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最近よく聞くようになった、頑張らなくてもいい、という言葉。これは頑張っている事が前提となっている。そして、本当は頑張りたい子どもたち、可能性がある子どもたちの芽を摘んでしまう言葉でもある。
また、頑張っていることが条件となる場合、頑張っているかどうかの判断基準は他人に評価されることであり、究極お金になるかならないかによることもある。
みんなと同じでなくてもいい、ともよく言うが、本人たちは、みんなと同じになりたい、という気持ちも持っている。その場合同じでなくてもいい、は適切な声がけと言えない。
後半はより具体的な、頑張りを引き出す方法について。
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前作「ケーキの切れない非行少年たち」で衝撃を受け、さっそくこちらを拝読。
前回に引き続き、自分にはなかった新たな世界と視点を与えてくれる内容だった。
特に第4章の【やる気を奪う言葉と間違った方法】では、自分や両親、これまで関わってきた先生に置き換えて思い返してみると愕然とする点が多く、共感する反面、自分も将来子どもに同じスタンスを取ってしまうのではないかと危機感を覚える。
「もっと勉強しなさい」と言われる子どもの気持ちを例えた描写が秀逸で、当たり前にその通りだな、と青天の霹靂の気持ち。
「だから言った通りでしょ」は大人になればなるほど誰しも口走りたくなってしまうワードだけれど、実際1番失敗して落ち込んでいるのは本人だということ、傷口をえぐる行為をしているのは大人であることなど、この本を読んで理解すること、受け入れることが本当に数多い。
自分の生きていく過程の中で培った価値観や、関わってきた人たちの中で芽生えた軸や芯みたいなものに、良い意味で異議を突きつけてくれるような本。
印象的だった言葉
「好かれるというのは、子どもに笑顔で挨拶する、名前を覚えている、最後まで話を聞く、子どものやったことをちゃんと覚えている、そんな人と人との基本的な関係なのだ」
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最初に伝えておくと、非常に長いです。内容がとても濃厚だったので、読了からだいぶかかってしまいました。
わたしが働く学校は、通信制高校に在籍している子たちが学ぶ学校だ。だから、基本的に自由な時間に登校できるし、平日学校に来ず、友達と遊びに行くこともできる。
必要な単位さえ取得できれば、卒業は可能だ。
枠としてはそのくらいなので、サボれる子はいくらでもサボれるし、真面目にやろうとするとキリがない。
自分自身の軸のようなものをしっかり持てていないと、どうしたらいいか分からない子はいるだろう。
一方で、精神疾患を抱えている子や、不登校だった子どもの受け皿になっていることも確かだ。
学習も行事も、全日制高校に通っている、あるいは通ったことのある人からしたら、だいぶ緩い。
わたしたちも、生徒たちには通ってほしいと思うから、どうしても甘やかしてしまう。
卒業までにこの子を、いわゆる「普通の」社会でやっていけるようにしないといけない。そんな風に思うけれど、企業が経営しているということもあり、なかなか生徒にも強いことを言えない。
コロナ禍で普及したオンライン授業。生徒の学習機会を継続できるものではあるけれど、サボり癖のある子には、その癖をより助長させてしまった。
小学校や中学校に全く行ってない子もいる。
わたしの中学校生活は、なんかもう戦場そのもので、親に行きたくないと訴えたこともあった。
それでも行き続けたのは、親がそこで悲しい顔をして、休むことを許さなかったからだ。
あの時、誰かがわたしの味方になって、「休んでもいいよ」と言ってくれてたら、全く違う人生を送っていただろう。
あの過酷だった日々、もう二度と戻りたくない日々の中にあったもの。
おそらくそれは「頑張った経験」なんだろう。
一日一日を過ごすだけで、自分をただひたすら守り続けるだけの、ままならない毎日。早く終わってほしいと祈り続ける毎日。それは、あの過酷だった日々を「乗り切った」ことになる。今思うとそれは、紛れもなく「頑張った経験」だ。
それを美談にする気はない。だって中学の頃の思い出なんて、ほとんど覚えてない。その過酷さしか、わたしの中に残ってない。
今も中学校で苦しんでいる子たちはたくさんいるわけで、命がけで学校に行っている子たちだっているはずだ。そんな風に、すでに頑張りすぎてしまった子たちには、休む提案は必要だ。しかし別のフィールドで、学校生活を送る機会はあった方がいい。
本作品に、こんな言葉が出てくる。
