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投稿者:暴れ熊 - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトル『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』について、さまざまな角度から論考し、その相似形を見出している。
とにかく、難しい内容を含むのに、読みだしたら止まらないくらい面白い。
それは、筆者の語り口にもよるのだろう。
筆者のサブカルへの造詣の深さにも感服する。
筆者はこの本を「トンデモ本」だとか「マスターベーション」だとか言うが、それは照れ隠しというか、ある種の自己韜晦ではないか。
実はスピリチュアルな世界でも決定論というのはホットなマターなのである。
最近読んだ、小林正観さんの本にも、「未来は決まっている」というようなことが書いてあった。ノンデュアリティの金森将さんも。
「世界とは、自分の心があるのみで、神とは自分である可能性がある」(p284)という世界認識は、スピリチュアルではよく知られた世界認識である。(雲黒斎さんや阿部敏郎さんも同じような世界認識だろう。アラン・ワッツさんも)
「なぜなら世界とは私のことだからだ。そのように考えると、発狂してしまう。」(p296)故・池田晶子さんも、同じようなことを言っておられた。
本書は、スピリチュアルで言われてきた世界認識に、科学の側から肉薄した本だと思う。
科学者の側から、このような本が出てきたことを、私は嬉しく思う。
思えばこの本を書店で”偶然”発見し、迷った末購入したことも、実は仕組まれていたことだったのだ!
ああ、なんということだろう!
ちなみに、決定論の効用は「ものすごく辛いことがあっても『もうこれが起こることは事前に決まっていたのだ』と思えば、少し心が軽くなる気がする。」とあるが、その通りだと思う。
誰のせいでもない、ただ、物事が淡々と起こるだけ。
起こることが起こり、起こらぬことは起こらない。
ああ、なんというトートロジー!!
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こういうの弱いな~楽しい! ワクワク。
決定論を、いろんな実験結果から説明し、信憑性を高めて、そうなのかもと思わせてくれる。この手に詳しい人はどう思うか分からないけど、何にも知らない自分はとても楽しく読めた。
NOTE記録
https://note.com/nabechoo/n/nc4b0a22b957d?magazine_key=m9672e1d4fe74
自由意志はないのか、すべて決定してる世界なのか? まあ、真実は分からないけれど、とにかく、興味深い話を分かりやすく説明してくれて、知的好奇心を存分に刺激してくれる楽しい一冊でした^^
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心理学的決定論が真理かどうかは分からないが、 とても面白かった‼︎
この考えに立った時、世の中の多くの問題は議論する意味すら失ってしまう。そういう意味で根源的だなと感じた。
チルチルミチルが探した青い鳥は結局自分の部屋にいたように。
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もともと自由意志というテーマはとても興味があり、この本はズバリ自由意志についてて書かれた本。
著者自らトンデモ本であると言っているが個人的には最高にイカした本である。
今まで自分の中でモヤモヤしていたものをぜーんぶまとめて言葉にしてくれた感じで、おおけさに言わせてもらえばこの本を読んで悟ることが出来ました。
自分の嗜好にここまではまる本は珍しい。
むちゃくちゃ面白い本です。
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結局、自分の意識の外のことは何も確かめようがない。映画マトリックスやトゥルーマンショーが好きな人(私も含めて)にお薦め。妹尾先生が発狂されないことをお祈りします。
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タイトルを見て、そんな考え方もあるんだ!面白いと思って読んでみたところ、確かにそうかもしれないと8割方信じさせられた。
剣道で面を素早く打つとき、打とうと意識する前に、脳と体が勝手に先に動いている。野球で速い球が打てるのも同様。打とうと思ったのは幻影であって行動に影響は及ぼしていない。
人間もAIと同じで、環境からの情報を元に条件反射的に行動させられているだけ。AIの選択を人間にわかるように説明することができないブラックボックス問題と同じく、人間も膨大な情報のやり取りを自分で全て理解できないため、行動に自由意志があるという誤解、幻影が生じる。
やめようと思っても薬物やアルコール中毒の人がやめられないのは、脳が意思より先に動いてしまうから。親の虐待を受けた子が次世代の子に虐待する確率が高いのは、成長過程で脳に損傷を受けたからかも知れない。というのは本当に有り得そうだと思った。
発達障害のある人は相対的に功績を残してきた人が多い。少数派の人は生きづらい世の中だけれど、自分で意識をコントロールして行動を変えるのは所詮無理なのだと思うことで、つらさが少し和らぐのではないかと思う。
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クールな研究書というよりは、熱い世界観みたいな印象。決定論ということで、スピノザも時々引用される。
意識とは情報の変動に過ぎず、自然法則に従う。自由意思はなく、全ての情報の変動(つまり行動)は環境との相互作用によって事前に決まっている事である。
扱える情報量の多さに応じて自由意志の錯覚を強く与えられている。
なるほどーだけど、何となくショック。
