジックマッシュルームなど)が登場し、順次規制される��処方薬リタリンの乱用。
「そして2010年代、あの忌まわしい危険ドラッグが登場し、国内全域を覆い尽くすような『ブーム』へと突入することとなったのだ」「規制側と開発者側とのイタチごっこの末に、モンスターのような危険きわまりない薬物が誕生し、国内各地で多くの中毒死と交通事故を発生させたのだ。最終的には販売店舗の撤退によってこの一禍は表面上鎮静したものの、あの数年間は、やみくもな規制がいかに使用者個人と社会を危険に曝すのかを証明する、一つの壮大な社会実験だったと思う」
危険ドラッグを使っていた人の一部が、代わりになるものとしてハマるのがやはりアルコールで、好まれるのは「ストロング系」。自助グループの施設長の言葉「やっぱり最後にたどり着くのは、世界最古にして最悪の薬物、アルコールなんだな」
・著者が過酷な虐待による解離性同一性障害(いわゆる二重人格)と診断した少年が、少年院で適切な治療が受けられず、出院後殺人未遂事件を起こした、とある。
「矯正施設の堅牢な管理体制は、解離性同一性障害を抱える者の暴力的人格をしばしば悪化させる。その管理的環境に適応的で従順な交代人格を作り出し、施設内では一見平穏に過ごすものの、抑圧された怒りや憎悪の感情は確実に暴力的人格を肥大させてしまうからだ。そして、悲劇は決まって地域に戻ってから起こる。鎖を解き放たれた内面のモンスターは、施設内で増強された暴力性を地域に出てから爆発させるのだ」
上記の危険ドラッグの件とあわせて、もっとも衝撃を受けた。事件・事故の背後に潜む薬物(とりわけアルコール)の影響や、犯罪者の生育歴(被虐待歴)について、もっと目が向けられ、地道な対策が練られなければならないと強く思った。
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依存症治療の専門家として記事でよく見かける精神科医の松本先生。
本書では自身の半生とともに医師としての原点や治療を回顧しています。
違法薬物だけでなく、市販薬やアルコールなど、人間は何かに酔っていたい動物なのだと思いました。
以下は印象的な言葉。
・「困った人」は「困っている人」かもしれない。
・人間は薬物を用いる動物である。
・「良い薬」と「悪い薬」があるのではなく、薬には「良い使い方」と「悪い使い方」がある。
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本当に素晴らしい本。すべての人に読んでほしい。
辛い状況にいる人は、こういう頼りになるお医者さんがいることが、心の支えになる。
辛い状況の人が周りに一人もいない、見たことも聞いたこともない、って人はいないと思う。(ニコチンやカフェインやアルコール含む)に依存しないと生きていけない人と接することはあるし、自分や大切な人が依存症に陥る可能性もある。
何より、絶対にそうならないとしても、依存症から立ち直ろうとする人を偏見によって叩きのめす可能性が減らせる。
精神医療に関わる医師、看護師、カウンセラー、問題児童・生徒を抱える学校の先生にもぜひ読んでほしい。
あまりに響く言葉ばかりで、引用したらほぼ全文になってしまいそうなくらい。
ヤンキー(不良)全盛期に中学時代を過ごし、大切な友人を薬物で失った経験、自身もカフェインやニコチン、ゲーム、車の改造に依存した経験を率直にかたっているからこそ、この人の患者に対する思いが「本物」であることがわかる。
初めから名医だったわけではなく、様々な患者さんから教えてもらって今があるのだ、という姿勢も好ましい。
特に衝撃を受けたのは、刑務所で自殺した覚せい剤依存症の女性のエピソードと、多重人格を「詐病」とされて少年院出所直後に殺人未遂事件を起こした少年のエピソード。これらの人は本当は救えたのである。それを罰するばかりでケアを怠った結果、第三者にまで危害が及ぶことになってしまった。
依存症を犯罪として取り締まっても、解決にはならないということ。
依存症の人は「人に依存できない」「自分のコミュニティに信頼がおけない」状態にある、と。そこを解決しなければ何度逮捕して服役しても、また繰り返すことになる。
日本の司法と精神医療が変わることを願ってやまない。
特に虐待を受けた子どもたちをケアすることは喫緊の課題である。
