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非常に興味深い。筆者のストーリーテリングが非常に優れているからというのもあるが、興味深い。日本史というカテゴリ内で学ぶ一連の出来事(宮古島島民の台湾漂流、殺害、台湾出兵)は、1、2行で語られてしまうが、これだけ多くの背景があったことに驚く。清朝が台湾を化外の地と台湾を呼んだという逸話は聞いたことがあったが、それは台湾東部を指していたこと(清朝側の台湾地図に西側しかない)など、興味深くて震える。また琉球が如何に清朝を気にし、慮っていたかという逸話もたくさん出てくる。この辺りが中国にとって沖縄も自分達の領土(といっても現在の意味合いの領土ではないが)的なことを考える人々もいるのだろう。それを断ち切るための台湾出兵といった考え方が日本政府にあったらしいというのもまた興味深い。現地に漂流した宮古島島民を助けた客家人やら、原住民の一族やらの話も出てくるし、もし台湾の研究者側の推測が当たっているとすると、ただ勘違い・文化のすれ違いから起きてしまった大きな悲劇の可能性も示唆されている。とはいえ、起きた出来事は変わらず、また何故そのようなことが起きたのかを全て知ることは難しいだろう。でも、これはもっと多くの人に読まれるべき本だと思う。
P.33
宮古島の平良港のそばに立つ「ドイツ皇帝博愛記念碑」をご存じだろうか?(中略)一八七三年(明治6年)七月十一日に座礁難破したドイツのスクーナー型帆船ロベルトソン号の乗組員を、嵐の中から救出した宮古島島民の勇気と博愛精神をたたえた顕彰碑なのだ。(中略)ロベルトソン号の難破は、宮古島の住民にとっては、数ある外国線難破事件のひとつにすぎなかった。その日は数日前から台風がまだ収まらず、高波が強風をまいて岸辺に押し寄せていた。海岸の見回りにやってきた宮古島の役人が、海岸から一キロメートル以上も離れた珊瑚礁に乗り上げて傾いているロベルトソン号を発見する。しかし、強風が収まらず救助にとても行かれない。そこで、島の役人と村人たちは一晩中、海岸にかがり火を燃やし続けて乗組員たちを励ました。その間、村の在番所が緊急の救急センターとなって医師や警護の役人を集め、いつでも救助にあたれる体勢を整えた。
翌日、高波が収まる気配もない中、島民たちは小さな舟(サバニ)を出して沈みかかっている難破船から生き残りの八名(ドイツ人六名、中国人二名)を救助。宿泊所に指定された民家にひきとり、三十四日間にわたって手厚く介抱を続けた。人頭税に苦しめられ、自分たちの毎日の生活もままならぬというのに遭難者に食べ物を分け与え、重症者のために薬を探し回り、彼らの命を助けたのだ。そればかりではない。船が座礁したとき、高波によってロベルトソン号が中国福州から積み込んできた紅茶などの商品は、点々と海岸線にそって散乱してしまったが、その積み荷をできる限り回収し、出発まで大切に保管したのである。(中略)約一ヶ月後、宮古島の役人は首里の琉球王府にドイツ人を祖国に帰還させるために、船を出すよう那覇詣でを繰り返して要請したが、待てど暮らせど返事はなかった。(中略)そこで彼らは驚くべき決断をする。港でたまたま預かっていた琉球王府の船を、許可なしに出港させて福州まで彼らを送り届けたのである。しかも、羅針盤や航海に十分な食料と薪と水を与えて・・・。
P.38
琉球民遭難殺害事件が起きたのは、明治維新からわずか三年後の、一八七一(明治四年)十一月だった。この年の七月には、廃藩置県によって江戸時代からの藩はすべて廃止され、明治政府の断行する行政改革にともなって、江戸幕府のしはいかにあった全国の藩主は、知事や県知事に変わった。
しかし、琉球は他の藩とは事情が違った。
代々の琉球王は、中国の皇帝と冊封関係をもって朝貢してきた歴史があり、琉球王府は五百年も続く体勢を維持してきたからだ。そこで、明治政府は一計を案じた。
清国との冊封関係にある琉球王を、日本の朝廷、つまり天皇との冊封関係に置き換えるというかたちをとって、明治天皇が琉球国王を新たに琉球藩王として冊封し、そのうえで琉球藩を設置したのだ。いちおう鹿児島県(もとの薩摩藩と大隈国)の管轄下に置くものの、一八七九年(明治十二)年の琉球併合までは、明治政府からの内政干渉はそれほど行われなかった。
当時の琉球では、元号ひとつとっても中国と同じ暦を使って暮らしていたから、王府は、日本よりは中国への親和性のほうが高かっただろう。
P.56
日本側からの謝罪と償金の要求に対して、原住民が住む台湾の東側は「化外の地」であると清朝政府は言い逃れをした。つまり、事件が起きた地域は、自分たちの統治とは関係のない、文化が及ばぬ場所と突き放したのだ。
一七世紀から世界地図に登場した台湾の地図を、何種類も展示している台南市郊外の「国立台湾歴史博物館」へ行ってみるといい。どの地図を見ても、台湾は東半分が空白、といううか真っ白で、清国の統治が及んでいることを示す着色は西半分にとどまっている。
P.91
宮古島で事件の口伝や記録が少ない理由として考えられるのは、”首のない仏様”への、恐れや体裁の悪さもあったと聞かせてくれたのは、長年、事件の末裔の方々のお世話や取材を続けてきた沖縄大学客員教授の又吉盛清さんだ。
先祖の非業な死に、なにかよからぬ因縁やたたりや、魔物の類いなど、理屈を超えた悪いイメージを重ねてしまっているというのだ。(中略)実は、牡丹社やクスクス社のお年寄りたちも、琉球漂流民の殺害事件や日本軍との戦闘によって村を追われた悲劇の物語を、長い間口に出すことはほとんどなかった。それは、一八九五年から統治者として彼らの前に現れた日本人が怖かったこともあったろうが、よくない話をすると、悪い霊が村に凶事を運んでくるという言い伝えもあった。
P.143(被害者の末裔の野原さん)
先祖たちは、明治政府によって台湾出兵に利用されただけなのに、先祖たちの悲劇まで日本の侵略という文脈で解説されている記念講演の説明板には違和感がある。(中略)台湾では、牡丹社事件と言えば日本軍が台湾に侵略し、石門の戦いで原住民と戦闘を交えたことをさす。戦後の台湾を長く支配した国民党政権は、明治政府が行った台湾出兵を、かっこうの反日歴史教材としてとらえ、宣伝、教育を施してきた。
加害者は日本人。
彼の主張は、ヤマトと琉球を区別してほしいということにほかならない。
P.194
石門の戦いは、一八七二年に創刊したばかりの『東京日日新聞』が詳報した。新聞社から派遣された岸田吟香(一八三三ー一九〇五)が、日本初の従軍記者として現地から先頭の模様を熱血取材。彼の記事は国威発揚調の勇ましい内容で、”野蛮な凶賊”であるパイワン族を打ち負かした経過や、軍隊が日本へ連れ帰った原住民少女がどのように文明化されていったかなどを、今で言うワイドショーのようにリポートしている。(中略)記事の中で岸田は、台湾の原住民を、教化の必要な未開の民でちょうど日本の北海道に住む蝦夷人のような存在だと説明。好戦的で人肉を食べる習慣も持っているだど、偏見に満ちた言葉を並べ立てている。