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アメリカ生まれ、ヨーロッパ育ちのウィンターボーン青年が、同じくアメリカ人の美しいデイジー・ミラーと出会い、別れるまでの物語。おそらく19世紀の後半の欧州で、いわゆる上流階級の人たち(在欧の米国人たち?)が属している社交界を舞台にしている。
例えば、デイジーは若い男性と昼夜問わずに2人で散歩する。それだけのことでも、当時は大変にはしたないことのようにみなされ、彼女もその母親も思慮に欠ける人たちとして冷たく扱われる。ヨーロッパでは特にそうだったのか、アメリカ生まれの自由で、天真爛漫な気質の権化であるようなデイジーには、どうしてもその厳格さが理解できないように思われる。ウィンターボーンは在欧の期間が長く、土地の習慣が身についているので、デイジーの圧倒的な美しさに惹かれるものの、社交のルールをまるで無視するような言動に、彼女をどう評価していいか悩んでいる。
時代背景などの知見に乏しいため、真偽のほどはわからないが、ヨーロッパの伝統的で厳格な気風と、米国の自由さや純粋さとを対比して描いている側面ももちろん大きいと思う。けれど、作者は序文の中で、本作は「詩」であると言っている。デイジー・ミラーが「詩」だとすると、ウィンターボーンの苦悩も理由がないことではないのかもしれない。現代でも、ほんの少しの他人との関わりで、その人の内面までを正当に理解して批評することはできないだろうと思う。確かに、本作自体も分量としてそれほど長いものではないし、実際、ウィンターボーンとデイジーが会ったのもそれほど多い回数でもない。それこそ詩のように、少ない情報から1人の人を判断するのは難しい。もちろん、多い回数、長い年月をかけて人を理解しようとしても、いずれにしても十全とはいいがたいのだろうけど。
デイジーが、何の深い考えもなしにただ単純に(軽薄に、)快原則にのみ基づいて行動する人だったのだとしても、自由に行動することを良しとしてあえてそうしている面もあるのなら、当時としては得難い女性だったのかもしれないという評価もできる。少なくとも、ただ美男子というだけで婚約までしてしまうような人ではなかったかもしれないことが、すでに取り返しのつかない時点で明らかになる。
前述したように小説として長いとは言えず、デイジーの描き方としても急に現れ、慌ただしく去っていくような感じもあった。それに、このような出会いは無数にあって、結果人生における細部でしかないとみなすこともできるかもしれない。しかし、こと男女間になると、些細なことから結婚相手になり、それでもしかすると一生が左右されることもある。また、実際に他人を正当に評価することなどできないように、より丹念に作中人物を描いたところで、すべてが明らかになることもない。本作は、ぱっと燃え上がってすぐに消えたような、1人の女性の印象を鮮やかに描いている小説と思った。
なお本作は岩波文庫版を2度購入したが、読まずに実家の倉庫に眠っていた。そんな不真面目な読者が、新潮文庫の新訳では、ほとんど1日で読了できた。それはなぜか。新潮文庫版は文字が大きくて読みやすいし、たまたまなのかもしれないが、ページを触った時の感触が少し固めで���心地良かった。それだけのことで、楽しい読書になるかが決まる。逆に言えば、自分にとっていかにモノとしての本が重要なのかが分かった。
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旧訳では読んでいるのだけれど、このほど新訳にて。
うーん、まあ、なんというか。ちょっとホリー・ゴライトリーを連想したり。
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表紙のジョン・シンガー・サージェントの絵に惹かれて、完全にジャケ買い。
元々海外文学に苦手意識があったため少し迷ったが、あらすじの内容と帯の「誰が彼女を殺したのか?」という文句に心を奪われ購入を決めた。
結果、読みやすくはあった。
時代や文化背景を知らなすぎることを痛感はしたが、そういうのなしにしても楽しめた。
彼女が何を思っていたのか、結局最後まで彼女の口から語られることはなかった。それでも、ウィンターボーンには伝わったのだろうと思う。
失ってから気付く、本質が見えるという典型的なパターンのように思えるが、単純に悲劇だとは言えないような気もする。
難しい。
これを機に、海外文学にどんどん挑戦していきたい。
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新潮文庫の新訳版。訳者は小川高義さん。