P34「『頑張らなくてもいいよ』『もう我慢しなくていいよ』とは十分に我慢して頑張ってきた人たちへの労いの言葉であり、まだ頑張っていない人への言葉かけではありません」。
気を付けないといけないのは、背中を押さないといけない場面で誤って労ってしまうことだ。
生きてるだけで疲れる現代社会、なんでもかんでも「無理をしないで」と言いがちだ。相手のことを深く知らないと、どちらの声かけが目の前の子に相応しいのか分からない。安易に「無理しなくていいよ」��言い過ぎている、自分の支援方法を、恥じた。
日本の学校教育は叩かれることが多い。
けれど、最近思うのは、社会に出て必要なことをそれなりに学んでいける場でもあるのではないか、ということだ。前述した「別のフィールドで、学校生活を送る機会はあった方がいい」というのは、そういうことだ。
もちろん、社会の全てを学校で学ぶことは難しい。だけど、学校生活についていけてたかどうか、って結構重要な指標なんだなと、そんな風に思った。
最近わたしが考えていることは、社会が厳しすぎるのか、もしくは社会の厳しさは普通で、そこについていけない人たちが甘いのか、ということだ。
大人や社会を完全に舐めてる子たちに「それじゃ社会でやってけないよ」と、よく思う。でも、その子たちはその子たちなりに、きっとその社会の中でそれを学んでく。たぶん、大人がすべきは、その学ぶべきものの先取りではなく、壁にぶつかった時にでも諦めずに向き合っていく力をつけてあげる、ってことなんだと思う。
でもそれってどうやってやるんだ。社会に出る前、複雑な家庭環境で育っていたり、繊細すぎていたり、怒られることを極端に嫌がったりする子に、社会のハードルは高い。
よく、児童養護施設が例に出される。18歳で自立を求められ、環境面でも精神面でもまだまだ脆弱さが残るその年齢で、さらに複雑な環境を経て施設へ入所した子なら、挫折をする子は多いだろう。挫折経験は、「普通に」社会人になった子にも、大きな壁となる。大学を経て、20歳を過ぎても社会人になるのは大変だ。それを、施設を出たばかりの、たった18歳の子がこなしていかなくてはならない。
今のまま、社会に出たら怒られることだってたくさんある。
怒られた時に、逃げるのではなく、へこんでもいいから、落ち込んでもいいから、向き合ってほしい。
意味がわからないこともあるかもしれない。それならば、それを相談できる人に相談して、客観的な意見をもらったらいい。だから、信頼できる大人、相談できる大人が傍にいること。結局、「自立支援」というのは、こういうことになるかもしれない。
でも、社会にいる側の大人も、「怒り方」には気を付けないといけない。この「怒り方」を間違う人がいるから、社会のハードルが高くなるのではないか、社会が厳しすぎるのでは、と思うのだ。
P25「支援したくないような人こそ実は支援の対象」
この「支援したくない人」の中には2種類が含まれると思っている。
「支援を求めてくる支援者」と「支援を求めてこない支援者」だ。
前者には支援したくなるけれど、後者にはその気持ちは起こらない。
支援する側の、接し方は異なったものになるだろう。
あと、支援を受けている時に申し訳なく思う人やお礼を言ってくる人には支援したいと思うけれど、やってもらって当然!それが仕事ですよね?みたいな尊大な態度を取られると支援したくなくなってしまう。
このような差別化が起こらないように、できるだけ公平に人を支援したいと思う。でも、支援者の状況や能力に差がある分、支援の公平性というのはとても難しいし、人がやる以上、やはり接し方に差が出てしまうのは否めない。
だからどう��ても、助けてほしいと言っている子だけ、支援を求めている人にだけ支援をする、ということが起こる。
人に敬意を払い、「この人になら相談したい」と思ってくれている人。そういう人には、こちらも支援したくなる。
でもそれって結局、支援する側の自己満足だ。
その関係性なら、支援者側の言葉はどんな言葉も響くだろう。
問題はそうじゃない関係性の時だ。
正論や常識が理解できない、人の気持ちを理解できない、そもそも人を信用していない、甘やかされ過ぎて人に何かをやってもらうのが当然だと思っている、等々。
最終的には結局それに向き合っていくって事なんだろうけど、わたしにはその勇気や力があるんだろうか。
そのような態度を取ってくる生徒に対して、怒らずに、しかし言うべきことを言うことができるだろうか。会社とお客様という枠組みと関係性の中で。
「向き合う」という言葉の中に含まれる、日常的なコミユニケーションとはどんなものか。その時に発された言葉への切り返しは、一体何が正しいのか。
学校へ行く意味。
来てくれたら出来ることはあるけど、来れないならできない。
でもそれでは不登校を否定することにならないか?結局、来れない=怠けてる、と思っていないか?