虐待に気づかれないまま大人になってしまった当事者が味わう地獄のような苦しみ、それを紛らわすための薬物依存は、適切なケアを行うことで治療することができ、人生を取り戻せる。それは、本当に日本人全員が知っておくべきことだと思う。
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依存症(特に覚せい剤依存)治療への尽力を続けている、松本俊彦先生が、その考えやその考えに至る経緯を綴った本。
なぜ精神科医が薬をたくさん処方してしまうのか。古来の精神医学の中心疾患であった統合失調症への対処の基本が薬物療法であるところに端を発し、患者の薬効を求める思いと、医師の面倒を回避したいという思いが一致してしまう構造が明らかにされていた。
医療観察の入院施設では、多職種チームによる手厚い医療体制のため、薬の種類・量とも少ない「美しい処方」がなされていると、たぶんほめてあった。
あまり幻聴の内容を聞かないほうがいい、自殺念慮を聞かないほうがいいという「神話」は本当なのか(ドリフ式診療という)。松本氏は敢えてこれに挑戦する。
アルコールはこの本でも「世界最古の最悪の薬物」ととんでもない扱いだけど、不整合なのはそのとおりだろう。様々な薬物を禁止する中アルコールが持つ応諾機能が利用されてきたのだろうとみられている。
「困った人は、困っている人」。この言葉は最早有名ですね。
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嗜癖障害の治療、依存症の話。
身近にもいないし無縁の話ではあったが興味深く読めた。血液データでズバッと分かるものと違う精神科は治療も難しく、医師によっても判断やそもそもの考え方が違くて治療が難しいのだと分かった。せめてどうにか立ち直りたいと思う人達を救える薬の使い方や、治療の流れが構築されると良いと思う。目指す人が少ないという精神科医や法医学にもう少し目が向く世の中になってほしいと願う
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一気に読み終えた。著者が悩みながら、自身も依存症を自覚しながら、薬を処方する立場の精神科医としてどう患者と対峙しているのかを赤裸々に綴っている。素晴らしい一冊。
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わたしたちの世代の、都市近郊部の田舎に住んでた人はみんな共有してると思うヤンキー文化。割れた窓と校内での乱闘、それから煙草とシンナー。卒業式に泣く不良←これは個人的にかなりイラっときたのを覚えてる。
わたしもここまでは著者と同じような経験を共有している。
違うのは、筆者が次のことに気がついたことだ。
薬物に手を出すと依存症になりやめられなくなる、という言説が必ずしも当たっていないのは何故かを考えるようになったこと。
…確かに。
中学高校時代に若い教員の鼻の骨をへし折ったり集団でケンカをしたりシンナーを吸ってたようなラリパッパな不良たちは、その後「二十歳の禁煙」などと称して薬物をやめ、驚くほどマジメに働くようになっていた。
薬物の依存性から抜けられない人は何が違うのか。薬物だけではなく、自傷行為(リストカットやタトゥー、へそピなど)に依存していくその根っこには何があるのか。
そういうことについて体験をもとに書かれた本である。けっこう響いてくるものがある。
けっこう初めの方に出てくる患者の話。
薬物の害を説く著者に彼はこう言うのだ。害については身をもって分かっている、死んだ仲間もいる、病院に来ている理由は医者が薬物の害について本で得た知識を聞くためじゃなく、クスリのやめ方を教えてほしいからだ、と。
つまり薬物の害の怖さで脅しても、依存からは抜け出せない、と。
薬物についてはベンゾ依存についても触れられている。不安や不眠を改善するために処方されるベンゾ系の睡眠薬や抗不安剤に依存してしまうというもの。
精神科医療のうちで薬物治療が最も低コストで時間もかからないが故に、薬物処方に頼らざるを得ない現状。その中で生まれる新しいタイプの薬物依存。
良く効く!と患者から好感度の高い薬は危ない。
その人の苦しみが深刻なものであればあるほど、劇的な効果をもたらす薬は危険。