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ちょっと難しいけどわかる範囲で納得も出来た。 心理学的決定論なるものが本当に真理なのかは分からないけど全体的に面白い説だと思う。
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真面目な内容ながら、著者自身が「トンデモ本」と称する攻めた本。
帯の「あなたが本書を手にすることは、138億年前から決まっていた」が効いており、決定論の話をすると「じゃあ何?あれもこれも決まってたって言うの?」と反論する人がいるが、それをすごく先回りして答えた形で、最初からここまで断言されたら、読むしかない。
内容はかなり好き嫌いが分かれると思うけど、最初から万人受けすることを放棄して入ればこその、この読み応え。
著者はサブカルにも詳しく、なにかと難儀な経験をしてこられた方のようだが、文章も読みやすく「この作品が判りやすい」と示される映画や本がいちいち見たり読んだりしたくなるオマケ付。
人生のいろいろな場面で読み返したいと思う。
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本書は、書店で見かけてタイトルに惹かれて購入した。『未来は決まっており、自分の意思など存在しない。』私がこの本を手にとって購入することは、すでに決まっていて、私の意思など無かったの?なんて思いつつ手にとったのを覚えている。書籍の帯にも「あなたが本書を手にすることは、138億年前から決まっていた。」と書いてある。もう何がなんだか、確かめずにはいられなくなって気がついたら購入していた。のかな〜
著者の思考の軌跡をたどっていき、タイトルのような考えを持つようになったのかを証明するような一冊だった。著者の思考についていくのは結構たいへんで、多くの分野の哲学・思想を読み解きつつ結論に導く旅は、険しく、危険に満ちている。
とはいえ、どれも興味深く読みすすめることは苦にはならなかった。
私たちの未来は、決められたレールの上をただ進む状態で、自らの意思や決めた(と思っている)こともすでに確定されていたという世界だったら、皆さんどう思います?簡単には信じがたい考え方だが、もしも、それが万物の真理だとしたら?
こんなことを考え続けることなど今までは無く、とても貴重な体験ができた。
また、本書には映画や漫画、小説等多く引用されており、それらの作品にも興味をひかれる。読みたい本や漫画、観たい映画がいくつもあり積読本、漫画が増えそうで怖い。そういう意味でも、危険な本だ。
近いうちに再読をしたい。
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好きな人は好き
生き物は基本ソフトウェアに環境の影響を受けて成長するとしたら、将来にわたるまで、結果が決まっているのでは?という感じですかね。
まあそうとも言えるし否定は難しいですね。
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心理学博士妹尾武治さん著。まだまだわからないことだらけの脳と心の関係性を科学的には100%正しいとは言えないが心理学、生理学、脳科学、仏教、哲学、アート、文学を通して考える。心の重さを数量的に測ることは難問ですね。
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『トゥルーマン・ショー』を観たことがなくとも、自分だけが世界の主役なのでは?という問い。存在や実存の不可知性。心理学、脳科学、哲学など学際的な知見を横断しつつ、本著が提示する「意識とは情報である」との結論は説得的であり、脳みそがぐらっぐらする。
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>意識とは情報であり、生命とはその情報を増やすために配置された「なにがしか」(存在)である。
ドーキンスの利己的遺伝子論と同じ。我々は遺伝情報を増やすための乗り物
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Amazon Kindle の電子書籍、妹尾 武治著「未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論 (光文社新書)」をスマートフォンの TalkBack 機能を使って聞く読書しました。これはキンドルアンリミテッドに入っていないのでお金を出して買いました。
次は Amazon にある、その本の内容紹介です、
心理学、生理学、脳科学、仏教、哲学、アート、文学、これらには一貫性がある。それは心理学的決定論という相似形が必ず現れるということだ。異なるアプローチ法によっても、たどり着く到達点は常に同じだった。 それは、我々の自由意志とは錯覚であり、幻想であるという事実だ。我々の行動は全て事前に決まっている。環境と自己との相互作用による脳の働きによって、必然的で不可避な一つの行動に、我々は導かれる。我々は神の操り人形であるが、その神とは自分自身と世界(外界)との相互作用のことなのである。(引用終わり)
僕は高校生の頃、物理の中の力学が好きでした。
そして物事には因果関係がきちんとあることを知りました。
また、脳も 物質でできていることを知りました。
とすると、物事というのは全て決定されている、という考えが頭に浮かびました。 高校3年の頃だったと思います。
それ以後、決定論に関心があり、いろいろ本を読みました。 この本もそれで読みました。この本の 決定論の部分はとても面白かったです。僕が思っていることにいろいろと肉付けをしてくれました。
次はこの本からの引用です。
我々の行動も、周辺情報が十分に揃い、それを解析すれば、一意に定まるのではないか? その日の天気、親などの周りの人物との過去の履歴、本人の生い立ち、そういった情報が全て揃うなら、その日にその人物がどこで何をするのかが予測できるのかもしれない。だとすれば、その人物の未来は、事前に確定していたといえるのだろうか?(引用終わり)