朝井リョウの「正欲」で思ったことでもあるけれど、結局わたしの思考は、マイノリティのふりをしたマジョリティなのだ。多くの人が頑張れるわけだから、それをしないのは怠けてる、と決めつけてるマジョリティ。
でも高校を卒業したいのであれば、やっぱり最低限のことはやるべきなんじゃないか?
でもこれは「頑張り」の押し付けであってもしかしたら「頑張れない」のかもしれない。
だとしたらその根っこはなんだ。
なぜ頑張れないのか。どうすればやれるのか。
わからない。難しい。
一体何が正しい支援なのか。
P3「頑張ったら支援します」
という考え方は、正論ではあるのだけれど、「頑張れない」を排除していることになる。でも、なぜ「頑張れない」のかを探るのは難しい。だから、「怠けてる」のか「頑張れない」のかを探るため、やはり「ここまで頑張ったら支援します」という過程はついてくることになる。結果、頑張れなかった人は、振り落とされてしまう。社会と密接に繋がった教育業界が頑張るを強要して、そこで疲れた人達が、福祉を頼ってくる。そこで癒された人たちが、再び「普通の」社会に戻ってゆく。
おそらく、現代日本では、このループが起きている。
これで、いいのか?社会ってそういうもん、で済まされるのか?
長くなりました。最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
対人援助職の人はもちろん、すべての人に読んでもらいたい一冊。
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今まで当然だと思っていた考え方に対して、一旦立ち止まり、再度考えてみることができた。
頑張ったら支援する、頑張らなくていいの声かけ、立場を加味しない承認等、たしかにと思うことが多すぎた。
考え方を知るだけではなく、しっかり行動に移していきたいと思える一冊。
定期的に読み返したい。
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同作者の続編となる作品。
前回は非行少年側の視点で書かれていたものが、今回はその人々を支える側の視点からどんな風に支援していけば良いのか、支援する人を支援することなどが中心に描かれている。
・頑張ったら支援するは条件付きの厳しい言葉
・無理するなという風潮は人のモチベーションを下げる
・彼らの話を聞くときは最後まで聞いてあげる、話の腰を折らない
かける言葉や周りの環境をきちんと整える事が彼らへの支援に繋がると言うことは、非行少年自身だけではなく、社会全体が変わっていく必要があるのだと感じました。
この本は前回の本とセットで読んで初めて1つのものとして完成する本なのでもし読みたい人は、前回の本と一緒に読んで欲しい本かなぁと思いました。
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大ヒットとなった『ケーキの切れない非行少年たち』の続編。「頑張る」ことに価値のある社会の中で、「頑張れない」人たちはどうすれば良いのか、ということについて論じた本。
まさに同じ疑問を共有していたため、非常共感できる内容だった。前作と違い驚きや意外性はないものの、実際の支援という観点から見ると、当たり前ながらもとても大切なことが簡潔にまとまっている。特に「やる気を奪う言葉かけ」の項は自分も思い当たる節があり、不味かったなと反省することができた。
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前著、ケーキを切れない非行少年たち、を読んでから本著を読んだ方がよい
こちらは非行少年たちが何故そうなのか、を踏まえたうえで如何支援していけば良いのかが記されている
書かれている内容は著者自身もできていないことがある、とするほどバランス感覚と意志を要することであり、支援のハードルの高さを実感できる
しかしながら、社会の限られたリソースの有効活用を考えたときに必要なことだというのは前著から数値的にも理解できる
どうしても頑張れない我が子や職場の方にも当て嵌まる内容なので、現実的な落とし所を模索したい
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前作、ケーキの切れない非行少年たちの補足本です。
前作のタイトルにインパクトが強すぎて影になってしまう一作ですが、彼が懸念しているメッセージが圧縮されていました。
「支援対象にならない人、したくない人こそ、先ず助けるべき人である」
この本を読みながら、昔聞いた話を思い出しました。
外科医でありながら、健康につながるアプリゲームを開発していた先生の話です。
彼は大腸を全摘出(まるまる切除してしまう)しており、自分のような人を増やしたくない一心でアプリゲームを構想したのだそうです。
それにしても、医師という激務をこなしながら、どうしてアプリ開発は大変な作業です。
なぜそこまで?という疑問に対して、彼はこう答えていました。
医者が健康のため、患者に施術を施せる時間はほとんどないのだ、と。
入院は人生のほんの数日に過ぎない。
しかし、ほとんどの人は、入院前は手遅れになるまで長い間病巣に気づかない。
そして退院後は悪い習慣に戻ってしまう。
今求められるのは医療技術の発展だけではなく、その善後策である。そう忸怩たる思いを話されていました。
医術の権威から医術を否定されるとは思わず、大変印象に残ったものです。
話を戻します。
今回の本も、この話に通じるところがあります。