そして最後に、世界最古にして最悪の薬物、アルコールの話がくる。傷害殺人ドメスティックバイオレンス強姦の多くがアルコールによる酩酊が関与しているらしい。なんと自殺遺体や自殺未遂者の体内からも高い確率でアルコールが検出されるとのこと。
アディクションの反対語はコネクション。
これはTedでジョハン・ハリという作家が語ったことらしい。それを裏付ける「ネズミの楽園」という有名な実験(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ラットパーク)もあるらしい。興味深い。
アディクションについていろいろ考えてしまう本である。カルトってつまりは宗教にアディクトしてしまってる人たちの集団なのだろう。
カルトから心理的に抜け出すためには他の宗教の力を借りることもあるだろう。
以前、クラスの保護者さんの中に、心に闇を抱える人がいたとき、いっしょにクラスを担任していたクリスチャンの人が「彼女を救えるのは宗教だけ」と言っていた。いや、ほんとにそうだと思う。
宗教っつーか、価値観を同じくする仲間の力なのかもね。アディクションの反対語はコネクション。
宗教の力、偉大なり(いや、この本に���んなことは書かれてないが笑)。
…この本の影の主人公はダルク(http://darc-ic.com)。
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薬物は善か悪かでなく、依存してしまう人の背景を炙り出すのが大事という事。
これは薬物に限ったことでなく、世にある出来事は氷山の一角で水面下には、そこに至る多くの事象があるのだ。ある一面を捉えて判断するのは表面的な解決に過ぎない。根本を見つめるのが重要だ。
そう考えると植え付けられた薬物依存症の方への見方も変わる。そしていかにゾンビの印象を植え付けられてきたかも感じた。負の印象操作に繋がることをする側も気を付けないといけない。正しいと思っている分、ややこしい。
お酒に対してはネガティブな主張であったが、こちらも使い方次第。お酒は、おいしいご飯を更に美味しくさせるし、楽しい時間を更に楽しくしてくれる。そういう“使い方”をしたい。
と、いうことをいろいろ考えされられるので良い本だったと思う。
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松本先生の著書はほぼ読みつくしていますが、最も引き込まれえるように読了しました。
薬物の所持や使用について厳罰化が叫ばれる昨今、これまで以上に薬物について相談できない社会になってしまうことを懸念しています。
精神科医療に携わる人だけでなく、司法や学校教育分野に携わる人、そして一般市民にも読んでもらいたい一冊です。
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違法行為を引き起こした背景は、個人の問題だけではなく、社会の課題に見え、ひとりひとりを社会復帰に導く更生プログラム、治療が必要である点において、先に読んだプリズン・サークルと同じ読後感がありました。
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自身の興味のある領域とも似通う部分がありなかなか教訓となる内容だった。医者はともかく精神科医ならば読んでおいて損はない。
個人的に、依存症も過食摂食障害も反社会的行動も手段は違えど全て愛情の飢餓を代償しているに過ぎないと思っている。
しかし、その大元を辿ることを大半の医者は放棄せざるを得ないのが今の医療の現実であるとともに、患者もまた辿られることに恐怖を覚えている。
そのジレンマとどう向き合っていくかが精神科医の勘案すべき所なのかもしれない。
✏一般に若さとは心の可塑性の高さを意味し、精神科治療においてプラスに働くことが多いが、依存症治療にかぎっていえば必ずしもそうとはかぎらない。むしろ若さとは「失うもののなさ」を意味し、ともすれば、破滅に向かって真っ逆さまに転落するかのような自己破壊的な行動につながりやすい面もある。
✏しかし、ひねくれ、挑戦的な表現とはいえ、人に対する絶望をあえて誰かに伝える、という矛盾した行為そのものが、「人とのつながり」を求める気持ちの表れとはいえまいか?