僕はその通りだと思います。人間の行動は全て決まっているのです。この本はそのあたりをきちんと説明してくれます。
ただし、この著者による、意識と そして唯識論については、僕は賛成できません。
妹尾 武治著「未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論 」を読みましたが、そこで書かれている「意識」は、おかしいな、と思います。
次はこの本からの引用です。
私は情報そのものが意識であり、その統合の必要性すらないと考えている。山も海も太陽光という情報を熱等の多数の情報に変換する、その意味で、彼らなりに意識があるといえる。(中略)
AIにはAIの意識、山には山の意識、海には海の意識、まさに曼荼羅の世界観である。(中略)
犬や猫はいうまでもなく、ハラハラと散る枯葉にさえ、なんらかの意識は宿っているはずだ。(引用終わり)
僕はこれは間違いだと思います。犬や猫には意識はあると思いますが、山にも海にも、そして枯葉にも意識があるとは思われません。
確かに意識があるかどうかというのは難��いです。
僕は自分の意識を感じます。
しかし目の前にいる妻の意識は見えません。
意識はあると思いますが、それがあるというのを直接感じることはできません。
とすると、山や枯れ葉にも同じようなことが言えなくもありません。
証明はできませんが、それでも僕は枯葉に意識があるとは考えられません。
次はネットの辞書からの「意識」の意味です。
意識の意味、自分が現在何をやっているか、今はどんな状況なのかなどが自分でわかる、心の働き。(引用終わり)
こんなものだと僕も思います。そういう心の働きが枯葉にあるとは考えられないのです。
著者は著者なりの意識の意味、定義を持っているのかもしれませんが、それが通常とは大きく異なります。
次はこの本の後半部分、著者の若い時のことが書かれた部分から引用します。
帰宅して、深夜にウイスキーの大瓶と、ドラッグをまとめて摂取した。死にたいという自由意志を実行したのだ。
だが、2日後に目を覚ましてしまった。致死量を計算して飲んだつもりだったが、部屋が黄土色の血でいっぱいだった。意識が飛んだ後に、全身から出せるものを出したようだ。そのため意識が戻ってしまった。(引用終わり)
ここに「意識が飛んだ」とか「意識が戻った」とか書かれていますね。これが意識だと思います。
意識は飛んだり戻ったりします。
ぐっすり眠って夢も見ていない時には意識はなくなっています。
そして目が覚めると意識は戻ります。
枯葉にも意識があるのなら、飛んだりすることはないのではないでしょうか。
証明することは僕にはできませんが、とにかく著者の書いてある意識は間違いだと僕は思います。
「唯識」もおかしいと思います。
次はこの本からの引用です。
仏教(般若経)では「一切は空」とする。であれば、これら在も空であり、存在していないと考えることが正しいとするのだ。ただ、唯一自分自身の心だけは存在していると考える。
存在するのが自分の心だけであるならば、A子さんもB男さんも机も部屋も、全ては自分の心の中で作っているはずだ、という考えにたどり着く。これが唯識である。
まず、外界の実在を否定する。あるのは、世界の方ではなく、私の心だけだと主張するのである。A子の見た目も、B男の体臭も、机の木目も、空間の広さも自分自身の心の中で作っているのだと。(引用終わり)
理解できたでしょうか。著者はその理解のために「邯鄲(かんたん)の夢」を紹介しています。そのまま引用すると長くなるのでネット辞書にある短いの引用します。
盧生 (ろせい) という青年が、邯鄲で道士呂翁から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、炊きかけの黄粱 (こうりょう) もまだ炊き上がっていないわずかな時間であった(引用終わり)
今自分が生きて、送っている人生は夢なのではないか、ということです。
夢が現実なのか、現実が夢なのか、僕らにははっきり分からないのです。
これと同じように、目の前に広がる世界が本当に存在するのか、分かりません。
バーチャルリアリティというのがありますね。僕らがそれのとても精巧なものを装着していて、装着していることも気づかないでいると仮定してみましょう。
僕は僕の目の前にスマホがあり、僕はそれを持っています。
しかし、それはバーチャルリアリティで見ていて、そして手の触覚もバーチャルだとしたらどうでしょう。僕らにその区別ができるのか。
確かにそれがバーチャルではないということを証明することはできません。
それでこの本の著者妹尾武治さんは、意識だけがあり、その他のものは存在しないという「唯識」の立場に立ちます。
今、目の前にあるスマホが意識で作られたものではないというのを証明することはできませんが、ただ逆に、それが現実のものではないというのを証明することもできません。
唯識も絶対ではないのです。
ぼくらの目の前にあるのは実際に存在するという考えも成り立ちます。それが自然です。そう考えたほうがわかりやすい。
夢と現実は確かに完全に区別はできませんが、僕らは日常では区別しています。 そして目の前にあるのはバーチャルだとは思われません。
その感覚を大切にすれば唯識の考え方には立たない方がいいなと僕は考えています。
いま『1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365』を読んでいますが、そこから引用します。
イマヌエル・カント(1724~1804)は、懐疑論という問題を哲学がまだ解決していないことを、たいへんな「不名誉」だと見なしていたが、マルティン・ハイデッガー(1889~1976)は、不名誉なのは懐疑論という問題を解決していないことではなく、解決しなくてはならないと哲学者が考えていることだと書いている。(引用終わり)
私の目の前にあるスマートフォンもパソコンも、そして妻も猫も存在しているのです。
それが存在するかどうかを考える必要はないのです。