成果主義、能力主義に基づく評価を全てとみてしまいがちですが、それは瞬間のものです。
その前後には一人一人の長年にわたる背景があり、従来の一時的な支援では不十分です。自己責任の名の下にそれ以外の時間、彼らの人生を軽視すべきではありません。
宮口さんの希有な経験は、立体視のように新たな課題を浮かびあがらせてくれました。
一貫性をもったコミュニケーション。言うは易く行うは難しです。
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『ケーキの切れない非行少年たち』には、こどもの実態が書かれていた印象でしたが、この書籍では、そのこどもたちとどう関わるべきか、どのような心持ちで対応したら良いかが書かれていたように思います。
「頑張らなくてよい」という言葉が、その後の人生を生きていくこどもたちにとって、よい言葉でないこと、つまり、大抵は我慢をし、労苦を経験しながら生きていかねばならないこどもにかける言葉として、決して適切ではないことなど、うなずくことが多かったです。
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これまで支援が行き届かず、取り残されて生きづらさを抱えた少年たちがいることを私たちは知らなくてはなりません。たしかに犯罪は悪いことですが、そこに至る理由であったり、育った環境や境遇にも目を向ける必要があります。誰もが賢く強い存在ばかりではないし、著書に出てくる特性の子どもたちも一定数は存在します。間違った支援にならないためにも、社会全体が正しい知識を身につけて理解することが大切だと思います。
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レビューを拝見したところ、辛口なコメントもありますが私はとても刺激を受けた。
世の中は単純ではないと改めて思いました。
反抗的な態度を取るその裏には、支援を求めているとは考えてもみなかった。
特に、頑張らないのは個々の勝手だと思っていたが、頑張れない人がいるのは驚いた。
社会が見放して、良い社会が生まれるのだろうか。
世界変えるのは不幸を知るそのような人なのかもしれない。
人と人が繋がっている世界で生きているのだから、見放してはならない。
疑問が生じたなら、深く考えなければいけない。
その裏にはきっと真実があるのだと思う。
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頑張れない人にこそ支援が必要といった考え方に同意。
私も仕事柄、たくさんの頑張れない人を見てきました。
そうした人たちは怠けていること自体が、なんらかの特性であったり、習慣の問題であったりします。
そうした特性を持つ人たちは、自分に自信がなく、ダメな人間だと感じていることも多いように思います。
だからこそ、なんとか彼らを立ち直らせるヒントが欲しいと、本書を手に取りました。
この本には支援者や保護者との向き合い方、考え方。褒めるタイミングや声の掛け方といった感覚的なことが多く書かれており、その方法を知りたい!と思う人には物足りないと思います。
心理学の話も出ていますが、教育現場にいれば常識の範囲内なので、あまり得るものはありませんでした。
ただ、現場にいると子供に言うことを聞かせるために厳しい指導が優先されがちなので、こうした本があることで仕事の勇気にはなりました。
前著は、知的障害の話にも絡めながら、ある程度科学的なアプローチがされていたので、本書ももう少しそうした話があるのかなと思っていて。
頑張れないって脳でどういう作用が働いているのか、などの認知機能的な話が聞きたかったんだと思います。
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「どうしても頑張れない人たち」が一定数存在しています。
頑張れないがゆえに、支援を必要としている人々。
「頑張ったら支援します」は、「頑張らなかったら支援しません」の裏返しです。
『ケーキの切れない非行少年たち』の続編です。
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作中:「頑張ったら支援します」は「頑張らなかったらどうなる」という気持ちにさせる。
自分はこの気持ちに何度もなったことがある。
「支援」と「頑張る動機」について考えさせられる本。
Memo
・権力を振りかざす事を「支援」と言う人。
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「頑張ったら支援します」
「では、頑張れなかったらどうなるのか?」
“頑張る”ことが必要とされる世の中で、
“頑張れない人”はどう生きていけばよいのだろうか。
わたし自身「どうしても頑張れない時期」を経験したことがある。
頑張れない時期に、周りから頑張ることを求められても、頑張れないのだから仕方がない。
怠けているって自覚はあるけど頑張れなくて
その上、怠けているように思われるのも嫌。
そんな状態から抜け出すにためには、
結局「頑張る」しかなかった。
ただ、「ほんの小さな頑張り」でよかった。
側からみたら頑張りでもなんでもない当たり前のような、小さな小さな頑張りが、
頑張れない状態から抜け出すきっかけになってくれた。
その後は周りも自分自身も驚くほどの活力で、生きていくことができた。
あのとき、私が心の中で求めていたことはなんだったのだろうか。
“どうしても頑張れない人”が、
心の中で求めていることはなんだろうか。