✏彼の指摘はまさに正鵠を射ていた。説教や叱責といったものは、それこそ彼の周囲にいる素人の人たちが無償でやっていることだ。それと同じものを、いやしくも国家資格を持つ専門家が有償で提供してはいけない。
✏浮き輪を投げて、彼らが陸地を目指して泳がなかったとしても、そのことに関して私たちはどうにも責任のとりようがない。しかし、それは無責任とは違う。当事者の健康さを信じ、相手の「心の自由」を保証するがゆえの配慮なのだ。
✏なにしろ、依存症という病気は本質的には「治りたくない」病だ。
✏これはもはや治療ではない。営業、いや誘惑といったほうがよいかもしれない。
✏依存症は否認の病といわれているが、実は、心的外傷後ストレス障害にもまた否認の病としての特徴がある。トラウマを抱えた患者の多くは、「悪いのは自分、だから、罰として、毎晩こんなつらい思いをしなければならないんだ」と思い込んでいて、このうえ自分が「病気」に罹患していると認めるのは、ただでさえどん底状態の自尊心をさらに傷つけることになりかねない。だから否認するのだ。
✏「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけわかんなくて怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、「痛いのはここなんだ」って自分に言い聞かせることができるんです。
✏要するに、安心できない場所では自傷行為さえできない、ということなのだ。自傷行為は、少しならば安心できる環境、多少は自分の苦痛を理解してくれる人がいるかもしれない環境で起こる現象なのである。
✏少年矯正の世界から学んだことが二つある。一つは、「困った人は困っている人かもしれない」ということ、そしてもう一つは、「暴力は自然発生するものではなく、他者から学ぶものである」ということだ。
✏人は誰しも生産的な存在でありたいと願う動物だ。
✏断言しておきたい。もっとも人を粗暴にする薬物はアルコールだ。さまざまな暴力��罪、児童虐待やドメスティックバイオレンス、交通事故といった事件の多くで、その背景にアルコール酩酊の影響があり、その数は覚せい剤とは比較にならない。
✏多くの国でアルコールが許容されているのは、おそらく二つの理由によるのだろう。一つは、その歴史の長さと社会浸透度ゆえであり、もう一つは、現状の世界では、「ワインは神聖なるキリストの血」と見なす宗教的世界観が主流だから、というものだ。
✏この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけである、ということだ。
✏この答えには続きがある。「悪い使い方」をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ。
✏先輩の一人はある格言を教えてくれた。曰く、「内科医はなんでも知っているが何もできない。外科医はなんでもやるが何も知らない。精神科医は何も知らないし、何もできない」。
✏ラベリングにはさしたる意味はない。彼女の生きざまというか、痛みに満ちた人生の物語を理解していれば、それで十分寄り添える。
✏そのときようやく気づいたのは、ご婦人の「手のかからなさ」とは、実は、援助希求性の乏しさや、人間一般に対する信頼感、期待感のなさと表裏一体のものであった、ということだった。
✏切れ味のよい、「あの薬のおかげで救われた!」という効果が自覚できる薬は、長期的には好ましくない。そして、その人が抱える心の傷が深刻なものであればあるほど、劇的な効果をもたらす薬は危険である。そう考えるからだ。
✏「法に触れることは、「ダメ。ゼッタイ。」」という道徳教育が、日本人の「逮捕されずにハイになる」ことへの執念を育んだともいえるだろう。
✏アディクション(依存症)の反対語は、「しらふ」ではなく、コネクション(つながり)
✏「アヤナイ」は「相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う」という態度なのだ。 この言葉は、そのときの私たちにぴったりだった。支援者/被支援者、あるいは専門家/当事者という垣根を越えて、音楽という「化学物質なしの酔い」を介してつながっていたからだ。
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松本医師とはほぼ同世代なので経験してきた事が似ていることにまずはびっくり。我々が中学高校生の頃はお酒も煙草もハードルが低くて、「嫌煙権」なんて考え方すら無かった事を考えると世間の評価も変われば変わるもの。たしかに、事件、事故を引き起こす頻度や直接の死因となればクスリよりもお酒の方がはるかに危険なのかもしれない。今のところ我々世代のお酒は野放しだけど、若い人は飲まなくなって来ているのも自然な流れなのかな。
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アディクションの対義語はコネクション。薬物依存よりアルコール依存の方が深刻みたいなのだが、なぜ合法なのかしら。
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薬物依存症患者の治療を専門とする精神科医である松本氏による著書。
薬物依存症の真の姿を知る意味でも、また、人間としての医者を知る意味でも、とてもよい本だと思います。
覚せい剤や大麻よりも、アルコールの方が薬物として悪質、というのは、みんなが知っておくべきことだと思いました。
この本にもある「世界最古にして最悪の薬物」という表現は、そのことを浸透させる意味で、とてもよい表現だと思います。
「困った人」は「困っている人」とか、「人間は薬を使う動物」とか、「ダメ。ゼッタイ。」では絶対ダメとか、示唆に富む言葉も多く、とても勉強になりました。
「薬物依存」は、なかなか重いテーマだと思うのですが、そういったテーマを読みやすい形で文章や言葉にできる著者は、本当に力のある精神科医なのだと思います。