O.ヘンリーの訳の時も感じたが、クセがあるけどなんか食べたくなっちゃうセロリ、みたいな翻訳だなぁと。すきです。
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ちょっと不思議な感覚な物語だった。
世間知らずの主人公青年がぶっ飛び美女に気があり追いかけ回すものの、そのぶっ飛び美女にはその気がないという、特にどうということがない展開であり(笑)、登場人物たちの心情のうつろいや性格描写が限定的でいまひとつ物語に入り込めなかったことが大きいかもしれない。
また、物語の終息が唐突であり、ちょっと意外だったこともあるかもしれない。
物語はスイスのヴェーヴェーが舞台の出会い編とイタリアのローマが舞台の袖にされる編の大きく2つに分けられる。
スイスのヴェーヴェーでは雄大な自然と古城が開放的な気分の舞台装置としてはぴったりで、イタリアのローマの街並みと古代遺跡の重みが旧弊的な雰囲気であるのと対を成している。
主人公は結局は袖にされてしまったが、念願かなって自分がデイジー・ミラーのお相手にとって変わっていたら旧弊さとは逆の立場になっていたのでは?とも思え、いくばくかの不自然さも感じるところである。
作者のヘンリー・ジェイムズはこの作品は詩であるという。
そういえば舞台装置といい、登場する男女の駆け引きといい、詩の構成にはぴったりのように思える。
微妙な不自然さを解消するには、いっそのこと曲をつけてオペラにすれば良いと思える作品だった。
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アメリカ人の青年がスイスの保養地で一目惚れしたアメリカ娘を再びローマで出会う。彼女は当時の常識から逸脱した奔放さで現地の伊達男と付き合い、青年をやきもきさせる。青春期をそっと吹き抜けていった風のような淡い体験。2022.3.4
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『テヘランでロリータを読む』に出てきたので、そういえばヘンリー・ジェイムズ読んだことがないと思って並行して読みました。
といっても130ページほどの小品なので2、3日で読み終わる。
『テヘランでロリータを読む』によると、「後期のヘンリー・ジェイムズ作品よりは難解ではない」らしいのだけれど、シンプルなストーリーゆえにこれをどう受け取っていいのかわかりませんでした。
美しきデイジー・ミラーは天真爛漫で純粋な娘なのか、それとも下品で愚かな女なのか。彼女はウィンターボーンを愛していたのか、そしてウィンターボーンは?
デイジーを糾弾するのはヨーロッパの社交界。夜遅くに男と遊びまわっているとか、その男がハンサムな弁護士ではあるものの上流階級の紳士ではないというのが主な理由。紳士階級であるウィンターボーンと出歩くのはOKなの?
『デイジー・ミラー』が発表されたのが1878年なので、当時の道徳観だと、デイジーの行動は許されないんだろうなと思いつつ、それを上から目線でジャッジするウィンターボーンの不甲斐なさはどうなんでしょう。彼は自分ならデイジーを救えたと思っているのか。
アメリカ娘であるデイジーもウィンターボーンも、スイスやローマのホテルに滞在して観光やら社交に出歩くだけという上流階級的な過ごし方もうらやましいというよりちょっと不思議。
以下、引用。
そう言えば、さる皮肉屋の同胞から聞いた話だが、どうもアメリカの女というのは──それも美人というので、この説がもっともらしく聞こえるのだったが──世界一、注文が多くて、世界一、恩知らずなのだそうだ。
紳士たる者が強いて敬意を向けるほどの女ではなくなった。
あのヒロインの名前だけでは何となく平板に思えたのかもしれない。また、彼女の物語自体が言ってしまえば平板なのであって、どこにどう山場が来るというものではない。
しかも扱おうとする題材は、ほとんど取るに足らず、一見して低俗でもある。
この小品は話の展開で読ませようとするものではない、というより遠慮も会釈もなく詩であろうとしている。
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こういう作品(海外の古典文学等)に低評価を付けるたびに、「この作品を楽しめなかったのは、私がこの国・この時代の知識に乏しいせいできちんと理解できてないせいなんだわ……」ってなります。キャラクタの機微とか言動の裏に隠された意図とか、ま〜〜〜〜分かりません。行間読めない。ぐぬぬ。